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京都大学で出口康夫氏が行った人気講義を書籍化した『AI親友論』(徳間書店)。
同書はAIと人間との関係性でよく言われる「仕事が奪われる(人間が奴隷にされる)」、あるいは逆に「人間が支配できる程度の性能に抑えるべきだ」といった敵視を前提とした議論ではなく、人間とAIが「親友」として共生するための社会観・人間観をいかにして考えることができるかについて、これまでのAIやロボットにまつわる議論も参照しながら考え抜いた一冊だ。
本稿では、近現代社会におけるデファクトスタンダードとなっている人間観、すなわち「できること」を基軸とする人間観に対するオルタナティブとして、「できなさ」に焦点を当てた人間観を提案する。
※本記事は『AI親友論』の「第一講 「われわれ」としてのAI」を再編集したものです
「人間失業時代」は本当にやってくるのか

数年前、「技術的シンギュラリティ(特異点)」という言葉が話題になりました。この「シンギュラリティ」とは、AI(人工知能)が進化して、人間の知性と並び、ついにはそれを凌駕し、抜き去る事態を意味していました。
もちろん、このようなシンギュラリティがそもそも実際に起こりうるのか、また起こるとすると、いつ、どのような形で起こり、それが僕らや社会にどのようなインパクトを与えるかについては、さまざまな議論が交わされました。
実際、AI研究者の間でも、このような意味でのシンギュラリティが到来する可能性について懐疑的な声(※1)が聞かれました。
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※1 懐疑的な声:アメリカの発明家であるレイ・カーツワイルを中心に、議論は白熱している。レイ自身は賛成派。
一方、シンギュラリティが社会に与える影響の一つとして、さまざまな仕事の担い手が人間からAIに置き換えられ、多くの職業がいわば「AI化」することで、結果として多くの人の働く場が奪われるという「シンギュラリティ大量失業時代」の到来を予測する向きもありました。
そのようななかで、イギリスの新聞に、AIによって奪われやすい職業のランキング一覧(※2)なるものが掲載され、その中には「哲学の教師」が、案外上位に、つまり「奪われやすい」部類にランクされていて、僕も苦笑した覚えがあります。
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※2 AIによって奪われやすい職業のランキング一覧:The Guardian“Why would we employ people? Expertson ways AI willChange work”Fri 12 May 2023 参照。
このようなシンギュラリティをめぐる議論がやや落ち着きを見せたかと思いきや、今度は ChatGPTなどの生成AIの開発が爆発的に進み、それが急激に社会に普及することで、現在、論議を巻き起こしています。
ChatGPTの情報処理・文章作成能力の向上は、まさに日進月歩の勢いです。僕も先日、企業コンサルタント業務をこなす生成AIのデモ(※3)を見せていただきましたが、膨大な情報を博捜し、文字どおり、あっという間にクライアント企業に対する提案書を作成してしまうその手際の良さに、これまた文字どおり、あっと驚きました。
このように ChatGPTが本格的に企業に浸透すると、少なくとも既存の情報を収集し、一定のフォーマットに基づいて分析し、そこから一定の課題解決の処方箋を導出するようなタイプの、ある程度ルーチン化可能な知的業務は、確実にAI化されるでしょう。結果として人間の職が奪われる事態も、容易に予測されます。
数年間は、起こるとしてもまだまだ先の出来事だと思われていたシンギュラリティ、そしてそれに伴うシンギュラリティ失業が、近未来の現実として、僕らの目の前に、突きつけられているのです。
シンギュラリティ失業は、確かに深刻な問題です。AI化によって消え去る恐れのある仕事の一覧、いわば「絶滅危惧種リスト」の上位にランクされた職にある者として、僕にとっても他人事ではありません。
しかし、生成AIの「爆誕」に象徴されるシンギュラリティは、単にコンサルタントや哲学者などの(多かれ少なかれ)知的な職業に関わる個々の失業問題を超えて、より深刻で、より根深く、より広範な問題を、人類全体に突きつけているようにも思えます。その問題を、ここでは「人間失業(※4)」と名づけておきましょう。
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※4 人間失業:「人間失業」については『BEYOND SMARTLIFE:好奇心が駆動する社会』(日立京大ラボ編/日経BP日本経済新聞出版本部)を参照。
では、「人間失業」とはなんでしょうか?それはどのようなメカニズムで発生するのでしょうか?またそれを解決する、ないしは回避する方策はあるのでしょうか? もしあるとしたら、それはどのようなものなのでしょうか?
