CULTURE | 2023/10/17

SNSで吹き荒れる「川口市のクルド人問題」を「体感治安」から捉え直す 倉本圭造×橋本直子対談(後編)

連載「あたらしい意識高い系をはじめよう」特別編

文・構成・写真:神保勇揮(FINDERS編集部)

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体感治安を改善させる「交番フィロソフィー」を捉え直す

倉本:僕がさっきから変にこだわって「警察力」の話をしているのは、それが「本能的なレベルの問題」だと思っているからなんですよ。

僕は若い頃外資コンサルからキャリアを始めたあと、そういう「グローバル経済」的な世界と日本社会の実情のギャップが将来大変な問題を起こすだろうなと痛感して、その後まずは「日本社会のリアルを知る旅」とか言って、カルト宗教団体に潜入したりブラック企業で働いてみたり、ホストクラブみたいに夜の街で客引きをやるような仕事をやってみたり色々していた経験があるんですが、その時に「日本社会の本質」として感じ取ったのも、そういう「警察的な公」との“独特の関係性”なんですよ。

つまり、恵まれたインテリ家庭で育つと「体感」することもあまりないような、多分日本以外の国だともっと「危ない」感じになる、夜の繁華街とかで暴れてる酔っぱらいもいるような状況で、「まあ日本だしこのくらいはね」という感じでギリギリ保たれている治安みたいなのがあるのは何なのか?…という問題の本質を考えてみたいんですよ。

そういう場所でパトロールしている警官も結構いるんですが、そういう存在との“独特の関係性”ってのが日本にはあるなと私は感じているんですね。

毎年恒例の渋谷のハロウィン騒動も、ハメ外しまくってるし「良識派」の人からは毎年顰蹙を買ってますけど、まあギリギリ「最悪の事態」にはならないように適度なコントロールが効いてる感じではありますよね。みんなでハメを外して年一回のガス抜き的な「まつり」はするけど破綻はしない、というような。

そこでも、サッカーの国際試合で勝った時と同じようにいわゆる「DJポリス」みたいなよくわからん存在が出てきて、たまに喝采を浴びたりとかしながら「高圧的でない双方向的なコントロール」をしてますよね。

要するに日本では、何か「犯罪が起きた」時だけ突然そこに「法の執行官」としての「警察の役割」が発生するわけじゃないんですね。かといって別に「普段から高圧的にニラミを効かせてる」って感じでもなくて、「立場は違うけど同じこの社会を共有してる人間ですよね」という感じで「とにかくそこにいる」んですよ。その「とにかくそこにいる」ことが大事だというか。

アメリカみたいに、スラムは危ないからといって普段は警察がいなくて、いざ一線を超えた犯罪が起きてからパトカーで駆けつけていきなり銃を抜く、みたいな世界とは全く違う形の世界がそこにはある。「執行官と監視される側」というよりも、「一緒にその場を成り立たせているフラットな関係性」みたいなのが本能レベルで存在するところが、日本においては重要なんだと思うんです。

日本の「交番」っていう仕組みがユニークだというんで海外の色々な国にも仕組みごと輸出されているという話を聞いたことがあるんですが、「執行官」的な存在というよりも「そこにいること自体が数多の無言のやり取りを常時本能レベルで発生させている」という、この「交番という仕組みを成り立たせているフィロソフィー」の部分こそが、「日本社会が個人を包摂する」にあたって結構重要な存在だと思うんですね。

で、先程橋本さんが「外国人の方が犯罪率が高いという統計的な証拠はない」とおっしゃっていたことは事実だと思うんですが、問題は「罪を犯すかどうか」というよりも、「交番」的なフィロソフィーの部分において日本社会とシームレスに「縁」を持って生活してもらえているかどうか、っていう部分なんですよ。

先日、埼玉県警がトルコ語通訳を募集しているというニュースを見ましたが、それは要するに、住民層の変化によって「住民が全員日本人」だった時にはできていた「住民との平時のコミュニケーション」が同じレベルではできなくなっている、ということを意味するわけですよね。

そういう部分に適切な予算をつけずに、「普段からの無数の本能的な意思疎通の度合い」が日本人の場合と違う状況が放置されるというのは、ある意味でそれ自体「差別」みたいなところがあると思うんですね。

