8月11日から、日本のSNSで大変物議を醸していた映画『バービー』が公開されています。
本国アメリカでは、映画史上に残るレベルの特大ヒット映画であった『ザ・スーパーマリオブラザーズ・ムービー』を、さらにほんの少し上回る記録的な大人気になっていますし、世界中でも、例えば中国などで意外にも大きなヒット作になっているというニュースを見かけました。
一方日本では、この映画に関してアメリカのSNSで巻き起こった『原爆をネタにした悪ふざけ』とセットの印象になってしまいました。
私は『バービー』を公開日に見て、これはなかなか名作だし、世の中に言われているような「単純に男を断罪しまくってスッキリするフェミニズム映画」みたいなものではないと思っています。
しかしこの映画の話をすると、日本のSNSでは内容以前に「ああ、あの原爆の映画?」という反応が返ってくることがかなりあります。
フェアに事情を整理すると、映画の内容自体には原爆も日本も全く関係ないですし、「原爆ネタ」はあくまで映画『オッペンハイマー(原子爆弾の製造に関わった物理学者で“原爆の父”と呼ばれているロバート・オッペンハイマーを扱っている)』とアメリカで同時ヒットしている現象に対して、SNSで流行した悪ふざけにすぎないとは言えます。
問題は映画の公式宣伝アカウントがそのSNSの悪ふざけにちょっと参加した部分で、ただこれも一応配給会社であるワーナーの日本支社が本社に謝罪を求め、その後米国公式も謝罪をしています。
ただし、「じゃあ問題ないじゃん」かというとそうとも言えず、その謝罪の仕方自体が、抗議している日本社会向けにはメッセージが届くようにしつつ、原爆ネタで大盛り上がりをしているアメリカ国内のSNSにおいて「ワーナーは謝罪した」という印象があまり拡散しないようにしているのではないか、と分析する人もいます(こちらに詳しい経緯がまとめられていました)。
これは私も同じ印象を持っており、アメリカにおいて「原爆について疑義を唱える」ことは非常にセンシティブな話題であることがそこから伝わってくるような感触がありました。
結局まとめると、
・『バービー』の内容自体には原爆に関わる部分は全くない(これは本当に“ゼロ”というレベルで全く関係ないです)
・一方アメリカ社会の気分としては「原爆を悪ふざけのネタにする空気」は十分あるからこそSNS担当者も軽率に乗っかってしまった
・今回の「謝罪」は日本社会に向けてはちゃんとしているように見えるが、「原爆ネタで盛り上がっているアメリカのSNS」に水をさすようなことはしたくないという会社の意図は透けて見える感じがある
…というような現象だったと言えるでしょう。
さて、今日は終戦記念日です。
世界で唯一の被爆国であり、また、いわゆる「第二次世界大戦における戦犯」的な十字架にもかけられている私たち日本人は、このアメリカ社会における「原爆で悪ふざけをする空気」に対してどういうメッセージを発していけばいいのでしょうか?
それは、意外にもこの2本の映画、『バービー』と『オッペンハイマー』が持っているある複雑な配慮の中から、学ぶべき点があります。
そこには、強烈に分断されゆく今の人類社会において、「私たち日本人にしか果たせないメッセージの出し方」を教えてくれているのだという話をしたいと思っています。
倉本圭造
経営コンサルタント・経済思想家
1978年生まれ。京都大学経済学部卒業後、マッキンゼー入社。国内大企業や日本政府、国際的外資企業等のプロジェクトにおいて「グローバリズム的思考法」と「日本社会の現実」との大きな矛盾に直面することで、両者を相乗効果的関係に持ち込む『新しい経済思想』の必要性を痛感。その探求のため、いわゆる「ブラック企業」や肉体労働現場、カルト宗教団体やホストクラブにまで潜入して働く、社会の「上から下まで全部見る」フィールドワークの後、船井総研を経て独立。企業単位のコンサルティングで『10年で150万円平均給与を上げる』などの成果をだす一方、文通を通じた「個人の人生戦略コンサルティング」の中で幅広い「個人の奥底からの変革」を支援。著書に『日本人のための議論と対話の教科書(ワニブックスPLUS新書)』『みんなで豊かになる社会はどうすれば実現するのか(アマゾンKDP)』など多数。
1:「本当に大事なメッセージはこっそり言う」のが今の米国のトレンド?
