メディアの報道に対してどう感じていたのか?
ーー 例えば、テレビ、NHKとかもそうだし、メディアも本当に福島の人が困っていることに迫ろうとはしていたと思うんですよね。取材で声を拾おうとしていたとは思うんですが、それよりも福島は地震と津波と原発っていう三つの組み合わせの困難に襲われて、もう半分失神しているというか。声も出せない、そんな印象も受けたんですよね。
後藤:途方に暮れたし、急に注目を浴びたというのもあります。
ーー “FUKUSHIMA”とアルファベットになったりとかしたじゃないですか。
後藤:あれは「現地」にいる人からすれば、いつの間にっていうか。日本だと海外の方が片言の発音でヒロシマとナガサキは言う、オキナワも言う。それが、誰かが「フクシマダイイチ」って発音したんです。
ーー 笑えないですね。
後藤:福島県福島市生まれの自分からすれば、オレの故郷が一体いつからカタカナになったんだと思って。アメリカの有名な仏教哲学者の人が「フクシマダイイチ」って片言で言うのを聞いて、「え!? フクシマだけじゃなくて、そこにダイイチもくっつけんの?」とびっくりしたことを覚えています。地元民ではない人が口にしてしまうとやはり違和感があります。
「福島は何もないから仙台に行こう」「東京に行きたい」っていうのがこれまではOKだったのに、ちょっと今は言っちゃいけないのかなって思う時期がしばらくありました。故郷のためにとか郷土愛とかって言わないと、という。福島が元々パッとしないじゃないかと言っては申し訳ない時期があった。
ーー ネガティブな部分でメジャーになってしまった。
後藤:いわゆる風評被害ですよね。農家の方とか海で仕事されている方もそうだろうし、旅行とか旅館とかホテルもそうだし、レストラン・飲食関係もそうだし、教育関係もそうだし。今福島に生徒を送るわけにはみたいなとかもそうだし。そんなのはずっと10年続いています。
ーー ところで、後藤さんの心理状態っていうのはPTSDじゃないですけど、この10年間でどのように変化していったんですか?
後藤:高1から日記を付けていたのですが、悩める若い自分は、ブルーハーツが好きで、学校に行かず映画館に行って、という生活でしたが、震災からしばらく日記に何も書けなくなりました。本当にさっき言った「ハネムーン期」から「幻滅期」みたいな真っ只中で。最前線で傷ついている人に会い続けてきたからだと思います。
その当時、環境放射線量っていう概念がまだよく分かってなくて、ベクレルとかシーベルトっていう単語すら分かっていなかったから、おそらくかなり線量の高い地域にも訪問していると思います。そんなことも相まって真っ逆さまに落ちて、「何してるんだろう?」「何がしたいんだろう?」という状態になりました。
でも、その時はフリーランスの臨床心理士として、スクールカウンセラーやスクールソーシャルワーカー、企業や自治体、社会福祉団体等でのメンタルヘルス研修講師、教育関係者とか一般市民らを対象にしたカウンセリング技法や対人コミュニケションワークショップのファシリテーター、それからファシリテーショングラフィッカーなんかをしながらという、あっちこっちでノマドワーカーのような働き方をしていたんですね。
ーー いわゆるパラレルキャリアですね。
後藤:はい。相当とがったパラレルキャリアをやっていたんですが、一カ所に落ち着いてやってみようと思い、今の短期大学で教員になりました。でも、やっぱりそこでも頭の中はグルグルしていました。「何やってるんだろう?」「何をしているんだろう?」と、自問自答で答えが出ないみたいな感じが続きました。振り返ると、こうやって思いつくまま話をしながら、自分でも今初めて気づいたんですけど…、許してもらいたい気もちだったんですよね。ずうっと。役立たずでしかなかった情けない自分のことを、許してもらいたかった。実際あの時、避難所にいた皆さんは自分の存在なんて覚えてすらいないんだろうけど。でもどうしても、自分で自分を許せなかった。償わせてほしかった。だからおこがましい言い方になっちゃうのを承知で言うと、そこから、一気に燃え尽きてしまうような勢いで、がむしゃらに頑張り続ける自分を止められなくなって。あのころの私は、多分抑うつ状態だったと思います。
ーー だけど、皆が抑うつだったとも言えますよね。
後藤:そうだと思います。
ーー 放射能を恐れて東京から脱出するって人も多くいましたね。
後藤:その当時の福島以外の土地の話とかって、すごく興味、関心があリます。東京から西に出ようって思う人がいたとか。
ーー 関西とか四国、九州とかに移住した人も知り合いだけでも20人ぐらいいましたね。さらに言うと熊本に移住して熊本地震でに遭ったって人もいますね。
次ページ:職場を固定することで安心感を得た