CULTURE | 2021/08/19

ビル・ゲイツに怒鳴られ、坂本龍一に理解され【連載】サム古川のインターネットの歴史教科書(3)

聞き手:米田智彦 構成:友清晢

古川享
1954年東京生まれ。麻布高校卒業後、和光大学人間関係学科中退。1979...

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聞き手:米田智彦 構成:友清晢

古川享

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1954年東京生まれ。麻布高校卒業後、和光大学人間関係学科中退。1979年(株)アスキー入社。出版、ソフトウェアの開発事業に携わる。1982年同社取締役、1986年3月同社退社、1986年5月 米マイクロソフトの日本法人マイクロソフト株式会社を設立。初代代表取締役社長就任。1991年同社代表取締役会長兼米マイクロソフト極東開発部長、バイスプレジデント歴任後、2004年マイクロソフト株式会社最高技術責任者を兼務。2005年6月同社退社。
2006年5月慶應義塾大学大学院設置準備室、DMC教授。2008年4月慶應義塾大学大学院メディアデザイン研究科(KMD)、教授に就任。2020年3月慶應義塾大学大学院メディアデザイン研究科を退職。
現在の仕事:N高等学校の特別講師。ミスルトウのシニア・フェロウ他、数社のコンサルティング活動
http://mistletoe.co
Think the earth, NGPFなどのNPO活動
http://www.thinktheearth.net/jp/
https://www.thengpf.org/founding-directors/

僕がマイクロソフトを出禁になったワケ

僕が1978年から出向し、副社長を務めたアスキーマイクロソフト株式会社は、主にMS-DOSやBASICのライセンス、また、80年代以降にはMSXの販売を手掛ける会社だった。マイクロソフトの資本が入った会社ではなく、あくまで日本国内の総代理店という立ち位置の会社だ。

ところが、この会社を立ち上げた西和彦さんというのは、マイクロソフトの基本ソフト領域で素晴らしい功績を数々打ち立てた人物ではあるものの、契約法務事務や金勘定といったことになると、てんであてならないことで有名な人でもある。なにしろアメリカ本国から次々に魅力的な案件を取っては来るものの、その後の契約締結、納品などはほったらかし。アメリカに送金しなければならないお金をいつの間にか他の目的に使ってしまっていたこともあったし、気がつけば何期分も税金を滞納していた、なんてこともあった。

MSXはそれなりに売れてはいたが、まだまだ事業規模は知れていて、僕がアスキーマイクロソフトに出向した時点で、なんと9億円もの借金を抱えている状態だった(新卒で入社したばかりで後に社長を務めるスティーブ・バルマーの初仕事)のだ。まずはこれをどうにかすることが、副社長としての僕の務めだった。

とにかく稼がなければならず、あれこれ商材を考える。使い勝手がよく、売上げが伸びそうなものに次々に手を出し、たとえばC言語で書かれた「Informix」というアメリカ製のデータベースのライセンスを売ったり、ジャストシステムという会社とワープロソフトの開発を進めたり、僕は様々な事業を動かした。ちなみにこの時、ジャストシステムが開発していたのが、「一太郎」の前身となる「JS-WORD」である。

しかし、本国のマイクロソフトからすれば、「Wordがあるのになぜよその企業にワープロを作らせているのか」となるし、データベースにしても、すでにAccessの開発を進めているタイミングだったから、微妙な思いで僕の動きを見ていたはずだ。

もっとも、こちらからすれば、Accessのようなソフトで本格的な業務運用を目指すのは無理があり、だったらUNIXの上でデータベースを稼働させるほうが理に適っているという言い分があった。要は、AccessとInformixの棲み分けは可能であると考えていて、実際この当時、日本でのマイクロソフト製品のPCメーカー向けOEMライセンスの売上げは、世界のどの国よりも良かった(WordやExcelなどの小売商品に限っては、 仏、独、英に次ぐ4位)のだ。

1984年、シアトルのフォーシーズンホテルのガラルームに、マイクロソフトの関係者300人ほどが集められて、盛大なクリスマスパーティーが催された。そこで僕の姿を見つけたビル・ゲイツが、つかつかとこちらに歩いてきて、30センチほどの距離まで顔を近づけて突然こう言った。

「裏切り者! ここから出ていけ!」

てっきり業績を褒められるのかと思っていたので、この不意打ちには心底驚いた。これ以降、僕は2年にわたってマイクロソフトを出禁になってしまった。

32歳でマイクロソフト日本法人の社長に

すっかりビル・ゲイツを怒らせてしまった僕はその後、ソフトウェア開発本部という部署で、独自のソフトの開発にあたることになるのだが、転機が訪れたのは1986年のことだ。

この年、マイクロソフトは8年間に及んだアスキーとの代理店契約を解消して、日本法人マイクロソフト株式会社を設立することを決めていた。そこで慌てて日本法人のトップを務める人材を探さなければならず、僕は数名の人物をリストアップして提案したが、どれもビル・ゲイツのお眼鏡には叶わず。

最終的には彼の方から、「やっぱりマイクロソフトの事業をよく理解していて、心から愛してくれているのは、サム、お前なんじゃないか」と言い出して、僕は初代社長の命を受けることになる。2年前の剣幕がうそのような穏やかな表情に、いささか戸惑ったものである。