以下では、これらの問題を考えていくなかで、西洋哲学に端を発し、近現代社会におけるデファクトスタンダードとなっている人間観、すなわち「できること」を基軸とする人間観を炙り出し、それに対するオルタナティブとして「できなさ」に焦点を当てた人間観を提案していこうと思います。そのうえで、この「できなさ」を踏まえ、「WEターン(※5)」と僕が呼んでいる、価値観の転換を素描していきます。
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※5 WEターン:WEターンについては、見出し「WEターン:IからWEへ」で詳しく説明します。
人間は、さまざまな能力を持ち、多様な機能を備えています。僕らは歩くことも、走ることも、言葉を話すことも、考えることも、他人の心を汲み取ることもできます。
けれども、言うまでもなく、これらの能力や機能はどれもこれも無際限ではなく、 たかだか有限です。従って、ある特定の能力や機能に関して、人間より優れた能力や機能を備えた存在者──これを「凌駕機能体(りょうがきのうたい)」と呼びましょう──も当然、存在していますし、また存在しえます。例えば、人間より速く走ることができる動物はザラにいるのです。
それだけではありません。人間は自分の能力を超えた機能を持つ人工物を次々と発明し、人間の営みを、その人工的な凌駕機能体の動作に置き換えることで、自分たちの生活を便利にしてきました。馬車や自動車や飛行機といった移動手段も、そのような人工的凌駕機能体の一例です。
しかしながら、自然物であれ、人工物であれ、このような機能体によって自分の何がしかの機能が凌駕されたからといって、人間の自尊心、自負心、さらには尊厳や「かけがえのなさ」は1ミリたりとも、すり減ったり、揺らいだりすることはありませんでした。
なぜでしょうか?
答えは、明らかです。人間は、他の動物や人工物が逆立ちしても敵わない能力ないしは機能を持っており、それを備えていることに自らの尊厳や「かけがえのなさ」を見出してきたからです。さまざまな凌駕機能体が登場し、さまざまな能力が乗り越えられ、凌駕されたとしても、そのような、自分が一番だと言える能力や機能──それを「一番能力」ないしは「一番機能」と呼びましょう──に関する優位性が保たれている限り、人間の自負心や尊厳は安泰だったのです。
そのような人間にとっての一番能力ないしは一番機能とは、言うまでもなく「知的能力」です(ここでいう「知的能力」とは、例えばトラクターや車やトラックを運転する能力をも含みます)。
人間は、その「知的能力」に関しては、この地球上のあらゆる存在よりも優れており、それをもっている限り、例えば移動や運搬といった仕事が機械によって次々に取って代わられたとしても、その「知的能力」に関してだけは、凌駕機能体による代替は起こらないし、起こりえない。人間は、そのように考えていたのではないでしょうか。
凌駕機能体によって置き換えられることを「かけがえのなさ」の喪失だとすると、 知的能力に関してだけは、そのような喪失は起こらない。このように「知的能力」は 人間の「かけがえのなさ」、そしてそのような「かけがえのなさ」としての「尊厳」の「最後の砦」だったのです。
しかし、AIの登場によって、この「最後の砦」も危うくなってきました。いわん や、AIが人間の知的能力を凌駕するシンギュラリティが起こってしまえば、「最後の砦」もついに陥落の時を迎えることになります。
人間の「かけがえのなさ」や尊厳、さらには自尊心や自負心を支えていた「最後の砦」である「知的能力」という「一番能力」に対してすら、ついに凌駕機能体が登場し、結果として、人間の「かけがえのなさ」や尊厳が失われ、自尊心や自負心がズタズタになる。これが「人間失業」です。シンギュラリティとは実は、このような人間失業をもたらす事態でもあったのです。
では、人間失業、すなわち人間としての尊厳や「かけがえのなさ」が失われる事態を防ぐためにはどうすればいいのでしょうか? 人間の知的尊厳を守るために、生成AIなどの開発(※6)をやめるべきなのでしょうか?