そして「本能レベルの輪」に加わってもらえる状態を維持することは、外国ルーツの人にとってもある程度「日本社会に疎外されずに受け入れられている」と感じる効果すら、持ってもらえる可能性があると思うんですよ。

そして、「警察にもっと予算をつけてガイジンどもを取り締まれ!」というように主張している人々が求めているのも、本質の本質の部分においてはそういう「交番フィロソフィー」の部分なのだと考えると、リベラル派側からもそれを理解する道が開けるじゃないですか。

例えば今、川口のクルド人問題をSNSで焚き付けまくってる中心人物である、ジャーナリストの石井孝明氏のことを僕は個人としてそれなりに知っていて、大人数の飲み会の場で隣に座って話し込んだこともあるんですが、彼も個人としてはガチの排外主義者って感じじゃないんですよね。

「そんな普段リベラル寄りの人格してるのに、なんでSNSではガチのネトウヨみたいなんですか?」て聞いたら酔っ払った本人が爆笑してましたけど、そういう感じで「根っからの保守派の排外主義者」みたいな感じじゃないからこそ、逆に今SNSでああいう風に効果的に「焚き付け」ることに成功している側面はある人物だと思います。単なる日本純血主義者というより、「欧米における多文化主義の挫折」という現状を一種の“国際感覚”として理解した上で、その文脈に則って扇動している存在だというか。

例えば彼は、クルド人の増加による「体感治安」の問題についてはしょっちゅう発信をしているけれども、一方で「真面目に働いているクルド人に対する、日本人による差別的発言や嫌がらせ、または自警団行為みたいなことはするな」と呼びかける記事なんかも書いています

この記事はとても面白くて、「石井氏=単なる排外主義の極右煽動家」と思っている人にはぜひ読んでみて欲しい内容が含まれているんですよ。

要するに「そこに生きているクルド人」と「そこに生きている日本人」の間に適切なナマの人間関係を育てて行くことが大事なのに、それを「あらゆる“郷に入りては郷に従え要素”を否定する材料を探し続けて騒ぎ立てる左派運動家」や「排外主義を煽る右派政治活動家」に邪魔させてはいけないんだ、というメッセージの部分は大変合意できるものでした。

「そこに一緒に暮らしている人たち」とは全然関係ない、「外国人への憎悪」あるいは「日本国というシステムへの憎悪」を煽るネタとして消費してしまって余計に現実的解決を遠ざからせるようなムーブメントから、いかに距離を置いていくかが大事なのだ、というのは、この対談でも橋本さんと何度も繰り返し話してきたことですよね。

また、さっき橋本さんがおっしゃっていた「日本クルド文化協会」のパトロール活動と、ほとんど似た発想を言っている面もあります。要するに、「交番フィロソフィー」的な一種の「おせっかいの輪」みたいな人間関係の中に包摂していくことが、日本の場合はめっちゃ重要で、「スイスのトイレ問題」に値するナニカがあるとしたらそれだと思うんですね。

そして、「手弁当で日本語学校をやっている人たち」や「日本クルド文化協会のパトロール活動」、そして「ちょっと昔気質に従業員を大事にする建設会社で外国人を雇っているところ」…みたいなものと一部ではかなり通底するような問題意識が石井孝明氏やそれに扇動されている人たちの中には実はあって、それをリベラル側が引き取って、「交番フィロソフィー」的な関係性の確立にある程度予算を手当していく事が大事だと私は感じています。

橋本:日本社会における「警察権」はかなり独特の役割を担ってきたということは理解した上で、どこが難しいかというと、外国からやって来た人達、特に難民とか本国でマイノリティに所属していた人達は、母国のメチャクチャな制度の中でまさに警察や軍などの強権力を持つ組織にボコボコにやられてきた背景を持つ人が多いんですよね。

例えば、難民の中にはただ単に「何族だから」とか「ベールをちゃんと被っていなかったから」とかいう理由で、そういう公権力によって非合法的に投獄されて何日も何週間も拷問されたり、強姦されたりした人は全く珍しくありません。

日本の警察側にも「外国人に見える人」に対する差別感情が本当に無いかというと、そこはどうでしょうか?「レイシャル・プロファイリング」で差別的な扱いを受けた外国人を私は個人的にも何人も知っています。

