吉川 聡一 (よしかわ そういち)
吉川紙商事株式会社 常務取締役執行役員
1987年東京生まれ。学習院大学卒業後、飛び込み営業を含む営業職の期間を2年半経て、現在の吉川紙商事に入社。現社長・吉川正悟が掲げる「人と紙が出合い、人と人が出会う」を実現するため、同社にて平成25年より取締役を務める。2017年にはオリジナルブランドの「NEUE GRAY」を、2020年には和紙のオリジナルブランド「#wakami」をプロデュースし、紙、ステーショナリーの双方を発売。現在はそれらを国内外にて販売するという形で活躍を続ける。
「日本の紙の歴史」においても極めて特殊な「平安時代」
現在、NHKの大河ドラマ 「光る君へ」 が放映されています。この話は源氏物語の著者である紫式部を描いたものですが、私がこの原稿を書いている少し前の時期に、ドラマの中の主人公である 「まひろ」 が、京都を離れ、越前和紙の里である福井県の越前市にて彼女の人生を過ごす時間が描かれていました。
私がここで改めて言う話でもありませんが、彼女が生きた 「平安時代」。日本の歴史の中においても、貴族たちによる華麗なる生活が広げられていたこの時期は、紙にとっても極めて特殊な時間でした。この時代には紫式部の 「源氏物語」、清少納言の 「枕草子」、紀貫之の 「土佐日記」 などの素晴らしい文学小説が生まれており、紙とは因果関係のある時代です。今回は 「日本の紙の歴史について」 の全4回の2回目。平安時代だけにスポットライトを当てて記載させて頂きたいと思います。
実はこの時代。上記の文学小説もそうですが、「平仮名」 や 「料紙」、そして現在の手紙のやり取りを指し示す 「文(ふみ)の文化」 など、これまでの男性中心の時代とは違って 「女性」 が発展させてきたものが多々存在します。そして、それらは比較的、紙にまつわるモノに多く存在しているのです。では、どのようにして、それらができてきたのか?順を追ってご説明させて頂きます。
まず初めにこの時代の紙を語る上で、最も大きな出来事は現在の和紙の製法技術である 「流し漉き」 が確立したことです。これまでは 「水に浸した木の繊維の入っている桶から、桁と呼ばれる網で繊維を掬い上げて、それを乾かすことで作る」 といった手法で紙を作っていたのですが、この 「流し漉き」 は 「水の中にネリと呼ばれる天然由来の接着剤を混ぜ、それを桁と呼ばれる網の上で木の繊維を揺らし、繊維同士を絡ませた後に乾かすことで紙を作る」 といった方法に変化させました。
言葉で書くとなんだか難しい気がしますので、もし気になる方は 「和紙 作り方」 等と調べて頂ければ…と、思います。おそらく、多くの人が見たことのある、職人が2人ほど立って息を合わせて、水の入った木枠を揺らしている映像が出てくると思いますので…。
1,000年以上経った現在も続く「和紙」の製造方法
日本人なら一度は見たことのあるこの技法は、この時代に出来て以降、1,000年以上経った現在も使用されている手法であると同時に、日本でしか見ることのできない製造方法となっています。その理由は 「日本の水の多くが軟水であったから」 だけなのですが、この日本独自の水や豊富な木々をはじめとした豊かな自然と、この技法こそが 「和紙」 という特殊なブランドを作り上げている…と言っても過言ではないと思います。
では、なぜこの技法は1,000年以上も使われるのか?
特徴は主に2つ。1つ目は 「ネリ」 と呼ばれる天然由来の接着剤を使用できるため、薄いながらも強度の強い紙が製造できるから。日本には 「モノを包む」 という文化がありますが、これは 「薄くて強度のある紙があったから、この文化が出来た」 と言われています。自分で試せばすぐ分かりますが、紙が分厚ければなかなか折れ目を付けることが難しいですし、小さい紙では物を包めませんよね。
確かに納得のいく理由な気がします。
そして、2つ目は 「ネリ」 を使うことで大きいサイズから小さいサイズまで、多様な大きさと多様な厚さの紙を製造出来るからです。この後出てくる、襖や屏風、障子紙などインテリアに使うような紙は、極めて大きく、重たいものです。紙というのは、元々は 「木材」 ですので、使う量が増えれば重くなるのは当然です。しかし、それを 「漉く」 のに何十人もかけて行っては、とても息を合わせて繊維を揺らすことなど不可能です。そんな時にこの天然由来の接着剤である 「ネリ」 が活躍します。ある程度の大きさにして漉いた紙を、乾燥する前に重ね合わせて大きな1つの紙にすることで、繋ぎ目のない、大きな紙ができる…というわけです。この方法ならば、何箇所かで同時に漉き始めれば良いわけですので、大きい紙も分厚い紙も作ることが可能ですね?さらには、「ネリ」 が使えることで、木の繊維の流れ方向を合わせることができる訳ですので、1,000年以上もこの手法を使い続けるのも納得です。
宮中の女性たちのもとに「紙」が届いたことで新たな文化が産まれる
余談にはなりますが、日本語で紙を作ることを 「漉く」 と言いますが、諸外国ではこの 「漉く」 の語源は 「すくう」 だと言われています。しかし、日本だけは 「繊維を並べる」 と意味が用いられており、それはこの 「流し漉き」 のことを指し示しているのでからである・・と、言われています。本当なのかどうか、曖昧なところありますが…
長くなりましたが、この 「流し漉きという製法の確立」 がこの時代の紙においての最大の出来事でした。
では、この 「流し漉き」 が出来たことで、一体、どんな影響があったのか?