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※6 生成AIなどの開発:人間失業への処方箋と言うわけではないが、実際に、生成AIの開発をいったん止めるべきだとする提言もなされている。
そのような発想も当然ありえます。しかし、ここではそれに対するオルタナティブ、別の道を考えてみましょう。
「できなさ」にこそ人間の尊厳がある
例えば、人間の尊厳や「かけがえのなさ」を「知的にできること」から別の「できること」に置き換えるという方策も考えられています。「知的能力」が凌駕されてしまったのであれば、まだ凌駕されていない他の「できること」に「かけがえのなさ」を求めればいいというわけです。
しかし、他者の気持ちに共感できること、コミュニケーションをとれること、感情を抱けること......どのような能力や機能であっても、それらはたかだか有限であることに変わりありません。それらを超える凌駕機能体は原理的に存在する可能性があるのです。単に人間の尊厳を「知的にできること」に置くことをやめるというのでは不十分なのです。将来そのような機能体が出現した場合、やはり人間失業は避けられません。
例えば、人間より優れた共感能力を備えたロボットや、肉体や意識を伴った人工生命が生み出された場合、凌駕機能体が現実のものとなり、共感能力という最後の砦が陥落する事態が起こるのです。
人間の「かけがえのなさ」を何らかの「できること」に置く以上、それらを凌駕する凌駕機能体が生み出され、「かけがえのなさ」が奪われてしまう未来はいずれにせよやってくるのです。
人間の尊厳や「かけがえのなさ」を「できること」に置く発想の背後には、西洋哲学で長らく幅を利かせてきた「機能主義的人間観(人間をなんらかの能力や機能の集合体・束と見なす思想)」が控えています。
機能主義的人間観とは、人間を、知性・感情・意志といった複数の機能の「束」と捉える考えです。これらの機能のうち、何が支配的で一番重要かは哲学者によって意見が分かれます。
例えば、デカルトやカントやヘーゲルは知性や理性が一番重要だと考えました。それに対して感情こそが主人公だと言ったのがヒュームやフォイエルバッハ、いやいや一番の支配者は意志だと主張したのがショーペンハウワーやニーチェです。
機能とは「何かができる能力」です。人間を機能の束として捉えるとは、人間を「できること」の束と見なすこと、「できる存在」とすることに他ならないのです。
一方、例えば東アジアには、「できる」人間ではなく、むしろ「できない」人間、無能な人を理想とする「聖なる愚者」とでも呼べる思想伝統があります。例としては、老子の「混沌たる愚者」、法華経の「常不軽菩薩」、宮沢賢治の「デグノボー」などがあげられます。
以下では、このような伝統を踏まえ、人間の尊厳や「かけがえのなさ」を「できること」に置くこと自体を自明視せず、それに対して疑問を投げかけ、それに対するオルタナティブを探ること。「できること」ではなく、「できなさ」を基軸に据えた人間観、そして「できなさ」にこそ、人間の尊厳や「かけがえのなさ」があるとする考えを、提案し、素描してみたいのです。
二つの「根源的なできなさ」
ここで僕が着目するのは、「わたし」=個人としての人間は、「自分一人では何もできない」ということ、そして自分の行為を支えてくれる数多くのエージェント(※7)のうち、どれ一つをも「完全にはコントロールすることができない」ということ。これら二つの「できなさ」です。僕は前者の「できなさ」を、「単独行為不可能性」、後者を「完全制御不可能性」と呼んでいます。
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※7 エージェント:なんらかの力を持ち、それを発揮する存在者のこと。ここでは、人間以外の生物の他に、自転車などの無生物、さらには社会システムなど、様々なものを含む。
この二つの「できなさ」は、人間であれば誰にでも備わっており、そこから逃れる術がないという意味で「根源的なできなさ」を持っています。いや、人間のみではなく、AIやロボットを含めたすべての人工物、すべての自然物、この世のありとあらゆるエージェントに備わった「普遍的なできなさ」でもあります。
一人でできないことは世の中に数多くあります。例えば、チームプレーである野球やハーモニーを楽しむ合唱といった集団行為は、当然ながら一人ではできません。一方、ランニングや独唱といった一人でできる行為、すなわち「単独行為」もたくさんあるように思えます。本当に僕らはランニングや独唱ですら一人でできないと言えるのでしょうか。
いま、自転車乗りという、これまた一見、単独行為と思えるケースに即して、考えてみましょう。
