Photo by Shutterstock
倉本圭造
経営コンサルタント・経済思想家
1978年生まれ。京都大学経済学部卒業後、マッキンゼー入社。国内大企業や日本政府、国際的外資企業等のプロジェクトにおいて「グローバリズム的思考法」と「日本社会の現実」との大きな矛盾に直面することで、両者を相乗効果的関係に持ち込む『新しい経済思想』の必要性を痛感。その探求のため、いわゆる「ブラック企業」や肉体労働現場、カルト宗教団体やホストクラブにまで潜入して働く、社会の「上から下まで全部見る」フィールドワークの後、船井総研を経て独立。企業単位のコンサルティングで『10年で150万円平均給与を上げる』などの成果をだす一方、文通を通じた「個人の人生戦略コンサルティング」の中で幅広い「個人の奥底からの変革」を支援。著書に『日本人のための議論と対話の教科書(ワニブックスPLUS新書)』『みんなで豊かになる社会はどうすれば実現するのか(アマゾンKDP)』など多数。
先月の電気料金やガス料金にびっくりしたとか、スーパーで普段買っていた食材とか外食チェーンの価格がジリジリ上がっていくのを体感しているとか、長い長いデフレと価格一定の世界に慣れてきた日本の消費者にも、インフレがリアルに体感できるようになってきたのではないかと思います。
今年1月20日に総務省から発表された日本の消費者物価指数は前年同月比4.0%の上昇で、第2次オイルショックの影響が続いていた1981年12月以来、41年ぶりの水準となるそうです。
世界一の経済大国だった昭和時代の遺産を食い延ばしてとりあえずの社会の安定を保ってきたアベノミクスの時代が終わり、今後の日本社会の先行きについて色々と不安を抱えている人も多いのではないでしょうか。
しかし「私だけかね?まだ勝てると思っているのは…(byスラムダンクの安西先生)」ではないですが、個人的にはこの変化は大変良いチャンスだと考えています。
「安定はしているが、なんとなく閉塞感があって先行きの希望が持ちづらい」社会に前向きな変化を起こして、自分たちの美点である安定感を失わずに、グローバル競争の中で新しい強みを見せつけていける変化を起こすことが、私たちなら可能です。
少し自己紹介をしますと、私は大学卒業後2002年にマッキンゼーというアメリカ系の経営コンサルタント会社に入って、そこで日米の経済学者が協力して日本政府と行った比較研究プロジェクト(労働生産性比較と競争環境分析)に参加しました。
その結論は、単純化して言えば「アメリカは企業に血みどろの競争を常に強いているので企業の吸収合併が進み労働生産性が高まっているが、日本の競争はヌルいから駄目なのだ」みたいな当時流行の考え方に基づく研究でした(今でも根強くある言説ではありますね)。
私はその研究の末端で参加しつつ、なんだか本当に社会がこの方向に進んでしまっていいものか思い悩んでメンタルを病んでしまい、退職して「本当のところはどうなのか」と、自分で体験して考えてみようと思って今まで色々とやってきました。
退職後、まだ20代だったこともあり、「恵まれた立場」から見ていてはわからないことを体感として知らねば、というわけでブラック営業会社で働いてみたり、肉体労働をしてみたりホストクラブで働いてみたり、カルト宗教団体に潜入してみたり…などと今考えるとアホなことを色々とやった後に(なぜそんな奇特な事をやっていたのかという話についてはこちらのインタビュー記事などをどうぞ)、船井総合研究所という日本のコンサル会社を経て、今は中小企業相手のコンサルティング業をしています。
私のクライアントの中小企業には、ここ10年で150万円ほど平均給与を引き上げることができた成功例もあるので、「日本企業の賃上げ問題」について
…という点において、ある意味でユニークな提案ができる蓄積をしてきていると自負しています。
そういう立場からすれば、今後の世界経済の変化は、日本社会をちゃんと前に進ませるための非常に大きなチャンスであるように考えています。
ただしそういう「あるべき変化」を起こしていくには、今のようにあらゆる人が現状の問題を全部他人のせいにしてSNSで非難しあうだけで前向きな積み重ねが全然できないような状況を変えていく必要があります。
