CULTURE | 2022/02/15

劇団もうひとりの『浅草キッド』【連載】藝人春秋FINDERS(4)

Illustration by Makoto Muranaka

水道橋博士
お笑い芸人
1962年岡山県生れ。...

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「浅草キッド」にまつわる物語の数々

そもそも、ビートたけし原作『浅草キッド』(1988年1月・太田出版)の映像化は今回で3回目になりますが、その前に──。

1986年8月にビクターから発売された、バラード曲としても有名な『浅草キッド』が先行してあるのです。

ボクがこの曲を初めて聴いたのは、1986年冬の浅草フランス座の楽屋です。

ボクはたけし軍団に入門して3カ月後、かつて師匠が在籍していた、このストリップ劇場への住み込み修行の命を受けて、出されていました。

そして、寝泊まりする楽屋の一室で兄弟子であるグレート義太夫さんが歌うデモテープの音源を聴いたのが最初です。

ちなみに、この曲が最初に産声をあげたのは、冬の福井県の旅館の一室。

たけしさんが高倉健主演の映画『夜叉』(1985・東宝)に出演が決まり、ロケ地の旅館に長逗留するにあたり、軍団員であると同時にマルチミュージシャンである義太夫さんを付き人として帯同しました。

ある夜、たけしさんが、「曲を作るぜ!」と鼻歌で歌ったものを義太夫さんが譜面に起こしギターの伴奏をつけたものです。

そのレコード収録前のデモテープが、フランス座の楽屋に届けられたのです。

まだ10代、20代前半だった小屋住みの若者たちが、楽屋の一室に集まり、耳を澄ましてこの曲を聴いて、自らの境遇に重ね合わせ、咽び泣いたのは、ボクの人生の中でも忘れ得ぬ想い出です。

「♪いつか売れると信じていた〜」

自分たちがまさに現在進行系で、その時だったのです。

あれから35年の時を経て──。

浅草の片隅のフランス座の楽屋で、グレート義太夫さんの声で聞いていた、自分たちに寄り添っていた曲が、2020年の大晦日、紅白歌合戦に初出場した、たけしさんが絶唱されたのですから。

それはそれは感無量なものがありました。

この曲は当初は、知る人ぞ知る程度の認知でしたが、年を経るごとにカルト的人気を博し、名だたるメンバーがカバーしております。所ジョージ、福山雅治、マキタスポーツ、竹山ピストル、菅田将暉&桐畑健太……。さらにはモノマネのビトタケシも歌っています。

そして、なかでも一番異色なのは、青山テルマの英語版です。ジャジーに奏でられる、このカバー曲は、もはや浅草の匂いすらありません(笑)。

そもそものこの題名の由来を語ると、元ネタは美空ひばりの「東京キッド」という曲です。このネーミングを気に入ったたけしさんが、「浅草キッド」という曲を作ったのが由来です。

そして、さらに由緒に言及すれば、元々「たけし軍団」の由来は「石原軍団」からです。それに、たけし軍団の二軍は、「たけし軍団セピア」と名付けられましたが、この由来は「一世風靡セピア」からです。当時、『拝啓・道の上から』でヒットチャートに登った原宿のパフォーマンス軍団です。ここから、哀川翔、柳葉敏郎、勝俣州和、中野英雄などの俳優陣が巣立っています。

そして、その下に「浅草キッドブラザーズ」と呼ばれたユニットが出来上がります。当時、浅草フランス座に修行に行った、たけし軍団の3軍。ビートたけしの弟子の17番目以降で、浅草修行したものたちの総称です。このパロディの元は、柴田恭兵を排出した劇団「東京キッドブラザース」のパロディです。

そして、ボクらがフランス座を巣立ち、漫才コンビを組んだ時に、「浅草キッドの名前を下さい!」と直訴して、正式に漫才コンビの「浅草キッド」が誕生します。

昨年、石原軍団が解散を発表した結果、これらのパロディ元である、「石原軍団」「一世風靡セピア」「東京キッドブラザーズ」、そのすべてが消失したため、言葉の由来がわかりにくくなっているわけです。

まずは曲ありきで、その後、1988年1月に太田出版から単行本が上梓されます。

その年、すぐにドラマ化もされています。

1988年にテレビ朝日の『木曜ドラマ』で『ビートたけしの浅草キッド・青春奮闘編』が放送。

このドラマでは、天宮良さんが主演。中条静夫さんが深見千三郎役でした。たけしさんも、酔客としてカメオ出演されています。天宮良さんは、元々、タップダンサーなので、この役に抜擢されたと思われます。

そして、2002年にスカイパーフェクTV!でボク、水道橋博士主演により『浅草キッドの「浅草キッド」』としてドラマ化されました。

こちらでは深見千三郎役に石倉三郎師匠。ビートきよしさん役は、つぶやきシロー。玉袋筋太郎が、作家の井上雅義を演じています。監督は篠崎誠さん、ダンカンさんが脚本。

篠崎監督はビートたけし映画の助監督の経験もある立教大学出身の理論派で、この作品の評価は今でも高いです。

往年の、ビートたけし修行時代の浅草の再現に、ほとんどがセットとCGで作られたNetflix版と違い、こちらでは全カットが現地ロケで撮影されています。

浅草フランス座は、現在の東洋館に出べそ(踊り子さんが観客席まで近づく導線)を付けて、そのまま使われています。

そして、深見千三郎が住んでいた第二松倉荘も現地ロケのまま使用しています(火事で焼けたのは、師匠の部屋一室だけでした)。

2002年の2月の真冬にクランクインした撮影現場は、ボクが2012年に著した『藝人春秋』(文藝春秋)の石倉三郎の章で詳述しています。

今回、ボクも20年ぶりに初めて見返しましたが、正直言って、主役のボク以外は皆さん、素晴らしいです。

映画としては、とにかくタップシーンが未熟すぎます。ボクも石倉師匠も事前準備が十分にはいかず、地団駄を踏むような、たどたどしさです。タップシューズのアップで華麗に踊るシーンはスタンドインです。

その点、Netflix版のタップシーンは役者の演技として見事過ぎます。大方のシーンを俳優本人が踏んでいるので、驚かされます。

ちなみに、このタップの振り付けはHIDEBOHさんです。HIDEBOHさんは、日本のトップ・タップダンサーであり、北野武監督作の時代劇映画『座頭市』(2003年)にもクレジットされていますが、たけしさんの公私に渡るタップの指南役です。

しかし、たけしさんが元来習っていた浅草風のタップとは、まったく流派が違います。

浅草修行時代に会得したタップは、再三、ライブ・コンサートなどで披露してきましたが、その後、しばし封印していました。そんなたけしさんですが、90年代後半、アメリカにタップ留学をしたHIDEBOHさんと番組で出会い、密かにタップの練習を再開しました。

その後、自宅の地下室で毎日のように新しいステップを練習されていました。

やがて、軍団の重鎮である、タカ、枝豆、そして若手を呼んで、連日、タップ教室が開催されました。

たけしさんが、この時期、なぜ、ここまでタップに執着されたのか?

後に気が付くことですが、この時のタップの集中練習は、2003年9月に公開されることになる、『座頭市』のラストの下駄タップのシーンの演出のためでした。

ライブで劇団ひとり監督曰く──。

「HIDEBOUさんのお父さんも、タップをやっていた芸人さんで、同時期にツービートと一緒に出てたんですって。だから子供がずっと舞台の隅でなんか見たのは、たけしさんも覚えていたそうです。
その子供が後のHIDEBOUさんなんですって」と。

ライブでの、この発言は、ボクも初めて知った鳥肌モノの撮影秘話でした。

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