確かに自転車に乗ってペダルを漕いでいるのは「わたし」一人です。でも、そもそも自転車がないと、自転車乗りという行為は成立しません。
それだけではありません。自転車が走る道路がないと「わたし」は自転車を上手く走らせることができません。信号や横断歩道などの交通インフラも必要でしょう。
また、適切な大気圧や重力がなければ、「わたし」はフラフラと宙に浮いてしまい、自転車を漕ぐどころではなくなってしまいます。さらに、何百年か前に、誰かが自転車を発明していなければ、「わたし」が今日、自転車に乗ることもなかったでしょう。
加えて、自転車が製造されて販売されていなければ、わたしの自転車乗りもこれまた成り立たなかったはずです。
「わたし」の自転車乗りという行為には、多くの人々、生物、無生物、自然環境、生態系、社会システム、歴史上の出来事といった多種多様のエージェントが関わっているのです。そして、それらの支え、助け、アフォード(※8)がなければ、「わたし」の自転車乗りという行為は遂行できないのです。
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※8 アフォード:環境が、結果としてその中にいるエージェントの行為を支えていること。例えば、平らで滑らかな道路があるおかげで、私たちは自転車でスムーズに移動することができる。ここでは、道路が「自転車に乗る」という行為をアフォードしている。
言い換えると、これら多種多様で無数のエージェントからなるシステム──これを「マルチエージェントシステム」と呼びましょう──がなければ、自転車乗りという行為は成立しないのです。
もちろん「わたし」は、この自転車乗りという行為にとって欠かせないエージェン トです。でも今、お話ししたように「わたし」だけでは、自転車乗りという行為は成り立ちません。「わたし」は、行為にとって「必要なエージェント」であっても、「わたし」さえいれば行為が十分に成り立つという意味での「十分なエージェント」ではないのです。
同じことは自転車にも、道路にも、上で列挙した、その他の多くのエージェントについても言えます。それらの各々も、必要なエージェントではあっても、十分なエージェントではなかったのです。
以上のことは自転車乗り以外のすべての身体行為、例えば、ランニングや独唱についても成り立ちます。
「わたし」は一人では何もできない存在なのです。単独行為は不可能なのです。
「わたし」だけでは何もできない
このような「できなさ」、単独行為不可能性は必ずしもネガティブな意味のみを持つわけではありません。
いま、マルチエージェントシステムを、「わたし」を含んだ多数のエージェントからなる存在であるという意味で「われわれ」と呼びましょう。すると「わたし」は生きて身体行為をしている限り、つねに、その都度、成り立つ「われわれ」の一員として、「われわれ」に支えられてあることになります。このように、単独行為不可能性は、「わたし」が生きて行為をしている限り、つねに「われわれ」と共にあることを意味しています。
もちろん、「わたし」がどのような行為をしているかによって、その都度の「われわれ」も変わります。しかしいずれせよ、「わたし」のまわりにはつねに何からの「われわれ」がいてくれるのです。「わたし」にとって「われわれ」は着脱可能な衣装のような存在ではありません。言い換えると、すべての「われわれ」を脱ぎ捨てても存在する「裸のわたし」なるものは単なる幻想です。「われわれ」は「わたし」にとって不可逃脱的な存在なのです。
このように、単独行為不可能性としての「できなさ」は、「わたし」がつねに既に必ず「われわれ」の一員としてあり、「われわれ」に支えられてあることを意味しています。それは、このようなポジティブな事態を指し示しているという意味で、それは、「われわれ」に対して開かれた「できなさ」だったのです。
「できなさ」という「かけがえのなさ」
このような単独行為不可能性を抱えた「わたし」はまた、マルチエージェントシステムとしての「われわれ」にとって「かけがえのない」存在でもあります。「わたし」がいなければ、それを支える「われわれ」は、そもそも、存在しようがないのです。
マルチエージェントシステムは、「わたし」が存在しなければ雲散霧消してしまうのです。
この意味で、「わたし」は「かけがえのない」存在です。このような「わたし」の、「われわれ」にとっての「かけがえのなさ」は、「わたし」の「できること」とは無縁です。
「わたし」は、何かができたり、何かの能力を持っているから、「われわれ」にとってかけがえのない存在なのではありません。むしろ逆に、「わたし」は一人では何もできないからこそ、「われわれ」を成立させ、その「われわれ」にとって「かけがえのない」存在となっているのです。
