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渡辺由佳里 Yukari Watanabe Scott
エッセイスト、洋書レビュアー、翻訳家、マーケティング・ストラテジー会社共同経営者
兵庫県生まれ。多くの職を体験し、東京で外資系医療用装具会社勤務後、香港を経て1995年よりアメリカに移住。2001年に小説『ノーティアーズ』で小説新潮長篇新人賞受賞。翌年『神たちの誤算』(共に新潮社刊)を発表。『ジャンル別 洋書ベスト500』(コスモピア)、『トランプがはじめた21世紀の南北戦争』(晶文社)など著書多数。翻訳書には糸井重里氏監修の『グレイトフル・デッドにマーケティングを学ぶ』(日経ビジネス人文庫)、レベッカ・ソルニット著『それを、真の名で呼ぶならば』(岩波書店)など。最新刊は『ベストセラーで読み解く現代アメリカ』(亜紀書房)。
連載:Cakes(ケイクス)|ニューズウィーク日本版
洋書を紹介するブログ『洋書ファンクラブ』主催者。
著名作家による「ベストセラー伝記」が突如絶版に

問題となったブレイク・ベイリーの『Philip Roth: The Biography』
4月27日、『ニューヨーク・タイムズ』紙に「ノートンがフィリップ・ロスの伝記を絶版に(Norton Takes Philip Roth Biography Out of Print)」という記事が掲載された。
問題の書籍は2018年に亡くなった著名なアメリカ人作家フィリップ・ロスの伝記『Philip Roth: The Biography』で、今年4月6日に発売されてすぐに『ニューヨーク・タイムズ』紙と『ロサンゼルス・タイムズ』紙でベストセラーリストに入っていた。著者のブレイク・ベイリー(Blake Bailey)はこれまでにリチャード・イェーツやジョン・チーヴァーなどアメリカの小説家の伝記を書いたベテラン作家であり、本作は2012年にロス自身が許可を与えた「公認」の伝記である。未発表の作品や個人的な書簡などもロスが与え、取材にも無制限に応じたという。企画スタートから9年後の2021年に発売された、880ページもの大作だ。
出版社が突然出版を取りやめる理由としてすぐに思いつくのは、内容に大きな間違いか盗用があった場合である。だが、この場合はそうではない。「伝記著者のベイリー氏が複数の女性に対して性暴力をふるい、彼が8年生(中学3年生)の国語教師をしていた時に学生に対して不適切なふるまいをしていた」という疑惑に対するW. W. ノートン出版社の決断だった。ノートン社のジュリア・A・リードヘッド社長は、フィリップ・ロスの伝記だけでなく、ベイリー本人の自伝も「永久に絶版にする」と発表した。ロスの伝記でノートン社がベイリーに支払ったアドバンス(前払い金)は5千万円前後だと推定されているが、ノートン社はそれと同額を性暴力とセクシャルハラスメントの被害者の支援団体に寄付することも誓約した。
ノートン社がこの決断をしたのは、社の姿勢としてベイリーを擁護できないことが明確になったからだろう。作家の代理で契約を結ぶエージェンシーは作家を守ることも仕事のひとつなのだが、ベイリーと契約していたストーリー・ファクトリーはノートン社の発表より1週間ほど前にベイリーと縁を切った。ベイリーは、エージェンシーと出版社の両方から見捨てられたことになる。
ベイリーが書いたフィリップ・ロスの伝記を絶賛する書評もあったが、ロスとベイリー両方の「ミソジニー(女性蔑視)」の姿勢を批判するものも少なからずあった。そのひとつが、4月16日にウェブメディア「Reluctant Habits」の編集長で作家のエドワード・チャンピオンが書いた「ブレイク・ベイリー、無頓着なミソジニスト、熱意たっぷりのごますり(Blake Bailey, Casual Misogynist and Eager Rube)」という批判的なレビューだ。だが、この場での批判は作品を越えて作家に移っていった。記事のコメント欄で、ベイリーが過去に教えた生徒2人が彼による女子生徒の性的グルーミング(ターゲットにした相手が性被害を受け入れやすくなるように、時間をかけて手なづけていく手法)、レイプ、性暴力を告発したのだ。チャンピオンはそれらのコメントを受けて、ベイリーが教師だった頃の行動を調査した続編記事「(少女たちを)巧みに操ったブレイク・ベイリーの邪悪な生活(The Dark Manipulative Life of Blake Bailey)」を書いている。
ニューオリンズの地方紙「The Times-Picayune | The New Orleans Advocate」と『ロサンゼルス・タイムズ』紙も、ベイリーによる性的不正行為やレイプの告発について詳しく報じた。
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相次ぐ元生徒からの告発

『Philip Roth: The Biography』に掲載されたフィリップ・ロスが関係を持った女性にまつわる写真
ベイリーは1990年代にニューオリンズのラシャー・スクールの国語教師をしていた。ラシャーは天賦の才がある中学から高校生を対象にした「マグネットスクール」である。複数の元生徒たちの証言によると、彼は12歳から14歳の女子中学生に対して理解がある指導者のふりをして接近し、その子が自分にとって特別な存在であると思い込ませ、性的な質問やジョークをして手なづけていく「グルーミング」を行った。そして、それらの少女が学校を卒業した後でも親しい関係を取り続け、彼女たちが18歳(性行為が「法的レイプ(statutory rape)」とみなされない年齢)になった時に2人きりになる機会を設けて性交渉を持った。
