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倉本圭造
経営コンサルタント・経済思想家
1978年生まれ。京都大学経済学部卒業後、マッキンゼー入社。国内大企業や日本政府、国際的外資企業等のプロジェクトにおいて「グローバリズム的思考法」と「日本社会の現実」との大きな矛盾に直面することで、両者を相乗効果的関係に持ち込む『新しい経済思想』の必要性を痛感。その探求のため、いわゆる「ブラック企業」や肉体労働現場、カルト宗教団体やホストクラブにまで潜入して働く、社会の「上から下まで全部見る」フィールドワークの後、船井総研を経て独立。企業単位のコンサルティングで『10年で150万円平均給与を上げる』などの成果をだす一方、文通を通じた「個人の人生戦略コンサルティング」の中で幅広い「個人の奥底からの変革」を支援。著書に『日本人のための議論と対話の教科書(ワニブックスPLUS新書)』『みんなで豊かになる社会はどうすれば実現するのか(アマゾンKDP)』など多数。
2ch創設者のひろゆき氏が、沖縄県辺野古の米軍基地への座り込み抗議グループを茶化すようなことをした、という話が物議を醸しています。
これを機会に何か議論が進んだりするのかな?と思ったのですが、ひろゆき氏本人が出ているABEMA Primeでの討論を見ていると、全編の半分以上にわたって「座り込みというのは24時間そこにいなくても座り込みと呼べるのかどうか?」というような言葉の定義の問題を延々と押し問答しており、なんじゃこりゃ?と思ってしまいました。
確かに、この番組における議論があまり生産的なものにならないのは、最初から最後まである種のイチャモンに終始するひろゆき氏の方に問題があるからだとは思います。
しかし、見方を変えれば普段全くこの問題に興味がない一般層への興味を惹くきっかけをひろゆき氏が作ってくれたとも言える状況の中で、SNSの政治談義では結局何十年と続いてきた代わり映えしない紋切り型の感情のぶつけあいを、しかもほとんどの場合“論敵側”にすら面と向かって言わずに「陣営の内側」とだけワイワイと話して終わるというのも、それはそれでどうなんだと多くの人が思っているのではないでしょうか。
座り込み抗議をしている人たちにシンパシーを感じるタイプの人は別に今更何かを聞いたり議論したりしなくても意見は一切変わらないでしょうし、逆に普天間基地の代替施設は辺野古しかないと考えている人が今回の一件で意見を変えることも決してないでしょう。
問題は国民の大多数を占めていると思われる「現状特に意見はない層」ですが、今回の件をそういう層にリーチして意見を変えさせるような機会にできているかというと、これは「どちらの党派」の人も成功しているとは言えないように思います。
基地の問題にしても、他の議題についてもそうなのですが、今の日本が抱える問題が散発的に世間の議題に上がっては、「決して交わることのないいつもの党派的罵り合い」をするだけで終わる…というパターンを脱却する方法について、私たちはそろそろ真剣に考えなくてはいけないのではないでしょうか?
別の例として、先月末に安倍元首相の国葬があった日、ネット論客の御田寺圭(通称:白饅頭)氏が、
…というような趣旨の記事を書いていました。
その通りだと思う人もいれば、「いやいや何を言ってるんだ、まだまだこれからだろ?モリカケ桜、そして統一教会問題を追求しきることこそが今の日本の最重要課題なのだ!」と思う人もいるかもしれません。
ただ、「安倍VS反安倍からの卒業」と言っているのは比較的保守派寄りと見られるネット論客の白饅頭氏だけではありません。
国葬当日の夜の「報道ステーション」を見ていたらテレビ朝日の報道記者の女性がほぼ同じことを言っていて、「安倍vs反安倍構図からの卒業」と、「何かその先の問題設定が必要なのではないか?」という感覚は、右とか左とかの立場を超えてわかっている人はわかっている情勢になってはいるのだと思います。
では、どうすれば私たちは「いつもの党派的罵り合い」ではない議論というものが可能になるのでしょうか?
1:Z世代的「コスパ」合理主義が、旧来の紋切り型の政治議論を超える未来?