日本では自衛隊が突然市民に向かって発砲し始めるというのは、さすがにちょっと考えられないですが、そういうことは残念ながら世界各地で日常的に起こっています。最近の例で言えば、パレスチナのガザ地区では、日常生活の隅々まで実質的にコントロールしているイスラエル軍が無辜のパレスチナ市民を虐殺しているわけです。他にも中国、ミャンマー、シリア、スーダン、アフガニスタンなどなど、世界では枚挙にいとまがありません。

もっと言うと、ご存知の通りアメリカでは「白人に見えない」というだけで警察によって殺される可能性がずっと高くなるわけです。そういう人達に突然「日本の警察は全く違って、まともなんですよ」って言っても、すぐに信頼してもらえるわけではありません。

読者の男性陣の中にも、例えば「チカンの冤罪」被害に遭いそうになった経験がある方は、しばらく満員電車の中で近くにいる女性が怖くて仕方がなかったのではないでしょうか?それと同じことです。

倉本:そうしたお話は非常に重要な問題で、「警察力」とは常にそういう危険性を孕んだ存在ではあると思います。もちろん、ある地域に日本以外のルーツを持つ人々集住しはじめた時に、それを「警戒して厳しく監視するべきだ」は差別そのものだと思いますし、外見が東アジア系じゃない時にやたら職質されるみたいなのも明らかに良くない。

さらに言えば、難民の人が本国で体験してきたであろう、「もっとヒドイ例」については、当然NOと言っていくことが必須ですし、日本の警察にもそういうタイプの不祥事があるとすればそれは徹底的に批判し続ける必要があるでしょう。

ただ、じゃあどうすれば「そういう事例」がなくなるのかというと、そういうのは「日本人相手の時にやっているような、頻度高いタッチポイント」が適切に自然な形で発生するように配慮できていないからこそ、過剰に高圧に抑止的になってしまっているところがあると思うんですね。

むしろその「交番フィロソフィー」をオールド左翼的な潔癖主義によって「完全に引きちぎろう」としてしまうと、いざ犯罪抑止が必要となった時に強引なやり方をせざるを得なくなって、アメリカの警察みたいに問答無用で押さえつけてメチャクチャにやることが避けられなくなってしまう。

人権に配慮した適切な「対応」をやり続けるためにこそ、「交番フィロソフィー」レベルの「平時からのコンタクト」が必要だし、それを外国人に対しても実施するためには対日本人の場合に比べて明らかにコストがかかるのは当然なので、「ちゃんと予算を手当してその縁の連鎖の中に繋ぎ止めようとする」ことは、むしろ「差別しない」ために大事なことだと思います。

橋本:その予算の関係で、先ほど仰った「埼玉県警がトルコ語通訳を募集しているというニュース」について、私は日本の警察側の歩み寄りや努力の姿勢としては評価したいと思います。ただクルド人の中には本国で「トルコ人にボコボコにされた」という経験を持つ人もいるので、かえって「警察とトルコ人がグルになって、日本でまで俺たちを迫害するつもりなのか!?」と誤ったメッセージを意図せず発してしまい、逆効果にならないことを切に願います。

願わくば「クルド語を話す通訳」を雇えたら、単に言語的に警察とクルド人の意思疎通が可能になっただけでなく、クルド人コミュニティ側に、「日本の警察は俺たちを仲間だと思ってくれているのかもしれない」という強烈に効果的なメッセージを出すこともできたかもしれないのに、と少し惜しいと感じます。

倉本:多分そういう細部の配慮についても、「警察」側の人は知恵が行き届かない部分だと思うんですよね。むしろそこで、一人でもいいからトルコ語でなくクルド語ができる人を用意したらいいですよ、という助言を行うような形でリベラル側の人がそこに参画し、「DJポリス」とか「交番フィロソフィー」的な関係性の中に取り込めるかどうかが、この問題における重要な分水嶺になると思います。

要するに、「外国人が増えて不安だ」「取り締まる予算をつけろ」というような、一種の排外主義的なムーブメントに対して、「予算をつける」部分から否定するのでなく「その内容」を作る段階でリベラル側がちゃんと知恵を出して参加していくべきなんだと思うんですよ。

「予算を増額する」こと自体、強い政治的感情が突き動かさないとなかなか実現しないですから、そこはそのまま受け止めちゃってもいい。多分、実際に動いてみればそれほど巨額じゃないって感じの予算で済むし、「予算を増やした」という事実自体が持つ「何らか対処してますよ」という沈静化効果もあるはず。

ただその「内容」が、例えばクルド語の通訳を雇うとか、”警戒心を持たせない普段の人間関係を作る”プロジェクトでも全然いいわけですよね。

橋本:「それほど巨額じゃない」というのは、具体的にどんなイメージですか?

