アメリカと中国でAIとビジネスを知り尽くした「アイアンマン」李開復
今のSiriなどAIエージェントの先駆けとなった「ナレッジ・ナビゲーター」というコンセプト動画をAppleが発表したのは1988年。これは技術的な裏付けのない単なるイメージ動画だったが、李開復はApple CEOジョン・スカリーのもと、当時の音声認識エンジンを開発していた。その後マイクロソフトに転職し、北京でマイクロソフト・リサーチ・アジア(MSRA)を設立。これは同社のアジア初の研究所となった。その後グーグル中国法人の社長を努め、現在は自分のVCであるシノベーション・ベンチャーズを創業し、ずっとAIの研究とその社会実装の分野を走り続けている。この本も最初は英語で書かれ、アメリカで出版された。
本書で李は、技術だけでなく、ビジネスのやりかたについても正確な分析をしている。たとえば自動運転やライドシェアの分野で、彼はこのような趣旨の予測をしている。
「アメリカのUberやウェイモのようなサービスはそのまま別の国に参入しようとするが、自動運転や人間相手のAIだとデータセットが異なると必要とされるサービスも異なるので、それぞれの国の企業に出資する中国のアプローチのほうが向いている。中国のライドシェアサービスDidiやEコマースのアリババは、ローカライズよりも現地企業への出資と提携を好む。そのほうがAIと実社会を繋げやすい」
こうした分析は、AI技術そのものと、その社会実装、そしてアメリカと中国両方の研究開発とベンチャー両方の事情を一人で熟知しないとできないものだ。そのエネルギーは、まさに代名詞の「アイアンマン」にふさわしい。
李開復はシノベーション・ベンチャーズの創業当時、学生向けの講演でいつも「自分の墓碑銘はこうあってほしい」と語ったそうだ。
カイフー・リーここに眠る
科学者にして経営幹部
一流テクノロジー企業で研究し
複雑な最新技術を、みんなが使えて、役に立つプロダクトにした
李開復が夢想する、AIと人間が共創する未来
その「アイアンマン」李開復が、なぜ人類と雇用の未来を予想するような本を書くことに至ったか。それは彼が、53歳にしてリンパ腫で死の危機に瀕したからだ。そのとき初めて彼は「アイアンマン」としての半生、家族や愛する人たちと一緒にいる時間を削って仕事を最大化するために生活を調整してきた生き方を後悔する。
AIの電源をオフにすることと、人間が死ぬことは違う。感情や愛は、生物としての人間だからこそ発生する。生物は必ず死を迎えるから、愛と生と死はセットで、どれも現在のAIによる情報処理とは根本的に違うものだ。生物から生まれる知性と計算機から発生する知性がどう異なるかはは、AIの専門家同士でよく話題になるテーマだが、彼は自らの死を自覚したことで、そこに改めて思いを馳せる。彼のリンパ腫は寛解したが、そこから生まれた考えが、人類の未来を予測するこの本につながった。
よく言われるレイ・カーツワイル(MITの教授)の「シンギュラリティ」は、あくまで知性のみの話だ。AIの情報処理能力が人間を超えて、今は難しい完全な自動運転も技術的に可能になるときはかならず来るだろうが、そのときにコンピュータが生物としての感情や愛情を備えるとは、彼は話していない。カーツワイルのもともとの専門はOCR(手書き文字の認識)で、李開復が研究していた音声認識とは近い分野で、どちらもAIの根本だ。李開復はAIの専門家として、カーツワイルの予測を正確に理解した上で、AIと人間の未来を考えている。
僕自身、前職で検索エンジン・レコメントエンジンというAIの開発・販売を仕事にしていた。そのときも優れたエンジニアが「生物でないことが、AIと人間との大きな違いだ」と話し、会社全体として感情や愛情にフォーカスしたプロダクトを創る方向に向いたことが印象に残っている。
『AI世界秩序』の最終章で彼が指摘する「シリコンバレーでベーシックインカムは人気だが、それはわかりやすい結論にとびつきたがり、一つのアイデアを世界全体に適用しようとするシリコンバレーイズムそのものだ。もちろんベーシックインカムは有効な解決策の一つになりえるが、それ以上に考えるべきは、人間の人間らしさに価値を与える新しい産業をどうやってつくっていくか、そのためにAIをどう活かしていくかだ」という趣旨の問い掛けは、それまでの章と同じく極めて具体的で、パーソナルであるにも関わらず人類普遍の問いになりえている。
ハードウェアとしての人間は当面ロボットより安いので、そういう雇用はかなり長い間残る。でも、そんな未来ではなく、人間が人間だからこそ価値を出せるような仕事を作り出すためにAIを使っていこう、というのは素晴らしいメッセージだ。この連載のタイトルは「テクノロジーから見える社会の変化」だが、この『AI世界秩序』は、まさにタイトルにふさわしい書籍であり、未来を考える上で欠かせない一冊だ。