この時、1つだけこちらからビル・ゲイツに強く要望したことがある。

「マイクロソフト・ジャパンという会社名だけはやめてくれ。マイクロソフト株式会社という名前だったら社長をやる」

というのも、当時すでに外資系企業の日本進出が相次いでおり、どこもかしこも「○○ジャパン」という会社名で溢れかえっていたからだ。おまけに外資系特有の厳しさで、成果がでなければ給料がもらえない、何かあればドライに解雇されるという、冷たい社風に世間はあまり良いイメージを抱いていなかった。

だから、マイクロソフト日本法人の初代社長として語られることが多い僕だが、登記上は先に、マイクロソフト・ジャパンの社長がシアトル本社に存在している。僕はあくまで、マイクロソフト株式会社の初代社長ということだ。

なお、ネット上では僕がアスキーから十数名のスタッフをマイクロソフトに引き抜いたと都市伝説的に囁かれているが、それは事実ではない。

マイクロソフトの社長に就くにあたり、アスキーの役職を降りなければならず、その時にアスキーの人事部が、「古川が離職して独立するが、付いていきたい者はいるか」というインタビューを全員に行なった。そこでYESと回答した人材を、出向扱いでマイクロソフト入りさせたというのが真相である。これが。僕が32歳の時のことだ。

これらのアスキーとの代理店契約を解消し、直接子会社を設立することになった事実背景は、マイクロソフト本社が米国の証券取引所に提出した「上場目論見書」に詳しい。

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幻に終わったアップルからの社長就任オファー

余談だが、この当時の日本のITまわりというのは人材が限られており、何人かの人材が有力企業をぐるぐると回っているようなことがよくあった。90年代に入ってから、実はアップル・ジャパンからも僕の元に社長就任のオファーがあった。ちょうど、スティーブ・ジョブズが職を離れていたタイミングである。

僕はそこで、「ソニーからリリースされたばかりのVAIOシリーズを、Macintoshのプラットフォームに切り替えるミッションを与えてくれるなら、引き受けてもいい」と答えた。それに対する本社の返答はこうだ。

「日本市場は商品だけ売っていればそれでいい。余計なことは考えないでくれ」

さほど期待していたわけでもなかったが、物を売るだけなのであれば、商社でも流通でも、他にいくらでも相応しい人材がいるだろう。わざわざ僕が社長をやる意味などない。それでこの話は立ち消えになった。

もしアップルが僕の提案にのってくれていたら、iMacではなくVAIOが市場を席巻していたかもしれない。そう思うと少し残念だが、あとから聞いたところによると、当時、実際にソニーの出井伸之社長が同じような提案をアップルにしていたという。つまり目の付け所は悪くなかったわけだ。

僕が思い描いていた理想形は、ユーザーがVAIOをブートアップした際、最初にWindowsOSかMacintoshOSかを選べる仕様なのだが、実現に至らず返す返すも残念である。(これは、KMD時代にスリランカから留学していた学生が実現してしまった。)さらに、今でいうiPod/iTunesの代わりをWalkmanとMoraが共通プラットフォームとして担えた可能性もあったのに――。

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Windows95発売時の仕掛けに奔走

話は戻るが、僕はマイクロソフト株式会社の社長を拝命する際、本国にあらかじめ伝えておいたことがある。それは、「僕は0を1にするのは得意だが、1を10に、10を100に伸ばしたいのなら、もっと適任が日本には大勢いますよ」ということだ。だから、社長を務めるのは長くても5年までにしてほしい、とも。

これはその通りになり、僕はきっかり5年後の1991年に社長を退任、会長に就任している。だから1995年のWindows95発売の時の役割は、裏方としてサポートしていた程度に過ぎない。

たとえば、このOSを大々的にインフルエンスさせるにあたっては、やはり誰か著名人のネームバリューをお借りするのが手っ取り早い。しかし、当時はクリエイティブといえばMacintoshというイメージが強く、クリエイターやミュージシャンは皆、こぞってMacintoshを愛用していた。

そこで僕は、スリムタイプのノートパソコンの先駆的存在である「HiNote」というパソコンを自費で15台ほど購入し、付き合いのあるミュージシャンや芸能人の方に配布した。まだ1台90万円もする時代だったから、相当な出費だ。

何しろ当時はまだ、WindowsOSに対するアレルギーが強い時代で、中には「マイクロソフトは悪の帝国みたいな会社だ」、「そのトップの古川享というのはダース・ベイダーみたいなものだ」が、坂本龍一さんに会った時の最初の言葉だった。

それでもコンサートに同行するローディのように懇切丁寧なセッティングと環境設定で、どうにかHiNoteを使ってもらおうと奔走した(全国ツアーの追っかけ)ところ、少しずつWindows95の機能と操作性に理解を示してくれる人が現れ始めた。その1人が坂本龍一さんだ。他に幅広い業界の方々に私自身がエバンジェリストとして、Windowsの普及に務めた。(IT業界の初代エバンジェリストとして有名な、マイク・ミュレーは、スティーブ・ジョブス殿と一緒にMacの普及のために、ミック・ジャガーやマドンナを訪問した人物で、後年はマイクロソフト本社の人事部長であった。私のエバンジェリストとしての作法と所作は、彼の直伝!)

坂本龍一さんを発表会のステージに引っ張り出すことに成功したおかげで、Windows95というOSの認知が深まり、それが大ヒットの一因に繋がったと僕は思っている。

(つづく)