倉本:例えば川口市のクルド人の話で言えば、「体感治安」的には大問題でも実数で言えばたった2000人とかしかいないわけですよね。何も警察官を何百人も増やせとかいう話じゃないんで、現有の警察官の配置をいくぶん手厚くしたりしたうえで、言葉がわかる専門員を何人か雇うだけで全然違うと思います。

要するに、日本全国のいろんな場所において外国人の集住地域ができたら、放置してないでピンポイントでそこと密にコミュニケーションして「交番フィロソフィー」的な包摂関係ができるような体制を丁寧に整えようね、という話なわけですよね。

それぞれの地域において「追加人員」が毎回何百人も必要となる話ではないので、その気になりさえすれば大して巨額の予算は必要ないはずだし、そうやって「ちゃんと包摂する」動きをリベラル側がどんどん知恵出しして主導していくことは、さっきの「東アジア人の外見以外なら職質しまくる警官」みたいな問題も本当の意味で解決できる唯一の方法ですらあると思います。

それに、「ガイジンどもを取り締まれ!」って言ってる人だって不安を口にしているだけで具体的な内容についてイメージしている例は少ないでしょうから、中身を責任もってリベラル的な良識がある層が展開すれば、「そうそう、それでいいんだよ」という感じになる人も多いと思います。そういう形で、むしろ石井孝明氏みたいな存在が仕掛けてくる運動は「本当の意味で受けて立つ」必要があるんですよね。

積極的に人間関係の輪の中に取り込んで、「リベラル派の観念的な理想」のレベルでなく「現場の良心さん」のレベルで、「こいつらは仲間なんだから悪く言うヤツは許さん」みたいな空気を実現するところまで行けるかどうかが、日本における移民問題が欧米におけるような社会の大分断にならないための分かれ道なんですね。

その活動を、適切なリベラル的良心がむしろ積極的に主導権を持って動かしていければ、外国人が増えて一時期荒れていた古い団地が「日本的おせっかいの化身」みたいなご老人の町内会長みたいな奇特な人の呼びかけでなんだかんだ良い感じの多文化交流が生まれているみたいな時々見られる事例を、もっとマクロなレベルで再現しようとするムーブメントにもなっていくはずだと思います。

橋本:本当にそうですね。あと石井孝明さん、私もツイッターで何回かいじっていただいたことがあるんですが、一度ひざを突き合わせてじっくりお話しを伺ってみたいと思っています。さすがに私も「◯◯人はみんな殺せ!」みたいなことを叫んでる人達とは距離を置きたいですが、石井さんはそういうグループとは違うんじゃないかと疑っています。

倉本:まあこういうのは、個人としてはわかりあえても、SNS的な言論空間における「立ち位置」的な事情もあって、公開の場で直接やりとりをしてわかりあえる感じではないところが難しいのですが、そこはむしろ「直接的でない対話」が大事なんじゃないかと思いますね。

一種の「排外主義」とか「外国人差別」として噴出する右派の運動に対して、ちゃんと「犯罪統計では治安は改善している」というような冷静な反論をする事が必要な時もあるでしょう。

でもそれとは別にその何万倍の熱意を込めて、橋本さんがおっしゃる「体感治安問題」にはそれ専用の対処が必要だという発想からの、「本質的なレベルで受けて立つ」ようなムーブメントをリベラル側が起こしていけるか。

「公開の言論空間」ではわかりあえるタイミングがなかなかなくても、その「本質レベルでメタ正義的に噛み合った共創関係」を実現していければ、内心においては非常に「わかりあって」協力して日本社会を改善していける関係に持っていけると思います。

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