震災から10年が経ち、コロナ禍を生きる
ーー この記事を読む人も今生きている人だから、その人たちがそういう、奇しくも10年経って今コロナ禍という苦難が来たじゃないですか。去年の春とかも東京ははっきり言ってパニックだったし。電車に乗るだけで恐怖だったしねっていうのはありました。だけど、それって「日本人は危機も冷静に受け止めるんだ」みたいなことをよく言いますが、事が起きている最中って全体像が分からないんですよね。自分のことで精一杯で。俯瞰して見られるわけじゃないっていう。
後藤:距離が取れないから俯瞰できないですもんね。
ーー 僕、10年前、後藤さんに会ったり、福島各地を回りましたが、編集者として原稿にしなきゃ、伝えなきゃって思いで行ったんだけど、一文字も書けなかったんです。何もかも馬鹿らしく感じて、俺が何を語るんだって。東京からいわば、物見遊山に行ったようなものじゃないですか。
後藤:文字通り言葉を失うというか、本当そうですね。
ーー 自分が映像の人だったらもしかしたらやれたかもしれない。カメラ回せばいいだけだったから。
後藤:そっか。でも、カメラ向けるのもつらかったと思いますよ。聞いた話ですが、公務員としてそれまでは市民課で住民票の受付をやっていたような人が「別部署に応援に行ってくれ」と言われて行ったら遺体と対面する安置所の担当だった、というようなことがあるわけです。最初は急に目の前に突きつけられて吐き気がして苦しくなったけれども、しばらくしたら業務としてできるようになった。
遺体が並んでいるところに行って遺族と対面しても、平気というか体がなんの反応もしなくなった。そんな自分自身に吐き気がしたっていう話があって。「心の絶縁体」みたいなものを無意識に作り上げて自分の感情をシャットダウンさせてでも、何とか適応させないと生き残れないから、無理やり適応させるみたいなことがある。医療関係者の方からも同様の話を聞いたことがあります。
緊急時は特にそういうことをやっちゃう。自分を生存させるためには不可欠なものなんだけど、でもその強烈な負の感情を一気に流すとバーンとなって心のブレーカーが落ちるから、ジワジワ、ピリピリしながら溜まりに溜まった喜怒哀楽の電気をもう一度流してあげないと、人間らしさとか自分らしさみたいなのが遠くなっちゃうのかなと思ってます。信頼できる誰かと一緒に、哀しみを哀しむとか、怒りをちゃんと怒ることって、実はものすごく大切で。嘆きを嘆くこともそうです。それが抑圧されてしまうと、喜びを喜んだり、楽しみを純粋に楽しんだりということが段々できなくなってしまうんですよね。
10年かけてちょっとずつ、話してて泣きそうみたいなので、心の絶縁体がちょっとずつ氷解して、感情のエネルギーがようやく流れるようになってきているのかなって気もしなくはないかな。
ーー 失恋じゃないけど、時が癒やすみたいなところはありますか?
後藤:それはあると思います。もしかしたら何気ない日常が中和してくれるっていうのはあるかもしれない。でも時間は万能かというとそうではなくて、処理しきれないどうしようもないものを抱えたままっていう人ももちろんいる。もしかしたらさっき言ったPTSDでグルグルしていて、過去のどこかで一時停止していて傷を負って囚われたままの状態の人ってそうなのかもしれなくて。心の一時停止ボタンをもし解除できたら、再生できるのかもしれないけど。
心理学でも「Post Traumatic Growth(PTG 心的外傷後成長)」っていう言葉があって。傷を負ったとしても、悲しかったけれどもつらかったけれども、それきっかけで強くなったこととか結果的に成長したことがあるよね、そういう側面も大事ですねという話です。
でも、これはものすごくセンシティブな話で、例えそれがそっくり事実だとしても、当事者ではない人から「災い転じて…」とか言われると、どうしてもカチン!とスイッチが入るというか。震災直後から今日までずっと、国内はもちろん、世界中の皆さんから福島はあれだけ助けてもらって、あんなに応援し続けてもらったのに、それがいきなり「ハァ!? オレらのごとなぁんもわがんねーくせしてカスかだってんなよ、オメェ!(はあ? こっちがどんだけつらい思いしたか何にも分かってないくせにふざけたことを口にするなよ、お前!)」みたいな心境に陥っちゃう。脳による思考や熟慮を全部すっ飛ばした脊髄反射にちょっと似てるのかも。自分でもよく分からないドロドロした生身の感情が瞬間的によぎって、それで泣き出したいような思いで反発してしまうんですかね。俺らとお前ら、みたいな線引きを無意識にしちゃうから。だからこそ、PTGは当事者自身の内側から確かな実感として湧き上がってきたものであることが大前提だと私は思うんです。もし不用意に扱えば、相手をいたずらに傷つけるだけになってしまう。
