EVENT | 2022/04/05

「実業家・本田圭佑」を取り込む自己啓発ビジネス 「自己責任で稼いだもん勝ち」は何が問題か

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レジー
1981年生まれ。一般企業に勤める傍ら、2012年7月に音楽...

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レジー

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1981年生まれ。一般企業に勤める傍ら、2012年7月に音楽ブログ「レジーのブログ」を開設。アーティスト/作品単体の批評にとどまらない「日本におけるポップミュージックの受容構造」を俯瞰した考察が音楽ファンのみならず音楽ライター・ミュージシャンの間で話題になり、2013年春から外部媒体への寄稿を開始。著書に『夏フェス革命 -音楽が変わる、社会が変わる-』(blueprint)、『日本代表とMr.Children』(ソル・メディア、宇野維正との共著)がある。
Twitter https://twitter.com/regista13
レジーのブログ(note)https://note.com/regista13

社会に広がる「ファスト教養」

本稿は、

・筆者が当サイトで執筆した「ファスト映画、自己啓発オンラインサロンの人気に共通する「ファスト教養」への欲望。「古き良きコンテンツ」に勝ち目はあるか」(2021年8月7日)

・中央公論2022年4月号の巻頭特集『読書の役割、教養のゆくえ』に寄稿した「ファスト教養は何をもたらすのか」

のそれぞれで展開した「ファスト教養論」について、具体的な事象を取り上げながら解説を加えるものである。

ファスト教養という概念には、いくつかの文脈が絡み合っている。

まず、文字通り「ファスト」に摂取できる教養コンテンツとしての側面。様々な領域の知識を「ざっくりわかりやすく」編集する形で伝える動画や書籍が「教養」という言葉とともに提供されるケースが増えている。たとえば「新時代を生き抜くための教養」をコンセプトとして掲げる「中田敦彦のYouTube大学」や、「教養としての○○」を標榜するビジネス書などがそれにあたる。ここで重要な視点はコストパフォーマンス、俗にいう「コスパ」である。手っ取り早く何かを知ることが特に大事にされている。

ただ、こういったダイジェストとしての知識を提示するコンテンツ自体は以前から存在していたものである。筆者がファスト教養という言葉で説明したい概念において重要なのは、昨今のそういった情報の裏側にある2つの思想である。

1つ目は「ビジネスの役に立つ」という考え方である。教養という言葉に含まれていた「心の豊かさ」といった意味合いに目を向けることなく、「これを知っていると決裁者と話を合わせられる」などのビジネスシーンにおける効用ばかりが強調されるのが現在のファスト教養の状況である。

2つ目に指摘したいのが「自己責任の発想」である。なぜビジネスのために教養を身につけなければいけないのか?という問いを突き詰めていくと、「ビジネスシーンで自分を何とか差別化していかなければ生き残れないから」「生き残れず脱落したら誰も助けてくれないから」という今の社会に通底する自己責任論にたどり着く。自己責任論がベースの社会で生き残るためのツールとして教養というものが都合よく使われている。その状況こそが、ファスト教養という現象の本質である。

自己責任社会を生き抜くために、ビジネスシーンで役に立つツールとして、コスパ良く摂取することを是とする教養。いわゆる「新自由主義」との関連性を指摘することもできるだろう。

こういったファスト教養の考え方は、「堀江貴文のビジネス書の決定版」(幻冬舎サイトより)こと『多動力』で唐突に登場する「骨太の教養書を読め」というメッセージや、田端信太郎『これからの会社員の教科書』における「ぼくも有名な音楽、映画はひととおり網羅しています。作家なら、夏目漱石、司馬遼太郎、村上春樹、三島由紀夫はおさえています」といった教養のあるビジネスパーソンとしてのボースティングなど、ビジネス系のインフルエンサーの発信においてたびたび登場する。

また、ビジネス系のインフルエンサーの牙城でもあり、彼らの支持層とも親和性の高い経済系メディア「NewsPicks」においても教養をフックにした記事や特集が多数公開されている。2020年代の「できるビジネスパーソン」にとって、教養を語るのはある種のお作法として定着している。

ビジネスの役に立つ、自己責任社会、コスパ重視、そんなメッセージを強化するインフルエンサーとメディア。これらの要素が教養と結びついていく流れは、全ての学びが個人の金儲けに回収されていくことを意味する。学びの喜びといった情緒的な意味合いも、知を社会に還元するというノブレスオブリージュの視点もそこには存在せず、経済的なメリットのために深い思考プロセスや守るべき倫理が放棄される。ファスト教養の行き着く先に待っているのはそんな社会像ではないだろうか。

本稿で着目したいのは、そういった考え方が本来この手の価値観とは遠そうなエンターテインメントの領域へも染み出しているということである。ここではスポーツに関する具体例を引きつつ論を深めていきたい。

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