「日本社会の美点である安定感を失わずにちゃんと変化する」ためには、アメリカにおいてそうであるように一握りの天才に巨大な権力を与えて普通の人の大群をなぎ倒して大きな成果を上げる…ようなモデルでは“ない”形の変化を起こす必要があるからです。
日本社会が自分たちの美点を失わずに、それでもグローバル競争の中で新しい地歩を固めていくには、一握りの天才によって全てをなぎ倒すアメリカ型の革命ではなく、ある種平凡で普通な人間同士の高速バケツリレー方式のようなものでお互いの意図を読み合って社会を変えていくしかありません。
そのためには、この記事を読んでいる「普通の人」であるあなたの協力が必要です。
脊髄反射でぶつかりあうSNSでの論争から離れて、「結局何をどうしたらいいのか」について、整理して考えるための記事を書きます。
単純に整理すると、我々はこれから
・協力してインフレの悪影響を軽減していく
・協力してインフレを乗りこなし給料をあげていく
…の2つの大きな問題を解決していかねばなりません。
このうち、「給料を上げていく」方法については、この連載の前回記事などで扱ったので、そちらを読んでいただければと思います。
今回は、「インフレの悪影響を軽減する」ために、世界で日本にしかできないような方法について考える記事になっています。
1:インフレから逃げてはいけない
そもそもこのインフレは日本だけで起きているのではありません。
コロナショックからの世界経済の急激な回復、さらにウクライナにおける戦争といった複合的な要因によって巻き起こされている人類社会全体の現象で、その中で日本のインフレは世界的に見て「かなりマシ」な部類だと言えます。
アメリカは急激に中央銀行の金利を上げて必死にインフレ退治を行っており、最近は6%台まで下がってきましたが、2022年6月には9%台にまで上昇していました。
また欧州だと10%を超えているところも珍しくない中、日本のインフレ率4%台はある意味で「優秀」だという見方もできます。
4%のインフレでも結構な騒ぎになっている私たちの生活実感からすると、欧米諸国の10%近いインフレがいかに大きな社会問題になっているかが想像できるかと思います。
ただし、じゃあ日本だけインフレにならないのが「良い」ことかというと、そう単純な話ではありません。
物価水準が欧米はどんどん上がっていく中で日本は横ばいを続けると、ますます「安いニッポン」になっていってしまいます。
それは輸出製造業にはプラスな面もありますが、日用品や食料やエネルギーを輸入に頼りがちな日本にとって日常生活への打撃も大きい。日本企業が水産物などの購入希望価格が低すぎて輸入できない「買い負け」という言葉を近年耳にしたことがある人も多いのではないでしょうか。
そうした負のスパイラルが進行し続けると、世界中で取り合いになる高機能人材に高い給与を払うことができなくなって先端技術分野から脱落してしまったり、そもそも普通の人の給料も上げることが難しくなったりしてしまいますよね。
だから昨今日本でも徐々にインフレが起きつつあるのは、ある意味で望ましいことであり、それを乗りこなす必要があるのだと思いましょう。
繰り返すようですが、そのためには「給料を上げる」と「インフレの悪影響を軽減する」の両方が必要であり、「給料を上げる」ための話は前回記事を読んでいただくとして、今回は「インフレの悪影響を軽減する日本ならではの方法」について書きます。
2:協力してインフレの悪影響を軽減していく方法
物価を測る指標には「消費者物価指数」と「企業物価指数」というものがあり、ざっくり言うとBtoC(最終消費者向け)における物価と、BtoB(企業間取引)における物価を測っているのだと考えて良いと思います。
実は日本の企業物価指数は既に2021年からかなり上昇しており、前年比で9%台〜10%台の上昇が定着(リンク先PDF)しています。
にもかかわらず、消費者物価指数は最近やっと4%台になって大騒ぎになっていますが、この「差」はどこが吸収しているのでしょうか?
その理由について私のクライアント企業の、結構大きなグループ企業内にBtoB部門もBtoC部門もある経営者と議論したのですが、
この「差」は、もちろん企業の利益減となっている部分も多くあるだろうが、かなりの部分をコロナ禍を経てサービスの「簡素化」という形で吸収されているのではないか?
