数多くの制約を乗り越える原動力になった市職員の言葉
『in BEPPU』は、毎年1組のアーティストを招聘する個展形式の芸術祭です。この新たな取組をより多くの市民に伝えるために、2016年の会場を市役所にすることを最初に決めました。招聘したのは現代芸術活動チーム【目】です。彼らは現実と作品世界の区別がつかなくなるような光景を出現させ、自分自身が見ているものの不確かさや曖昧さを体感させる作品を多く発表しています。
市役所という場所は、市民の生活において切り離すことができない場所です。【目】は、その場所で作品を展開するにあたり、数多くの課題に向き合うことになります。
市役所を会場にしたいと伝えると、市長はノリノリでした。しかし、日常業務の場にアートという得体の知れないものが入ってくるということに、大きな不安を感じていた職員も少なからずいたと思います。前例のないことばかりで担当課だけでは判断がつかないことも多く、庁内に部署を超えたプロジェクトチームが立ちあがりました。
こうして市の全面的な協力体制のもとに【目】の作品プランを実現するため、法的な問題や公共機関ならではのルールなど、山積みの課題を1つずつクリアしていきました。しかし、会期が3カ月後に迫ってもどうしても越えられない壁がありました。現状の作品プランが実現不可能となる最悪の事態も想定し、僕は彼らと協議の場を持ちました。彼らも覚悟をしていたらしく、その場で新しいプランを提案してくれました。そのプラン自体は素晴らしく、実現可能性も高いものでした。早速そのプランを持ち帰り、市の担当者に報告しようとすると、彼女は僕を見つめ「まさかプランを変更するつもりではないでしょうね」と言いました。僕が口ごもっていると「今のプランを実現するために、みんなで必死にアイデアを出し合って、あと一歩のところまで来ているんです。私はこのプランが実現するところをどうしても見たい。チームのみんなも同じ気持ちです。市役所から作品を取りあげないで」と、彼女は語気を強くしました。
僕はそれを聞いて涙が出るほど嬉しかった。そして同時に、ハッとさせられました。当然のことながら、市役所は作品展示を前提にした場所ではありません。多くの市民が利用する場を作品空間に変えてしまうことに後ろめたさを感じることもありました。しかし彼女の反応から、作品が実現するところを見たいという想いが僕らだけのものではなく、担当者やチームメンバーにも広がっているのだと実感しました。
まだ作品の形は定まっていませんから、彼女が言う「実現するところ」というのは非常に曖昧で抽象的なイメージです。僕は彼女の言葉から、たとえ不確かなものであっても、それを信じて踏み出さない限りは、次のステージに上がることはできないのだと感じました。
市庁舎を覆う高さ30mの仮設空間
奥行きの近く(2016年、目) 撮影:久保貴史 (C)混浴温泉世界実行委員会
市職員の彼女の言葉にエネルギーをもらい、僕らはプラン実現に向け再始動しました。結果として難しいと思っていた許可もすべてクリアし、作品は実現できました。庁舎を奥行15m×高さ30m×幅15mの仮設空間で覆い、そこに霧を充満させることで、彼らは窓の外に非現実的で不思議な風景を作りました。庁内に設けている複数の鑑賞ポイントをツアー形式で巡りながら鑑賞するこの作品は、どこからどこまでがアーティストの意図するところなのかが極めて曖昧です。鑑賞者は能動的に観るということを意識するようになっていきました。
実際に体験した人たちの姿を見ていると「今日は曇っていたね」という人がいたり、市役所職員の動きや電話の対応に注目し「あれは役者だったのではないか」という人がいたり、「応接室の竹細工が素晴らしかった」と普段から展示されているものに目を向けてしまったり、感想は実にそれぞれでした。【目】は、市役所における日常業務の背面に不思議な光景を設置することで、場の機能や意味などの輪郭を曖昧にしてしまったのです。
霧に包まれた不思議な光景を背面に、業務にあたる行政職員
奥行きの近く(2016年、目) 撮影:久保貴史 (C)混浴温泉世界実行委員会