「わかりやすい国・日本」の「考える力」が衰えていないか?
このことについて自問してみると、ちょっと気づいたことがあります。クリエイティブディレクターとして、物事の創作に当たる際に、なにはともあれ「わかりやすさ」を最重要視している自分がいます。
相手の立場に立ってみて、初見でわかるか? 意味が通じるか? 聞きやすい話になっているか?
数々のチェックポイントが、「わかりやすいか」というところに基準が置かれています。
そうです。これはいくら、良いもの、かっこいいもの、綺麗なものを作ったとしても、わかりにくい、理解されないものは、そもそも意味がないと感じる広告畑出身の悪癖かもしれません。とにかく、広告においては難解さは極度に忌避されます。この環境にいたことで、自分の中で自然と「わかりやすさ」を最大の価値にしていたかもと思いました。
一方で、この「わかりやすい」世界に慣れてくると、人間は自分で「考える力」を知らないうちになくしていくのではないでしょうか。
出口さんも、先に挙げた著書ではヨーロッパとの比較で、「日本人の考える力が衰えてきている、教養が足りないのでは?」ということを書かれています。筆者も現在はオランダで生活をしており、今まで訪問した国は30数カ国しかありませんが、それでも、どう考えても、圧倒的に快適な国が日本です。それは日本人だから、ホームカントリーだから、という訳ではなく、リアルにサービスの充実度では郡を抜いていると思います。つまり、「わかりやすい」国なのです。
もちろん、外国人からしてみたら「日本語」の表記は難解だと思うので、そういう語学的なことを言っているのではありません。
サービスが行き届いており、何から何まで気を回してくれて、暮らすには最高ではないか?と思うのですが、これは一方で我々自身の「考える力」を奪っているのではないか?という見方もできます。
現に、弊社では外国人スタッフと一緒にウェブサイトを制作することが多いのですが、一番気にするのは「わかりやすさ」です。そして、この基準に日本と外国では大きな差があります。つまり、外国人にしてみると、「そこまでわかりやすくするための表示をする必要があるのか?」「そこまで案内表記やアイコンを大きくする必要があるのか?」「そこまで先回りして準備するのか? デザインを崩してまでも」ということにつながります。結局、ここがものづくりのクオリティの差になったりもするのですが。