それは 「厚い紙」=「高級な紙」 という概念が生まれたことです。前のコラムにも書きましたが、この当時、紙はご奉納品。そして、この時代は現在と違って、完全なる男性中心の身分社会でしたので、身分の高い男性貴族は自分の使用したい紙を選ぶことができました。彼らはこのような環境の中、新しく時代の中で誕生してきた 「厚い紙」 を面白がり、積極的に使用しました。今風の解釈をすれば、「新商品が出て、ムーブメントがそちらに移行した」 と言った具合でしょうか。
しかし、そこはご奉納品ですので、ムーブメントがあるからと行って、全てが厚い紙になるわけではなく、当然ながら薄い紙も混ざってきます。
もうここまで言えばお分かりと思いますが、それらの紙が皆、「宮中の女性」 の所に行き渡っていったわけです。今も大河ドラマで描かれている通り、清少納言も紫式部も元々は貴族の人間。この時代に彼女たちのような 「宮中の女性」 が初めて紙を使用することができるようになったことが、「枕草子」 や 「源氏物語」 を産んだと言っても、過言ではないのではないかと思います。
平安時代に起きた「料紙」「平仮名」「文」の誕生のストーリー
そしてもう1つ。男性が分厚い紙を好むようになったことで生まれた効果として、「藁半紙」と呼ばれる再生紙も誕生したことがあげられます。この「藁半紙」と呼ばれる紙は、文字の書かれた紙をもう一度溶かし、「脱墨」という繊維から墨を抜く方法をとった上で、もう一度漉き直しして作られます。一度は紙に仕上げている繊維を使用しているため、新品に比べて強度がなく、どこか少しグレーっぽい色になってしまうのが難点ではありますが、この難点も藁半紙が出来たからこそ言えるもの。分厚い紙を作ったからこそ、それだけ多くの「再生原料」が生まれました。
そして、この藁半紙の多くは、薄い紙と同様に宮中の女性のもとに届いた…というわけです。
薄い紙と少しグレーの藁半紙。
これらを宮中にいた女性たちはここから見事に料紙と襖に変えていきます。
まずは料紙。料紙というのは、今では「仮名を書く際に用いられる装飾・加工された紙」なのですが、当時は「何にでも使用することのできる紙」です。そんな紙であっても、やはり当時の彼女たちにとっても少しグレーの藁半紙は美しいものではありませんでした。そこで彼女たちは、そのグレーを隠すために、庭にあった草木を用いて紙に色を付けることを考えます。草木によってパステルカラーに彩られた紙は、みるみるうちに薄い白い紙やグレーの藁半紙から美しい「料紙」へと変化を遂げていきました。
しかし、さらにすごいのはこの後。
その色の付いた紙を重ね合わせることで、自分の感情を表現したのです。例えば、緑の紙と青の紙の時は寂しい、黄色と赤の時は嬉しい…と言った具合にです。まるで、現在の顔文字やLINEのスタンプのようですよね。さらに彼女たちはこの感情表現をした紙の上に、お香で匂いをつけ、文字を書きます。
そうすることで彼女たちは、これらの紙を立派な「文(ふみ)」=「手紙」に変えてしまったのです。
しかしこの「文」の障害はこれだけではありませんでした。最大の障害は「文字」だったからです。
この当時、主に使われていた文字は「漢字」でしたが、これは男性貴族のみが使用することを許されており、女性の使用は許されていませんでした。
それでも、彼女たちは文字を使うこと諦めることなく、漢字を元に新たな文字、「平仮名」を開発したのです。
後にこの 「平仮名」 は日本の誇る天才クリエイター・紀貫之によって、「徒然草」 を通じて世に出て、長い時間をかけて日本独自の文字になっていくのは、皆さんの周知の通りです。
私は、この平安時代に起きた 「料紙」「平仮名」「文」 の誕生のストーリーがとても気に入っています。「限られた資源」 の中から 「彼女たちの感性」 によって美しきものに変化を遂げた 「料紙」。使用することさえ許されなかった文字を諦めずに、新たな文字を生み出してしまう強いメンタリティから生まれた 「平仮名」。そして、その平仮名を完全なる男性社会の中に、「良いものは良い」 と言わんばかりに批判を恐れず登場させた紀貫之の創造性と先見の明。それら全てを通して、彼らは現代を生きる私たちにとってとても大切なことを、教えてくれているような気がしてなりません。
平安時代の女性たちによる“手紙”は“ラブレター”?!
最後に…
なぜ、当時の彼女たちは手紙に匂いつけたのか?
それは、手紙を送る宮中の男性に、自分という存在を覚えてもらいたかったから。つまり、彼女たちは送っていた手紙は「ラブレター」だったわけです。
「手紙」はどの時代においても「人の心」を伝え、人の心を温かくさせてくれていたのだと思うと、なんだか少し平安時代の人たちに親近感を感じるのは私だけでしょうか?
ちなみに、この「恋文の総集編」が清少納言の「枕草子」の元になったようですが…
今回はこれで終わりにしたいと思います。
大河ドラマとは少し違う観点で平安時代を取り上げさせて頂きましたが、何か皆様の参考になれば幸いです。これからも何卒、よろしくお願い致します。
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