ということを言っていました。
外食などでも、無人レジの導入などによって人員配置をどんどん削っている例が多いですし、BtoB企業の営業があちこち訪問せずリモートで済ませることも増えている。
そうやって今まで日本的に「過剰サービス」だったものを削ることがショックアブソーバーになっているのではないか?という仮説は、私のクライアントだけでなく結構広範に当てはまるんじゃないかという気がしています。
日本においては、BtoB部門では原材料高騰などの影響は「お互いわかっている」のでそれなりに価格に反映されやすく、しかし「消費者物価」へ反映するのは色々と抵抗が大きいので、最大限努力した上で反映される構造になっている。
アメリカなどではむしろ、「プロ同士」であるBtoBよりも「よくわかってない消費者」相手のBtoCの物価の方が上がりやすいように見えることを考えると、このあたりは日本企業なりの「モラル」の形を良い意味で表していると言えるかもしれません。
なんにせよ、このタイプの「企業努力」をどう考えるべきか?は難しい問題で、「そうやって消費者にしょうもない遠慮をしているから日本経済は世界から置いていかれるんだ!」という考え方も一応ありえます。
元サッカー日本代表の本田圭佑氏が今年に入って「こんな美味いラーメンが730円は安すぎる。次食う時は2000円払いたい」というツイートをして賛否両論になっていました。
しかし私は、こういう時に
「ここで2000円にできないから日本企業はダメなんだ」
という議論に単純には賛成できません。
もちろん2000円のラーメンがあってもいいですし、何らかの「値上げ」に私たちはチャレンジしていかないといけなのは確かです。
しかしそれを、いかに「日本的生活スタイル」の安定性を毀損しない形で値上げしていけるか、その「難しいチャレンジ」を完遂できるかどうかが、「インフレの悪影響」を回避するためにとても大事なことなのです。
これは単に経済問題をマクロの数字だけで見ていては見落としてしまう点なのですが、諸外国のように「なんの工夫もなくインフレ追随」すると、富裕層と低所得者層とで食べるモノや着るモノや、ありとあらゆるものが「全然違う世界」になっていってしまうんですね。
それは一種の「途上国経済化」のようなもので、必ず極端な政治的分断を生み出しますし、特権的なインテリ階級がそれ以外を見下して人工的な理屈を押し込みまくる世界になり、またその当然の結果として「反インテリ」的感情が社会に溢れかえってムチャクチャな反動的政治勢力を形成してしまったりもする。
例えばラーメン屋には「1000円の壁」があるとよく言われますが、「国民食」的なイメージを排除しないまま、経営が成り立つようなグラデーションを作って値上げしていけるかどうか。これこそ日本人が今本気で考えるべき課題なのです。
具体的には、
・一番ベーシックなメニューなら1000円を超えないようにする(それでもオトク感は失わないように工夫する)
・代わりに全部盛りメニューで2000円近くにする(原価構造的には2000円メニューの利益から数百円分ぐらいは1000円メニューに補填されていて、味玉1個とチャーシューがちゃんと乗っていることが望ましい)
ように調節するなどを積み重ねることで、
海外から来た富裕層観光客も、日本国内の富裕層も現場労働者も学生も同じカウンターでグルメなラーメンを食べる文化
…を崩壊から守れるかどうか?
そしてその文化が揺籃となって生み出されたラーメン屋が海外進出し、ニューヨークで一杯4000円とかで食べられていてもそれはむしろ歓迎すべきことでしょう。
他の分野も含めて今後10年で日本が目指すべきなのは、
・観光や製造、飲食といった裾野の広い産業を崩壊から守って、「一握りのインテリ」以外の食い扶持がそれなりにある状態を維持しつつ、高機能人材に対しては「治安込みで考えればまあまあ納得できる給料レベル」を実現し、先端的分野における産業も一定程度以上の存在感は残す
…こういう世界です。
それができれば、トップ層を思う存分活躍させる結果として社会の周縁部が不可避的にスラムに飲み込まれていってしまう、米国型経済を超える可能性を世界に示すことが可能になるでしょう。