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私はこの記事の執筆を依頼されていたこともあり、あまり期待せず半分仕事で『バービー』を観に行きましたが、個人的な感触としては「これはものすごい名作なのではないか」という気持ちになりました。
日本では「行き過ぎたフェミニズム映画」だと批判する漫画家の人が話題になっていましたが、でも実際ちゃんと見ると『バービー』は既存のフェミニズムをも批判している映画だったと私は思います。
本作が非常にうまくできているのは
女性はいつも被害者なんだ!この世界に不幸があるとしたらそれは全部男が悪いんだ!
…と思っているタイプの女性に対して、
ガールズ・パワー全開でアホな男どもをバッタバッタとなぎ倒す痛快な映画
…であるかのように“見える”作りになっています。
しかし一方で、注意深く見ていくと、
“そういうフェミニズム”って、ただ昔の男社会の悪いところを裏返して同レベルの仕返しをしているだけだよね。我々はもう“その先”を目指さないといけない時代だよね
…というメッセージが隠されていて、「ムカつく男どもをぶっ飛ばす映画で痛快だった!」と思って観ていた観客にも、その「隠れメッセージ」がサブリミナル的に?残るような仕組みになっている。
一方で実は、原爆の父を描いて同時期に大ヒットになっている『オッペンハイマー』も全く同じ構造でできているらしいんですね。
こちらは日本でまだ公開されていないので、米国在住の作家・ジャーナリストの冷泉彰彦氏の論評を参考にさせていただきますが、同作も見ようによっては、
原爆作って戦争に勝ったぜイエー!USA!USA!
…みたいな映画のように見ることもできる作りになっているそうです。
実際、YouTubeで公開されている予告編でも、
「ナチスに先に原爆を作られたらこの世の終わりだ!」「米国の使命として、総力を結集して先に作らねば!」「集まる一流科学者たちの奮闘!」「ついに完成させたぞ!」
…的なドラマのような「印象」を振りまいています。
しかし、そうやって「タフガイな米国保守派も観るべき良い映画ですよ」という印象を持たされ、「よしよし俺はそういうタフな映画はちゃんと観ておくような男だぜ」と思って映画館に足を運んだ観客が、後半でいかにその原爆が凄惨な惨禍をもたらすものであるのかを、深く印象づけられてしまう展開を受け止めざるを得なくなるわけですね。
それも、「みんなの善のため、必死に努力しスーパーパワーを手に入れたヒーローが、そのパワーの副作用で被害を与えてしまう因果に苦しむ」という、アメコミ仕立ての「保守派からしても受け止められるストーリー」に乗せて伝えているような印象を受けました。
2:商業主義の極限で新たに生まれつつある「語り」のモード
この「作り方」は本当にすごいな!と私は衝撃を受けまして、なんだかアメリカの商業主義が極まりすぎた結果、単なる20世紀的な「作家性」みたいなビジョンよりも深く人間社会の真実をえぐって提示する機能を獲得しつつあるようにも思いました。
先程引用させていただいた冷泉氏の記事には、「Worth it or Woke?」という米国保守派のウェブサイトの話が出てきます。
サイト名を直訳すると、「観る価値があるか、それとも“くだらないポリコレ映画(Woke)”か?」という感じで、日本語っぽくすれば「ポリコレ汚染度メーター」みたいな呼び名になるかもしれません。
このサイトにおいて映画『オッペンハイマー』は百点満点中79点の評価になっており、
「これは”くだらないポリコレ映画”ではない。保守派のタフガイも観るべき」
…という評価で、ある意味でクリストファー・ノーラン監督に“まんまと騙されている”と言えるのではないか?という冷泉氏のご意見にはなかなか説得力を感じました。
もちろん一方で『オッペンハイマー』の「反戦・反核兵器映画」度合いが足りない、と批判する声もあります。
