WEターン:IからWEへ
これまで説いてきた論では、「われわれ」が主役であって「わたし」はいなくてもいいのかと解釈されるかもしれません。それは誤解です。
マルチエージェントシステムのなかに、「わたし」は常に含まれています。必ず、システムの中心に近い部分にいます。消えているわけではありません。
ですが、独立した個体ではない。「わたし」はあくまで行為を「委譲」された、マルチエージェントシステムを成立させているエージェントです。言うなれば、中心的存在ではありますが、「わたし」は結局「one of them」の存在であると考えるのが正しいでしょう。
「わたし」の行為は、それ自体、すでに「われわれ」の行為であると判じられます。「わたし」はもはや、どのように生きようとも「われわれ」=「WE」という枠組みで、考えなくてはいけません。
「わたし」と向き合うことは、自動的に「WE」を見つめること。その思考を総称し、「WEターン」という新たな社会の指針を提唱します。
WEターンという視座において、行為の主体はわたし(I)からわれわれ(WE)へ移行します。そうなると、社会のさまざまな場面で、連鎖的な変化が生じていくでしょう。
大きくは、自己(self)の主体性が拡大されます。
行為をする=Doが、IからWEへ。
「わたし」の認識は「わたし」のみの自己(self-as-I)ではなく、「われわれ」としての自己(self-as-WE)に広がってゆくと考えられます。
Eターンはやがて社会の思想に共有され、「わたし」で閉じている機能主義的人間観を、開放的にしていくでしょう。
人間とは何か?AIと友だちになるためには?これから研究分野の内外で、向き合わざるをえない命題を解くために、WEターンは必要な「改革」であろうと考えています。
一人で考えたり、意志決定をすることはできない
一般的には、何かを考えたり、意志決定をすることは、最も個人的で重要な行為であり、疑う余地なく一人で「できる」ものだと考えられています。しかしながら、僕が考えるWEターンの視座は、このような行為にも及びます。
デカルトは「我思う、故に我在り」と、有名な一節を唱えました。
考えること、その行為によって、「わたし」は存在するという理屈です。
考えるとは、人の最も基本的で大事な行為であり、それが他に成り代わりのない「かけがえのない」ものだと、デカルトは説いています。
それはそれで納得ゆきますが、あえて大胆に述べましょう。デカルトは事実認識が間違っています。
「我思う」ではなく、正しくは「われわれ思う」。
「I think」ではなく「We think」と言うべきでしょう。
「I think」をラテン語では「cogito(コギト)」と言います。しかし複数形の「cogitiamus(コギティアムス)」が、今日の人のあり方であると、私は考えています。
同様にして、一般的に「わたし」は意志決定を、自分だけで可能にしていると認識されています。
自己決定権は、「わたし」の占有権。その独占が、人の優位性の基盤であると思われています。しかしこれが西洋哲学の系譜に連なる、近代文明の誤解のひとつだと、私はとらえているのです。
どのような厳密な決定だろうと、外部から流入する情報やそのときの体調、たまたまの気分など、さまざまな影響によって変化します。それは誰も否定しませんよね。
「わたし」の立場は揺るがず、あくまで独裁的決定権は「わたし」にある。外部の情報や体調などは、単なる「わたし」の影響者だとされています。
しかし、その解釈は「われわれとしての自己」の人間観において、事実に反しています。
決定というものは、多くのエージェントの相互連携による、共同の帰結です。
「わたし」は中心に近いところにいて、決定の最後のボタンを押しているに過ぎません。
「われわれ」のシステムにおいては、「わたし」の専決権はなくて、あらゆる決め事は共同決定でなされています。
それでも決定は、「わたし」だけで行っているのだと、主張される向きもあるでしょう。しかし決定に至るまでの理路を冷静に見返してゆけば、「わたし」以外の多くのエージェントのこなしてきた形跡を、見いだせるはずです。