これを実現していくためには、欧米のように一握りのエリート層だけが「頭脳」を持っていると扱われ、それ以外は唯々諾々と言われた通りに動くことしか許されない、無力感を抱え込まされてしまうような社会の運営のやり方では実現できません。
家電などで「末端」に近い方の部分が自律的に動くシステムのことを「スマート●●」と言ったりしますが、「スマートな現場」レベルの無数の工夫を吸い上げることで、ラーメン屋のメニューづくりと言ったレベルの話において、
いかに「インフレ」が社会の“絆”を壊してしまわないようにできるか
…が非常に大事なことなのです。
今後、必ずインフレはやってきます。
既に起きている企業物価の上昇を無視して消費者物価を無理やり抑え込んだままでは、収益が圧迫されて賃上げもできなくなりますから、私たちは勇気を持って「インフレ」に飛び込んで乗りこなしていかねばなりません。
しかしその時に、「日本人消費者の厳しさ」をあまりバカにする論理を使うのも良くないです。「丁寧に上げる」ことが大事です。
私がいつも使っているスーパーではここ半年ほど「豚肉100グラム125円の攻防」が展開されています。その豚肉は大変美味しく、おそらく単体で黒字にするにはもっと高い値付けが必要なのですが、そのスーパーは「集客用の目玉」として単体では損をかぶる覚悟で値付けをしているのだと思います。
昔は110円台だったものが一時期140円ぐらいになったり、また120円ぐらいに戻ったり…と繰り返す中で、徐々に125円ぐらいの「安定した数字」が定まってきつつあるプロセスを、私は尊敬の思いを持って見ていました。
実際にトータルで買い物した金額をレシートで見ると、あちこちで少しずつ値上げがされているんですが、例えば140円になった時は代わりに鶏肉を買うといった調節を含めて買い手と売り手の間の微細な駆け引きが常時妥協なく行われることで、買い手側から見た主観的な満足感が大きく変わらないように大変苦心している。
社会の末端労働者が、そこまで丁寧に主体的な工夫をしている社会はあまりありません。
こういう話の別の例としては、小麦の高騰によって個数を5個から4個に減らさざるを得なかった「薄皮つぶあんぱん(コンビニで売っている山崎製パンのアレ)」が、小麦ほど高騰していないアンの部分を増量することで、総重量が微減で済んだというニュースもありましたよね。
(余談ですが、世界一の穀倉地帯の上で火を吹いているウクライナ戦争が長期化すれば小麦の高騰が続くことはほぼ不可避と言わざるを得ないので、今後日本においては小麦使用例のある部分が「米粉」に置き換えられていく転換が起きれば面白いと私は考えています)
これら数々の「スマート現場」側の主体的工夫なしに一律に値上げしていくと、収入階層によって生活実感が全然違う世界になり、欧米のあちこちで起こっている巨大な反動運動のようなものを止められなくなっていく民主主義の危機に陥ってしまうでしょう。
私たち日本の社会はスマート現場的工夫を必ず「やる」性質を持っていますから、大事なのはそういう才能を否定せずに、しかしそれが「縮小均衡に引きこもる」デフレ方向に行かないようにうまく“敬意を払って協力”していく姿勢を持つことです。
3:「スシロー事件」への怒りは大事なエネルギー
日本のTwitterでは、サイゼリヤだとかワークマンだとかいった企業について悪口を言うと徹底的に叩かれる風潮がありますが、それは「そこにあるタイプの企業努力」をバカにしていると、社会はどんどん「決してお互いわかりあえない分断」に飲み込まれていくのだということを、多くの人が本能的に知っているからだと思います。
日本のインテリ階層や年収1000万円ぐらいの中産階級の一部は、欧米ではインテリが社会に「君臨」させてもらえているのに対して日本では自分たちの扱いが悪いことに不満を持ちがちで、その象徴として例えばサイゼリヤやワークマン的な存在を憎らしく感じて攻撃しがちです。
しかし、「金持ちもそうでない人も、まあまあな食事ができるように」ということに日本人がかけているエネルギーと執念というのは、やはり敬意を払って尊重されるべきものではないのでしょうか?