そして、このような「わたし」の「かけがえのなさ」は、「わたし」が生きて行為をしている限り失われることはありません。天涯孤独な「わたし」であっても、大した取り柄のない「わたし」でも、みんな、この「できなさ」としての「かけがえのなさ」を持ち、それを失うことはありません。「できなさ」としての「かけがえのなさ」を持たない人は、誰もいないのです。
「わたし」は「できる」から「かけがえがない」のではありません。「できない」からこそ「かけがえがない」のです。
このような「できなさ」としての「かけがえのなさ」は、どのような凌駕機能体が現れても失われることはありません。たとえ「わたし」より、より「できない」存在がいたとしても、「わたし」が「わたし」なりのできなさを抱えている以上、「わたし」は「わたし」の「われわれ」にとって「かけがえのない」存在であることには変わりがないのです。
ここでは人間失業は起こりません。逆に言えば、機能主義的人間観を捨てて、人間を単独行為不可能性を抱えた「できない」存在と見なすことが人間失業を防ぐ一つの手立てとなりうるのです。
WEターン:IからWEへ
これまで説いてきた論では、「われわれ」が主役であって「わたし」はいなくてもいいのかと解釈されるかもしれません。それは誤解です。
マルチエージェントシステムのなかに、「わたし」は常に含まれています。必ず、システムの中心に近い部分にいます。消えているわけではありません。
ですが、独立した個体ではない。「わたし」はあくまで行為を「委譲」された、マルチエージェントシステムを成立させているエージェントです。言うなれば、中心的存在ではありますが、「わたし」は結局「one of them」の存在であると考えるのが正しいでしょう。
「わたし」の行為は、それ自体、すでに「われわれ」の行為であると判じられます。「わたし」はもはや、どのように生きようとも「われわれ」=「WE」という枠組みで、考えなくてはいけません。
「わたし」と向き合うことは、自動的に「WE」を見つめること。その思考を総称し、「WEターン」という新たな社会の指針を提唱します。
WEターンという視座において、行為の主体はわたし(I)からわれわれ(WE)へ移行します。そうなると、社会のさまざまな場面で、連鎖的な変化が生じていくでしょう。
大きくは、自己(self)の主体性が拡大されます。
行為をする=Doが、IからWEへ。
「わたし」の認識は「わたし」のみの自己(self-as-I)ではなく、「われわれ」としての自己(self-as-WE)に広がってゆくと考えられます。
Eターンはやがて社会の思想に共有され、「わたし」で閉じている機能主義的人間観を、開放的にしていくでしょう。
人間とは何か?AIと友だちになるためには?これから研究分野の内外で、向き合わざるをえない命題を解くために、WEターンは必要な「改革」であろうと考えています。
一人で考えたり、意志決定をすることはできない
一般的には、何かを考えたり、意志決定をすることは、最も個人的で重要な行為であり、疑う余地なく一人で「できる」ものだと考えられています。しかしながら、僕が考えるWEターンの視座は、このような行為にも及びます。
デカルトは「我思う、故に我在り」と、有名な一節を唱えました。
考えること、その行為によって、「わたし」は存在するという理屈です。
考えるとは、人の最も基本的で大事な行為であり、それが他に成り代わりのない「かけがえのない」ものだと、デカルトは説いています。
それはそれで納得ゆきますが、あえて大胆に述べましょう。デカルトは事実認識が間違っています。
「我思う」ではなく、正しくは「われわれ思う」。
「I think」ではなく「We think」と言うべきでしょう。
「I think」をラテン語では「cogito(コギト)」と言います。しかし複数形の「cogitiamus(コギティアムス)」が、今日の人のあり方であると、私は考えています。
同様にして、一般的に「わたし」は意志決定を、自分だけで可能にしていると認識されています。
自己決定権は、「わたし」の占有権。その独占が、人の優位性の基盤であると思われています。しかしこれが西洋哲学の系譜に連なる、近代文明の誤解のひとつだと、私はとらえているのです。
どのような厳密な決定だろうと、外部から流入する情報やそのときの体調、たまたまの気分など、さまざまな影響によって変化します。それは誰も否定しませんよね。
「わたし」の立場は揺るがず、あくまで独裁的決定権は「わたし」にある。外部の情報や体調などは、単なる「わたし」の影響者だとされています。