なのでPTGの話は、本当に腹くくらないと、言葉を吟味して念入りに準備した上でないと授業や講演会とかで話せません。目の前にどういう傷を負った方がいるか分からないですし。そうした中でカウンセラーにできることは「フォルダ分け」です。傷だらけの散々な、なんなら命を失いかけたみたいな記憶のフォルダに、今ならどんなタイトルを付けましょうかねっていうことを相談しながらやっていく。“Connecting The Dots”って話があったじゃないですか。
ーー 「点と点をつなぐ」というスティーブ・ジョブズの有名なスピーチですね。
後藤:星空を見て星座をつなぐみたいな話なんだけども、本来であればクリエイティブにどこをどうつないでもいいはずなのに、一本の単純な因果関係の線でしかつなげない瞬間もあったりします。
だけど、記憶のフォルダってパソコンのフォルダと同じで、タイトルが書き換え可能なんですね。いつか「こんなことがあったけれども今では成長の糧となった出来事」というようなタイトルを当事者自身が納得して、腑に落ちる形で付けられれば、もしかしたら前に向けるのかなと思いつつ。カウンセラーができることがその語りを聞いて受け止めて、その語りをどんなふうにタイトルにしましょうかね、って相談するみたいなところですね。認知行動療法とかナラティブセラピーみたいなちょっと専門的な話になっちゃうんですが。
でも、カウンセラーも危ういんです。カウンセリングの手法に「リフレーミング(別の見方を示す)」とか「リアプレイザル(物事の評価をやり直す)」というものがあるんですが、例えば、車を運転していたらすごいスピードで追い越して、ウインカーも出さずに前に入った車がいる、みたいなことがあると「なんだあいつ!」って思う。ただ「もしかしたらあの人、トイレを急いでるんじゃないかな」と思い直すと、「間に合うといいですね」と見送れるようになる、というのが「リアプレイザル」です。
学術的な細かい定義はさておいて、「リフレーミング」はほぼほぼ一緒の考え方と捉えて差し支えないと思います。目の前の出来事や過去に起きたことに対して再解釈する。認知的にその意味や定義を根本から見直して再編集してみる。要するに起きたことが主体じゃなくて、それを受け止めている自分自身にイニシアティブを取り戻すっていう作業です。よく「同じ絵でも、額縁を変えると雰囲気が違って見えますね」という説明をしますが、もっとダイナミックな解釈の仕方もあるそうです。自分というカメラがあるとして、そのファインダーの画角=フレームに何をどう収めて何をカットするのか、世界の切り取り方そのものを自らの意志で主体的に選び直すというか。
ーー 視点の話ですね。
後藤:そう。視座を変えると見えなかったものが見えてくるよねって話だったりするのですが、当事者ではないカウンセラーからいきなりそう言われると、やっぱり「はあ?」ってなる。
ーー でも、やっぱり人間ってつらいときって視点を変えて見ることってあるじゃないですか。「俺よりもっとひどい人がいるんだから」って自分を慰めることもあるし。
後藤:確かに。「あの不幸な人に比べれば相対的にまだマシな俺」という考え方が、一時的に気もちを軽くしてくれるようなことはあるかと思います。ただ「サバイバーズ・ギルト(生き残った者が抱く罪悪感)」という言葉があるんですが、申し訳なさとか、後悔とか自分を責める思いが湧いてくる人もいます。
でも、そんなふうに目に見えない指先を自分自身に突きつけて責め続ける生き方って、欲しいものも手に取れないし、真っ直ぐ前を向くこともできない。そこで自分に向けた指を一旦下ろして、肩の力を抜いて、本当はどうしたい? 何したい? という問いかけができたらいいけど。
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