映画『バービー』の方も、SNSを見ると「純度100%のフェミニズム映画で、これに文句を言う男とかもう時代遅れ甚だしいし、いなくなるべきだよね」みたいな”フェミニスト”寄りの女性の声が溢れていますが、一方ほんの一部ですが「ガチの先鋭化したフェミニズム理論家」の中には批判している人もちらほらいるようです。
つまり、
・「徹底的に先鋭化した自分の立場だけにこだわりそれ以外を認めない急進派」からすると許せない裏切り
…に見えるんだけど、
・「大衆レベル」では、そんな部分は一切意識されずに、「多面性を持った作品のメッセージ性」が丸呑みに受け入れられて記録的なヒット作になる
…という構造になっている。
こういう現象について、いろんな感想を持つ人がいるでしょうが、私はもう諸手を挙げて「すごく良い流れが来ている!」と感動しています。
「こういう作品」を生み出し、そして世界的なヒット作に押し上げるパワーこそが、「アメリカの最も信頼できる部分」「アメリカの良識の底力」だと言っても過言ではない。
それぐらい私は感動している。
あまりに感動したので、深夜のレイトショーで2回目を観に行って、映画館で売られている800円の「はじめてのバービー」人形をお守りに買ってきて、仕事用のデスクに置いてある「ゴールド・エクスペリエンス・レクイエム」のフィギュアの隣に飾りました。
3:分極化した時代に「逆側の相手に本当に伝える」ために必要なこと
私がこの流れに希望を感じる理由は大きく2つあります。
ひとつめは、「こういう作り」の作品がなければ、現代の分極化した世界においては、「逆側にいる人の作品を観る機会がゼロになる」からです。
もし『オッペンハイマー』が、上映時間中ずっと核兵器の悲惨さと人類の罪深さについて延々と描き、視聴者に懺悔を迫るような内容だったら、アメリカの保守派は一人たりとも観ることはなかったでしょう。
「既に核兵器の悲惨さなど十分理解している人」だけが映画館に行くだけで終わる結果になったに違いない。
『バービー』にしても、例えば「単に男社会の悪かった点を批判するだけじゃなくて、もうこれからは、どうすれば誰もが自然に参加できる社会を作っていくかが大事ですよね」的なメッセージだけを押し出すような、なんか「人情モノ」の雰囲気が漂う映画になっていたら、今現在の社会における女性の扱いに不満を持っているフェミニストは決して満足しない作品になったでしょう。
結果として、そこにあった溝は決して埋まることなく余計に相互憎悪が募るだけで終わってしまったはず。そもそも地味な映画になってここまでヒットすることは決してなかっただろうと思われます。
『バービー』は、「ガールズ・パワー全開でアホな男どもをバッタバッタとぶっ飛ばす痛快作!」の外見をしていて、よほど先鋭化したフェミニストは別としても、「普通に現代社会に不満を持ってる女性視聴者」みたいな人からすれば全く文句のつけようがない。
また、「別に自分はそこまで不満ないし、過激なフェミニストはちょっと苦手だけど」という女性にとっても、まあまあ楽しい感じのトーンになっているのは、その「アホな男たち」の描かれ方が、批判はしつつユーモアとして上品な優しさがあるからだと思います。
結果として多くの女性が、「私たちのための映画」だと思って、作中でバンバン不満をぶちまけて社会を変えていく様子に痛快さを感じ喝采を送り、2時間の映画を見終わった頃には単に先鋭化したフェミニズム理論からはかなり外れたメッセージを本能レベルで受け取るようになっている。
「古い家父長制」をぶちのめしたいのなら、単に「今の社会のダメなところをあげつらって裏返す」だけでは全く不十分で、性別、人生観、その他の違いに関わらず、ちゃんと「誰しもに光が当たる社会」がどうすれば実現するのか?そのためには、個々人が千差万別の不満を持つ現実社会において、地道な利害調整を積み上げていかなくてはいけないのだ、という方向に自然に誘導される。