そういう「旧世代型の紋切り型の政治議論」を乗り越えていくためのヒントとして、私は最近「Z世代」と言われる若い世代の非常に合理的なコスパ志向的なものに可能性を感じています。
というのも最近私の本やウェブ記事を読んだ若い人から、
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倉本さんが提唱されている「メタ正義」(後で詳しく説明します)的な発想で動くようにしてから就活でうまくいくようになり、希望する会社に入れました
…というようなお礼のメールを突然頂くことが何度かあり、別に私はそういう若い人向けに書いているつもりは全然なかったので驚いたということがあったんですね。
そういう「Z世代」の若い人と話していて思うのは、よく言われているように非常にドライな「コスパ」「合理性」志向を一面では持ちつつ、彼・彼女らなりの理想主義的な感性も隠し持っている人が多いんだなということです。また、理想と現実の間のバランス感覚が非常に優れている人が多いようにも感じています。
「メタ正義感覚」についてはこの記事の中で説明していきますが、単純に言えば「ひとつひとつの党派的な“ベタな”正義」に凝り固まらずに、それらの世の中にある「ベタな正義」を全部テーブルに上げてプレーンに比較検討し、「メタな」視点から適切な解決策へと議論を薦めていくようなセンスのことだと思ってください。
彼らの姿勢は、何をするにもまずネット検索をし、その問題に関して既に提出されている論点や意見のパターンは網羅的かつ並列的に並べた上で、そのどれにも囚われすぎずに結局どうあればいいのかを考えていく…というのが基本動作になっている。
それは今晩読む漫画を選ぶ、週末に行くレストランを選ぶといった小さなことから、就職やパートナー選びといった人生的課題においても共通しているようです。
「メタ正義感覚」は別にZ世代に向けて提唱してきたコンセプトというわけではないのですが、彼ら的には「息を吸って吐くように自然に」そういう発想が普通になっているところがあるのかもしれないと感じています。
今後の日本社会では、あらゆることが「20世紀型イデオロギー対立」に見える傾向がある団塊の世代が引退していき、あらゆることが「プレーンな問題解決」に見えているZ世代に毎年置き換わっていきます。
その変化の中で、延々と不毛な争いが続きがちな日本の社会と政治を前に進めるためのヒントが見えてくるのかもしれないという記事を今回は書きたいと思っています。
しかし、よく言われているように、Z世代は色んな意味で“物分りが良すぎ”て、世の中の構造的な理不尽のようなものはさっさと諦めてしまい、自分の手の届く範囲内だけでやりくりしてしまう傾向もまた、あるかもしれません。
今回の記事の目的は、そういうZ世代が諦めてしまいがちな「大きな課題」も、丁寧に下準備を行えば、「Z世代的に軽やかな問題解決の精神」で扱えるようになるのだ、ということを示すことにあります。
2:「憎い敵」を倒すためにこそ「相手の存在意義」を熟知する必要がある
ではここから、「大きな構造的理不尽」を、Z世代的な軽やかな問題解決精神で扱えるようにするための「下準備」について考えていきます。
平行線の議論が紛糾するだけで何も生産的なものにならない理由は「どちらの陣営も相手の話を聞いていない・聞く気がない」ことにつきます。
そういう「20世紀型イデオロギー論争」を「Z世代的プレーンな問題解決」に変えるための発想が「メタ正義感覚」なのですが、その発想の根本は「相手の存在意義を理解する」ことです。
その事について説明するために、私が書いた『日本人のための議論と対話の教科書』というの本から以下の図を紹介します。
あなたが日常生活においても、あるいは仕事相手などとの関係においても、「敵」だと認識する人や勢力とぶつかったなら、その敵について上記の質問1〜5のように考えていくことが「敵を倒す近道」になると私は長年思っています。
特に重要なのは「質問2」の「敵の存在意義を考える」です。敵の存在意義とは「敵が言っていること」ではないことに注意しましょう。
「敵の存在意義」が理解できれば、それを「質問4」のように「自分たちの側のやり方で解決」することで、その「敵の存在意義」ごと消滅させて自分たちの望みを実現できます。日常生活や仕事面では「質問5」のようにいっそバラバラに棲み分けてしまうという方法もありますが、多くの利害関係者がいる“政治”レベルにおいてはあくまで質問4に向き合うことが必要になります。
「この社会にその“敵”が存在し、押し切ろうとしても押しきれない状況にある」なら、素直に「その敵の存在意義」は何かしらあるんだろうと考えてみましょう。
反安倍派側から見れば、「安倍政権の存在意義」を考え、そうしたニーズを否定せずに自分たちが代わりに満たす道を真剣に考えていけば自分たちのビジョンを文句なく実現できます。
安倍支持者側から見れば、「反安倍勢力の存在意義」を考え、そうした課題を否定せずに自分たちなりに解消できればよりスムーズに自分たちの意図を通していくことが可能になります。
無理に「対話」をするというよりも、両サイドから「相手の存在意義ごと消滅させてやる!」という情熱を燃やしていくことで、「敵を攻撃するのでなく、問題自体に向き合い先に解決する」方向で競争できるように事態を持っていければ、「ベタな正義同士の勝者のない永久戦争」をやめることができます。
「反安倍派」の存在意義は、よく言われているように民主主義的な手続きをスキップしたりせず、遠回りでも議論を尽くして進めていくという基本をないがしろにすると、だんだん歯止めが効かなくなって政府のやりたい放題になってしまうのではないか?というような部分なのだと言えるでしょう。沖縄の基地問題においても大枠で言えばこの「政府側に民主主義の手続きの丁寧さが欠けている」問題だと言って良いと思います。
では一方で「安倍氏(政府)側の存在意義」というのはどういうものでしょうか?反安倍派が勝利するためには、その「安倍氏側の存在意義」と真っ向から向き合い、支持者のニーズや課題を自分たちなりに納得できる形で代理解消する道を真剣に探ることが必要です。
とはいっても、実際に被害を被るなど何らかの当事者性があるために反対運動や抗議活動に参加せざるを得なくなったような人は「逆サイドの存在意義を考える」どころではなく現状にNOと言うだけで精一杯であることが多いでしょうから、そうではない“メタ正義的に考える余裕がある人”がこういう動きをすることが望ましいでしょう。読者のあなたもぜひ一緒に考えてみてください。
「反安倍派」の存在意義の方(民主主義の手続きを守れ)は言い尽くされていてわかりやすいですが、「安倍側」の意見の存在意義については安倍氏の熱心な支持者の内輪でしかなかなか共有されていません。
しかも「安倍氏側の存在意義」は「右翼の言葉」でしか語られないのでその外側ではほとんど共有されない。
むしろそこで、「安倍氏側の存在意義」を支持者以外の人が徹底的に迎えに行き、“右派以外の言葉”で再定義し、別のやり方で解消できないかを考えることで、「安倍VS反安倍」的な党派性を超えてこの問題をプレーンに扱うことが可能になります。
ではその、「安倍氏側の存在意義」とは何なのでしょうか?
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