#MeTooムーブメントが巻き起こすビジネス環境の変化
とはいえ、フィリップ・ロスの伝記を絶版にするのはノートン社にとって経済的にダメージが大きい。
締め切りまでに原稿を納品できなかったなど作者が契約を破った場合には、作者は出版社にアドバンスを払い戻さなければならない。けれども、出版社の方が出版を取りやめた場合には作者はアドバンスをキープできる。この場合には後者なのでノートン社がベイリーに支払ったアドバンスは戻ってこないだろう。加えて、ノートン社は同額を支援団体に寄付することも誓った。また、ノートン社は初版で5万部を刷って宣伝にも力を注いでいた。それらがすべて無駄になったのだ。リードヘッドはきっと「あの時ライスの告発を信じて調査していたら……」と悔やんだことだろう。
今は亡きフィリップ・ロスもあの世で自分の人選を後悔しているかもしれない。自分の人生を後世に伝える重要な伝記が絶版になってしまったのだから。ロスはもともと自分の伝記を書く作家として、著名な劇作家であるアーサー・ミラーの甥のロス・ミラーを選んでいた。2人は仲が良かったのだが、ミラーが書く内容にロスが口出しをしすぎて仲違いになり、企画は没になったと言われている。ベイリーはその後に企画を持ち込み、ロスから気に入られて公認の伝記を書くことになったのだ。
#MeTooムーブメントが始まってからハリウッド映画業界は変化してきたようだが、出版業界も変わってきた。2008年の大統領選挙を題材にしたベストセラー『Game Change』の共著者のマーク・ハルペリンは、複数の女性がセクシャルハラスメントを訴えたために2016年大統領選挙の本の出版がキャンセルされてしまった。また、ウディ・アレンの自伝の場合には外部からの批判だけでなく、出版社の従業員がwalkoutというオフィス退場ストライキをして反対したためにとりやめになった。
#MeTooムーブメント以前には、作家に悪い噂があっても出版社は無視して本を出すことができたし、ベストセラーにすることもできた。だから、悪い噂がある作家を守る方が経済的に有利だったのだ。しかし、社会は変化し、悪い慣習が変わらざるを得なくなってきている。
「良識」よりも「金」の方が業界の風習を短期間に変える説得力があるとしたら残念なことだが、「悪い噂がある作家の本を出版するのは経済的にリスクが高すぎる」という認識が広まるのは業界そのものにとって良いことだと思う。出版社は契約を結ぶときに性的不品行の噂がある人物について注意深くなるだろうし、有名作家でもエージェンシーと出版社から見放されるとわかったら、これまで気軽に性暴力やセクシャルハラスメントをしてきた作家も態度を改めることだろう。
また、有名人が自分の伝記を公式に書かせる時には悪い噂がない作家を選ぶようになるだろう。フィリップ・ロスのように自分の伝記が別の意味で有名になることだけは避けたいだろうから。