そして、「今まで女性が描いてきた理想世界」というのは、結局「黒服のCEO(白人・男・老人のようなビッグダディ的存在)」が全て隠れてお膳立てしてくれていた幻想にすぎず、それを本当に排除して超えていきたいなら、それが防波堤として押し留めてくれていた「人間社会の過酷さ」を自分自身も引き受けて生きていかなくてはいけないんだ、というメッセージも伝えられる。
今のアメリカ映画界で歴史的なレベルの二大ヒット作品が共通して「こういう語りのモード」であることは、人類社会が完全に二分されていく時代における大きな希望であると私は感じています。
4:「ベタな正義」から「メタ正義」へ
私がこの2本の映画の作られ方に希望を持っている理由の一つが、「分断された逆側の立場の人へメッセージを伝えていく手法」として新しい価値があるということでした。
一方、もっと本質的で踏み込んだ「2つ目の理由」もあります。
それは「一本の作品にいろんな立場を盛り込んでいく」ようにすると、本質的な意味でも「逆側の立場の人がそれを主張している理由」を取り込まざるを得なくなってくるということです。
私はこういう方向性のことを、お互いに対立する2つのベタな正義を両方とも実現する具体策を考えていこうとする「メタ正義」的なセンスと呼んでいます。
例えば、原爆被害者の立場からすれば、米国保守派の意地のあり方など全く理解できない、したくない対象かもしれません。
しかし、『オッペンハイマー』が描く、「ナチスが先に原爆を独占しかねない危険性がある中では、必死に実現するしかなかったのだ」というストーリー自体は、そう簡単に否定できるものではない「事実」としてあるわけですよね。単に米国保守派を懐柔するための無内容なオベンチャラかというとそうではない。
戦後、結果としてナチス側の原爆開発はアメリカより大分遅れていたことがわかりましたが、当時はそれは知るよしもなかったことで、ちょっとした歴史の細部のズレで、ドイツ側が先に発明する可能性だってありえない話ではなかった。
「そういう状況の中で世界の平和を守るにはどうしたらいいのか?」みたいな話をするならば、「ナチスが先に開発する可能性についてどう対策するのか」というリアルな問題に踏み込まざるを得ない。
これは『バービー』とフェミニズムVS反フェミニズム論争の関係でも同じ構造を内包しています。
このSNS時代に、いろんな人が自分の立場だけを見ていくらでも先鋭化した意見を言える時代になり、過去の社会において「とりあえずの共通了解」だったものは全部破壊されて混沌としてきたわけですけど…。
逆に、「あの人の意見も盛り込まないとダメ、この人の意見も盛り込まないとダメ」を愚直にやっていくと、「単なる個人の頭の中でこねくり回した観念的理想像」なんかよりももっと圧倒的に「現実社会の真実」に近い多面的な現象を多面的なまま描き共有する必要が出てくるし、案外それが可能になってきているわけです。
分断が限界に達した人類社会の新しい「メタ正義的共有軸」が、ここに生まれつつあるのだ、ということが言えるでしょう。
ちょっと古いネット流行語ですが「乗るしか無い、このビッグウェーブに」という感じで私はいます。
5:今後の日本人が果たすべき使命とは?
では、そういう「メタ正義の時代」に我々日本人が果たすべき使命とはなんでしょうか?
誤解されやすいのでまず最初に言いたいのは、私が言う「メタ正義の時代」は、「ベタなレベルの正義を黙らせる」ことを意味しないということです。
「メタ正義」を丁寧に掘り下げることは、「ベタな正義を黙らせずに済む」ために大事なことなんですね。
今回の件で言えば「原爆被害をネタにするのはやめろ」と強く言い続けていくことは非常に大事だと思います。
それは「ベタなレベル」の話かもしれないが、だからといって黙らされてはいけない。
世界的に見て、長いこと続いてきた「第二次世界大戦の決着ですべての善悪を判断する」ような空気の中では、
「日本は“悪”側なのだから、原爆落とされたって、空襲で何百万人死んだって文句は言うな」
…という抑圧が続いてきた側面はあるわけで、それをはねのけてちゃんと「主張する」には、普通のレベルを超えて強く妥協せず延々としつこく言っていくことは大事だと思います。
一方で!