これらのメディアの取材で複数の生徒がベイリーと性交渉を持ったことを告白し、1人は途中で逃げたことを語った。また、ベイリーの元生徒イヴ・クロフォード・ペイトンは実名で彼からレイプされたことを訴えた。それに対してベイリーは「役には立たないことかもしれないが、問題となっていることが起こった夜には君は8年生(中学3年生)ではなかった。君は20代で僕は30代(になったばかり)、念のために言うと僕は君が8年生の時には君に魅了されていなかったし、その女子が自分の学生だった時には誰にも手をつけていない」とEメールで答えている。同じく元生徒のカリン・ブレアもレイプを訴えている。別の記事には、ベイリーがブレアのイヤーブック(学年終了ごとに作る卒業アルバムのようなもの)に書き込んだメモも掲載されている。
ベイリーの元生徒たちの話で一致していたのは、教師のベイリーが女子生徒たちと「気があるようなやり取りを交わし、恋愛について告白するように促し、彼女たちがまだ高校生の時に小説『ロリータ』を読むよう命じた」というパターンだ。成人男性が少女に『ロリータ』が崇高な恋愛を描いた小説だと思い込ませて同様のロマンスを演じさせようとするパターンがアリソン・ウッドの体験を語った回想録『Being Lolita』とあまりにも酷似しているために、ウッドもベイリーに教わったのかと思って確かめたほどだ(結局は別人だったのだが、それほどこういうタイプの教師は多いのかもしれない)。
ベイリーのレイプを告発しているのは元生徒だけではない。出版業界で役職についているヴァレンシア・ライスは、知人の書評家の家に泊まっている時にベイリーにレイプされた。それが起こったのは2015年のことで、ライスは周囲の身近な人に打ち明けただけで公には沈黙を守っていた。けれども、#MeTooムーブメントに勇気づけられ、2018年にベイリーの作品を出版していたノートン社のリードヘッド社長と『ニューヨーク・タイムズ』紙にレイプがあったことを伝えた。しかし、リードヘッドからの返答はなく、かわりにベイリーから「私はいかなる形でも同意がないセックスはしたことがない」「私には私を敬愛して頼っている妻と年若い娘がいる」「あなたの良識に訴えかける」と自分の評判を守るために徹底的に戦う姿勢のEメールが届いた。リードヘッドは、ライスの訴えに誠実に対応するかわりに、訴えを加害者に転送したのだ。その出来事で弱気になったライスは『ニューヨーク・タイムズ』紙からの取材に応えなかった。
2018年にライスの告発を無視してベイリーを守ったノートン社がその態度を続けることができなくなったのは、ベイリーの元生徒たちの告発があったからだろう。しかも、被害者が次々と名乗りを上げているからこれ以上無視すると社の信頼に関わる。
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#MeTooムーブメントが巻き起こすビジネス環境の変化
とはいえ、フィリップ・ロスの伝記を絶版にするのはノートン社にとって経済的にダメージが大きい。
締め切りまでに原稿を納品できなかったなど作者が契約を破った場合には、作者は出版社にアドバンスを払い戻さなければならない。けれども、出版社の方が出版を取りやめた場合には作者はアドバンスをキープできる。この場合には後者なのでノートン社がベイリーに支払ったアドバンスは戻ってこないだろう。加えて、ノートン社は同額を支援団体に寄付することも誓った。また、ノートン社は初版で5万部を刷って宣伝にも力を注いでいた。それらがすべて無駄になったのだ。リードヘッドはきっと「あの時ライスの告発を信じて調査していたら……」と悔やんだことだろう。
今は亡きフィリップ・ロスもあの世で自分の人選を後悔しているかもしれない。自分の人生を後世に伝える重要な伝記が絶版になってしまったのだから。ロスはもともと自分の伝記を書く作家として、著名な劇作家であるアーサー・ミラーの甥のロス・ミラーを選んでいた。2人は仲が良かったのだが、ミラーが書く内容にロスが口出しをしすぎて仲違いになり、企画は没になったと言われている。ベイリーはその後に企画を持ち込み、ロスから気に入られて公認の伝記を書くことになったのだ。
#MeTooムーブメントが始まってからハリウッド映画業界は変化してきたようだが、出版業界も変わってきた。2008年の大統領選挙を題材にしたベストセラー『Game Change』の共著者のマーク・ハルペリンは、複数の女性がセクシャルハラスメントを訴えたために2016年大統領選挙の本の出版がキャンセルされてしまった。また、ウディ・アレンの自伝の場合には外部からの批判だけでなく、出版社の従業員がwalkoutというオフィス退場ストライキをして反対したためにとりやめになった。
#MeTooムーブメント以前には、作家に悪い噂があっても出版社は無視して本を出すことができたし、ベストセラーにすることもできた。だから、悪い噂がある作家を守る方が経済的に有利だったのだ。しかし、社会は変化し、悪い慣習が変わらざるを得なくなってきている。
「良識」よりも「金」の方が業界の風習を短期間に変える説得力があるとしたら残念なことだが、「悪い噂がある作家の本を出版するのは経済的にリスクが高すぎる」という認識が広まるのは業界そのものにとって良いことだと思う。出版社は契約を結ぶときに性的不品行の噂がある人物について注意深くなるだろうし、有名作家でもエージェンシーと出版社から見放されるとわかったら、これまで気軽に性暴力やセクシャルハラスメントをしてきた作家も態度を改めることだろう。
また、有名人が自分の伝記を公式に書かせる時には悪い噂がない作家を選ぶようになるだろう。フィリップ・ロスのように自分の伝記が別の意味で有名になることだけは避けたいだろうから。