その「まあまあな食事」を低価格で実現するために日本の外食産業がしている色々な工夫を嘲笑するインテリは、決して自分の専門分野が大衆から敬意を払われることもないでしょう。
一部の人文系インテリの人が哲学研究や平安時代の木簡を読むことにエネルギーを費やしていることも尊敬されるべきだし、当然それと同じだけ、多数のメニュー同士の食材の共有化を進めて数%の利益をひねり出して多くの人の安心安全安価な食事を実現しようとするような人々の執念も尊敬される社会を維持することについて、私たちは真剣に考えていかねばいけません。
実際米国などでは、低所得層は「まともな食事」を取れる環境自体が減ってしまい、結果として信じられないレベルの肥満の人が増えて大きな健康格差につながり、そういう問題がまわりまわって「民主主義」自体を根底的に危うくしているわけですよね。
最近では「スシロー」でいたずらをした高校生がメチャクチャ叩かれていますが、私はその叩かれようがやりすぎだとは感じるものの、こういうことにちゃんと「怒り」を共有していく事自体は大変重要なことだと考えています。
要するに、
皆で少しずつ協力しあって安心安全快適な社会を作ろう
…というのは、
日本人にとっての「宗教的行為」のような神聖性を持ったものだから
…です。
この「快適さと安楽性」を協力しあって実現しようとしている人々の執念に、敬意を払うどころかどこかしら嘲笑うような風潮を放置していれば、当然の反作用として過剰な右傾化とか排外主義を止められなくなってしまいます。
これから言うことは冗談ではなく大真面目に言うのですが、
・同性婚制度の実現が人間の尊厳に関わると思って大事にしたい人
・日本で暮らすイスラムの人が自分たちに合った食事をしたいと考える欲求に選択肢を用意すること
・日本人が重視する“協力しあって安心安全安楽な環境を作ろうとする意志”
こういうのをちゃんと「同じ秤ではかって」語る姿勢がこれからは大事です。
これらを「相互保証」の形で尊重できるようになっていかねばなりません。でなければ
「俺たちの一番大事にしている価値観」は足蹴にしてくるくせに、なんでお前たちの価値観は押し売りされないといけないわけ?
…って当然なりますよ。
人類社会全体で“欧米”のGDPシェアが下がり続ける21世紀において、何とか争いの種を減らしながら多文化共生社会を実現させるには、それぞれの価値観に上下の順位付けをしたり、一方的に「こんなことも実現できないなんて低レベルな社会だ」などと断罪したりすることに慎重になるべきです。
私たちはいつまでも罵り合っていないで、「同性婚その他の欧米由来の理想」も「日本社会側が自分たちの美点を守るために譲れない価値観」も、ちゃんと両方に等価に敬意を払って「多文化共生」の精神で尊重していくのだという大上段の「本来的なリベラルの理想」を推し進めていくことが大事なのです。
「回転寿司に込められた日本人の宗教的情熱」が尊重され、嘲笑されることなく協力しあって維持していく機運が高まるほど、色々な欧米的理想に対して日本社会が警戒心を持って拒否しがちになる現象も落ち着いてくるはずです。
「スシロー的問題」に対して強烈に噴出している怒りのエネルギーは、それ単体で見ると大変やっかいなものに見えます。
しかし本来それは、果てしなく政治分断化が世界中で進む現代において「次世代の人類社会にとっての希望の源泉」といっていいほど大変大事なものなのです。
それを敵視せず、そこの一線を「絶対防衛ライン」として守りきれば、私たちはインフレが社会の絆を切り裂いてしまい、欧米で起きているような過剰な政治的反動運動が止められなくなるような危機を超えていけるでしょう。
「スシロー事件に怒髪天を衝くような怒りを見せる」ような感情エネルギーを敵視せず、むしろ「日本社会が持つ宗教的尊厳の形がそこにあるのだ」と理解して「多文化共生」の枠組みの中に取り込んでいくとき、日本社会はむしろ今までとは全然違う「寛容さ」を見せることも可能になります。
こういう「グローバルに押し込まれる欧米的価値観」VS「ローカル社会側が持つ切実な事情」を単に片方から断罪するだけで終わらせない知恵については、世界中で大ヒットしている『アバター:ウェイ・オブ・ウォーター(アバター2)』が日本においてのみ『THE FIRST SLAM DUNK』『すずめの戸締まり』に次ぐ3位である珍事に関連して書いたこちらの記事などをお読みいただければと思います。
また、これらの記事にご興味をもたれた方は、今の日本のようにお互い責任をなすりつけあっているだけで何も前向きな話が積み上げられない状況をどう変えていったらいいのか?について、中小企業で150万円平均年収を上げられた話からもっと大きな社会課題まで、一貫した方法についてまとめた以下の本をお読みいただければと思います。
こちらで「はじめに」が無料で読めますのでぜひご覧いただければと思います。
この記事への感想やご意見などは、私のウェブサイトのメール投稿フォームからか、私のTwitterにどうぞ。
連載は不定期掲載なので、更新情報は私のTwitterアカウントをフォローいただければと思います。