しかし、その解釈は「われわれとしての自己」の人間観において、事実に反しています。
決定というものは、多くのエージェントの相互連携による、共同の帰結です。
「わたし」は中心に近いところにいて、決定の最後のボタンを押しているに過ぎません。
「われわれ」のシステムにおいては、「わたし」の専決権はなくて、あらゆる決め事は共同決定でなされています。
それでも決定は、「わたし」だけで行っているのだと、主張される向きもあるでしょう。しかし決定に至るまでの理路を冷静に見返してゆけば、「わたし」以外の多くのエージェントのこなしてきた形跡を、見いだせるはずです。
「わたし」は、いかなる行為を行ったとしても、実質的に「われわれ」の共同決定のもとにある。そのように考えると、いまの人権問題など、社会の課題の取り組み方は、ガラッと覆されるのではないでしょうか。
「わたし」は単に、最終決定のボタンを押す権限を委ねられた「one of them」なのです。
さまざまなWEターン
一般の人生観も、変わっていくでしょう。
人は、現段階では「わたし」が生きていると考えていますが、WEターンの後には「われわれ」が生きているという認識になります。
「わたし」じゃなくて、「われわれ」が生きる意識になれば、だいぶ生き方は違うものになりますよね。
WEターンの枠組みでは「他人は他人、自分は自分」「他人に関心はない。自分も他人とは関係ない」という具合に、人と自分を潔く分断することはできません。「われわれ」のなかで、すべての行為の責任のユニットを分担しています。ある種の連帯責任を負っている状態です。
もちろん「わたし」の行為において、「わたし」は最大の責任を負っていますが、外の他者は一切関係なしということにはなりえません。逆も然しかりです。
例えば、自転車で通勤しているとき、行為の責任の重点は「わたし」にあります。
しかし交通ルール遵守や自転車の整備、または事故を避けるための目配せや、地域の人たちとの挨拶など、「われわれ」との好適な連携を欠かすことはできません。
WEターンの社会では、「われわれ」で生きる、Self-as-WEの視点が基本となります。
極端な話では、病気や経済的なトラブルなど深刻な苦境に陥ったとしても、むやみに自死を選べなくなります。「わたし」は苦しいからといって、勝手に「われわれ」の死を、選択してはいけないのです。
自殺抑止効果があるとは言い切りませんが、WEターンは「それでも何とか生きてみよう」という、最後の奮起の力を人にもたらすのではないでしょうか。
ウェルビーイングを考える上でも、WEターンは前向きに影響するでしょう。 多くの人は、自分の人生を幸福にデザインすることで手一杯ですが、WEターンによって「わたし」のウェルビーイングではなく、「われわれ」のウェルビーイングという順位の入れ替えが起きます。
「わたし」を抑えて、「われわれ」に奉仕しなさいと言いたいわけではありません。
「My Life」から「Our Life」へ、人生のWEターンが起きたとき、「われわれ」の行為責任やエージェントに分散される大小の責任は、逃れられないものになります。
例えば、殺人など重い犯罪が起きたとき、最も責任を有するのは、その行為を行った殺人犯です。しかし、赤の他人である「わたし」は、完全に無関係の立場でいられるでしょうか?
犯罪行為そのものには無関係であっても、「わたし」は犯罪者が犯行に至る背景、すなわち「われわれ」と一体です。
重大な犯罪が二度と起こらないよう、社会の治安を守ったり、法制度を再設計していく責任を、「わたし」は免じられてはいません。
「わたし」には犯罪を、無数の要因が複雑に絡まった社会的災害としてとらえ、防災・減災を試みる市民的義務が付託されています。貧困や武器の氾濫など、社会を脅かすものに対しても同様です。
「わたし」は「われわれ」の健全を守っていく責任を(人によって多少はありますが)、本質的に負っています。そうすることで初めて、権利というものを行使できます。
WEターンの社会は、権利を有した先に責任があるのではなく、責任を果たした「わたし」が、権利を持ち得るというイメージです。
「われわれ」の出来事に関心を持たなかったり、距離を置いてはいけません。自ずから、責任を果たしていく姿勢が大切です。それが「わたし」の権利を、豊かに広げることにつながります。
そして、人とAIの関係を考える上で重要なベースとなる「自由のWEターン」も引き起こされます。ただ、これはもう少し後でお話しすることにしましょう。
※編集注:「自由のWEターン」については「第四講 AIと自由」でより詳しく説明されています。気になる方はぜひ『AI親友論』を手にとってみてください
「第六講 AIに倫理を装備する」の再編集記事はこちら↓↓↓