その先、それを「ちゃんと受け入れさせて、それだけでなく新しい人間社会の共有軸的なものに貢献していく」ためにこそ、「メタ正義的な発想」が必要になるわけですね。
「メタ正義感覚」の大事な発想は、
「ベタな正義」で押し流してしまえないほどの一大勢力となっている「敵」がいる場合には、その「存在意義」というのは必ずある。それを否定せず、自分たち側の基準でも可能な「相手側の問題の解決策」を考えていくことで、最終的に「相手に対する完全な勝利」を掴む事ができる
…という発想です。
原爆に関する「米国保守派の言い分」は、やはり「否定できない真実」がそこには含まれている。だからこそなかなか人類は核兵器を減らしていくことができずにいる、現代に続く問題の本質がそこにはある。
米国保守派の言い分と同じでなくてもいいから、「ナチスが原爆を先に作った場合どうなったのか」というような課題について、自分ごととして考えていくことが「敵」に対して本当の意味で打ち克って行くためには必須なことです。
最終的には、
・被害者が黙らされないこと
・その現象が起きた事情を否定せずに「相手側の問題の解決策」を考えること
は、本来完全に両立するはずで、「どちらか」だけを選んで先鋭化させる20世紀の「政治党派争い」のモード自体を、人類は克服していかなくてはいけない段階に来ていると言えるでしょう。
この問題をさらに推し進めていけば、明治維新から戦争までの「大日本帝国」を、どう考えるべきなのか?という問題にも当然踏み込んでいくことになる。
日本のネット右翼さんが言うようなかたちで、旧日本軍の侵攻先でのふるまいが完璧に品行方正だったとはとても言えないし、大東亜戦争が「アジア民族の解放戦争」であったというビジョンが、大義名分以上のものではなかったのは確かでしょう。
しかし問題は、じゃあ帝国主義時代の欧米列強がその他の領域を徹底的に搾取していった時代から、今のようなまがりなりにも建前上は平等性が謳われている世界に変化するまでの間に、「日本」という国の人びとが必死に「抗戦」に命を賭けてのめりこんでいたことの意味が、全くないか…と言われると、それはそれで真実に反していると言わざるを得ません。
そこにおける「日本民族」の貢献を否定する論調は、人類社会の真実から目を背けている。だから必死に「歴史修正主義者どもめ!」とか叩きまくっても永久に押し合いへし合いは続く。
これからは、自分の側の「ベタな正義」を主張するのを諦めてはいけませんが、だからと言って「逆型の立場」が持つ「ベタな正義」を否定し続ける存在は、必ず押し合いへし合いになってそのパワーを失っていく時代になります。
「自分の側のベタな正義」をもっと強く主張したいからこそ、「相手側のベタな正義」をも取り込んで「メタ正義」の段階へ到達しようとする動きを、社会における大きなムーブメントに転換していける構造が徐々に定着していくことになる。
『バービー』と『オッペンハイマー』のヒットはその先駆けとなっていると考えてみましょう。
例えば歴史認識問題のような話で言えば、単に「日本の保守派が言っている内容の細部の事実関係を否定する」のではなく、「人類の歴史を数百年、千年レベル」で見たときに大日本帝国が「果たした役割」を深く掬い出すことによってのみ、あらゆる「歴史修正主義」を超えて、戦争被害者たちの問題を混乱なく社会で共有することが初めて可能になる。
人類社会が真っ二つに分断され、「欧米とは逆側」に属する社会の発言権がどんどん増していき、欧米的理想そのものが完全に吹き飛んでしまいかねない今の時代における「互いに譲れない価値観の対立」は、しばしば「日本の保守派がどうしても譲れない一線」とも重なっているほとんど最重要な問題と言っていい。
「非欧米側」が何を考えていて、どこを譲れば理解しあえるのか?という問題を考えていく上で、避けて通れない最も本質的な課題が、「戦前日本という存在の両義性」から目を背けずに深く掘り下げていくことから見えてくるからです。
そこで「完全にフェアに見た真実」のレベルにおいて、「日本民族の必死の抵抗」の価値を掬いあげることができる世界観を構築すれば、そこで初めて、ありとあらゆる「歴史修正主義」的な抵抗を乗り越えていくことが可能になるでしょう。
それが実際に「どういうことなのか」は、個人が頭の中で観念的に考えていても決して答えは出ない。