「わたし」は、いかなる行為を行ったとしても、実質的に「われわれ」の共同決定のもとにある。そのように考えると、いまの人権問題など、社会の課題の取り組み方は、ガラッと覆されるのではないでしょうか。
「わたし」は単に、最終決定のボタンを押す権限を委ねられた「one of them」なのです。
さまざまなWEターン
一般の人生観も、変わっていくでしょう。
人は、現段階では「わたし」が生きていると考えていますが、WEターンの後には「われわれ」が生きているという認識になります。
「わたし」じゃなくて、「われわれ」が生きる意識になれば、だいぶ生き方は違うものになりますよね。
WEターンの枠組みでは「他人は他人、自分は自分」「他人に関心はない。自分も他人とは関係ない」という具合に、人と自分を潔く分断することはできません。「われわれ」のなかで、すべての行為の責任のユニットを分担しています。ある種の連帯責任を負っている状態です。
もちろん「わたし」の行為において、「わたし」は最大の責任を負っていますが、外の他者は一切関係なしということにはなりえません。逆も然しかりです。
例えば、自転車で通勤しているとき、行為の責任の重点は「わたし」にあります。
しかし交通ルール遵守や自転車の整備、または事故を避けるための目配せや、地域の人たちとの挨拶など、「われわれ」との好適な連携を欠かすことはできません。
WEターンの社会では、「われわれ」で生きる、Self-as-WEの視点が基本となります。
極端な話では、病気や経済的なトラブルなど深刻な苦境に陥ったとしても、むやみに自死を選べなくなります。「わたし」は苦しいからといって、勝手に「われわれ」の死を、選択してはいけないのです。
自殺抑止効果があるとは言い切りませんが、WEターンは「それでも何とか生きてみよう」という、最後の奮起の力を人にもたらすのではないでしょうか。
ウェルビーイングを考える上でも、WEターンは前向きに影響するでしょう。 多くの人は、自分の人生を幸福にデザインすることで手一杯ですが、WEターンによって「わたし」のウェルビーイングではなく、「われわれ」のウェルビーイングという順位の入れ替えが起きます。
「わたし」を抑えて、「われわれ」に奉仕しなさいと言いたいわけではありません。
「My Life」から「Our Life」へ、人生のWEターンが起きたとき、「われわれ」の行為責任やエージェントに分散される大小の責任は、逃れられないものになります。
例えば、殺人など重い犯罪が起きたとき、最も責任を有するのは、その行為を行った殺人犯です。しかし、赤の他人である「わたし」は、完全に無関係の立場でいられるでしょうか?
犯罪行為そのものには無関係であっても、「わたし」は犯罪者が犯行に至る背景、すなわち「われわれ」と一体です。
重大な犯罪が二度と起こらないよう、社会の治安を守ったり、法制度を再設計していく責任を、「わたし」は免じられてはいません。
「わたし」には犯罪を、無数の要因が複雑に絡まった社会的災害としてとらえ、防災・減災を試みる市民的義務が付託されています。貧困や武器の氾濫など、社会を脅かすものに対しても同様です。
「わたし」は「われわれ」の健全を守っていく責任を(人によって多少はありますが)、本質的に負っています。そうすることで初めて、権利というものを行使できます。
WEターンの社会は、権利を有した先に責任があるのではなく、責任を果たした「わたし」が、権利を持ち得るというイメージです。
「われわれ」の出来事に関心を持たなかったり、距離を置いてはいけません。自ずから、責任を果たしていく姿勢が大切です。それが「わたし」の権利を、豊かに広げることにつながります。
そして、人とAIの関係を考える上で重要なベースとなる「自由のWEターン」も引き起こされます。ただ、これはもう少し後でお話しすることにしましょう。
※編集注:「自由のWEターン」については「第四講 AIと自由」でより詳しく説明されています。気になる方はぜひ『AI親友論』を手にとってみてください
「第六講 AIに倫理を装備する」の再編集記事はこちら↓↓↓