国内外の戦争の災禍を重視する人と大日本帝国が果たした歴史的役割を重視する人が、決して妥協せずに叩きあいをしているうちに、『バービー』や『オッペンハイマー』の語りのモードを生み出したものと同じ徹底した商業主義の選別のパワーによって、「どちらもなんだか納得してしまう語りのトーン」が発明されていく。
片方だけの理論を先鋭化して「片方を全否定」するのではなく、両方の正義が多面的に盛り込まれた「ものの見方」が醸成されていくことになるでしょう。
そしてそれは、「そう言っておけば収まりがいいからそういうことにしておけばいいじゃん」という妥協なようで決してそうではなく、深く考えてみれば「歴史の複雑性を丸呑みに理解するならむしろこのやり方がベストだったのだ」というような共有ビジョンとなっていくのです。
同じように、核兵器に関する米国の保守派の意地の中には、今も続いている人類社会の不安定さを本当に解決したいなら、否定できない真実が何割かは確実に含まれている。
「それを否定せず認めて取り込むメタ正義的発想」に踏み込めば踏み込むほど、「その結果として災禍を受けた原爆被害者たち」「その人々が生きていく上で受けた差別」「そもそも白人国家じゃないから原爆を使う決断を気楽にできたんだろう」というような話をも共有する土台が見えてくるでしょう。
日本国内におけるフェミニズム的課題にしても同じです。
私の本業は経営コンサルタントですが、クライアントに多い中京地区(愛知・岐阜・三重・静岡西部)には、地味だけどニッチ分野で世界トップシェアだったりして、まあまあ高給で海外駐在とかもある仕事は結構あります。
愛知県にはそういう仕事を求めて男が全国から集まってきますが、女性はむしろもっとキラキラしてる(けど必ずしも高給ではないことも多い)仕事を求めて県外に出て行ってしまう。
そういうのが積み重なって「ジェンダーギャップ」的な統計数字に現れているわけですが、それは単に「差別」によってのみそうなっているのか?というとそういうわけでもないですよね。
だから「ジェンダーギャップ指数」みたいな何もかも丸めた数字で殴っていても決して解決できない。
むしろ“両側”の事情を持ち寄りながら、「具体的なミスマッチは何なのか」について無数に現実的な調整を積み上げていく必要がある。
この例で言えば「地味で油臭い仕事」だって楽しめる女性は必ずいるはずで、「差別構造を糾弾する」だけでなく「そこにあるミスマッチをいかに解消できるか」において具体的な工夫を積み重ねていくことが必要になる。
そして「中京地区のメーカーが持つ事情」の側も勘案しつつ、「油臭い地味な仕事」だけどそれを楽しめる女性を育成してマッチングする…ところまで実現できれば、そこから先においては、女性が結婚・出産しながら働きやすい細かい制度設計だとか、日常レベルにおける「マイクロアグレッション」みたいなフェミニストが主張してきた課題の解決だって俄然重要な意味を持ってくる。
こうして、社会のあらゆる領域、あらゆる課題において、「逆側にいる人が信じている正義にも意味がある」ということに向き合わざるを得なくなることで、私たちは「次の段階」の、
「誰かをSNSでかっこよく論難しまくることではなく、細部の利害関係を辛抱強く調節し、具体的な解決を世の中で積んでいくことこそが”ほんとうの正義”なのだ」
…というある意味当たり前の真実に向き合うことになるでしょう。
使い古された「善と悪」「欧米と非欧米」という概念が失効しかけ、単なる一つの立場からのベタな断罪では押し合いへし合いになって何も進まなくなる時代にこそ、そのハザマで長い間生きてきて、わかりやすい理屈だけで断罪して決着させることが苦手な私たち日本人が、「メタ正義的解決のプロフェッショナル」として提示していくべき価値があるはずです。
SNS時代の果てしない分断化の先に、徹底した商業主義のムーブメントの先に特異的に浮かび上がりつつある「メタ正義」の世界は、単純に頭で考えた概念で他人を押しのけてしまうことが苦手な私たち日本人が過去長い間積み重ねてきた違和感が、やっと昇華できる道が開けているのです。
(お知らせ)
社会全体が抱える政治的論争から、私のクライアント企業の平均年収をここ10年で150万円ほど引き上げられた事例に至るまで、いろんなレベルで「メタ正義感覚」の実践方法について書いた本『日本人のための議論と対話の教科書』が出ました。
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