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レジー
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1981年生まれ。一般企業に勤める傍ら、2012年7月に音楽ブログ「レジーのブログ」を開設。アーティスト/作品単体の批評にとどまらない「日本におけるポップミュージックの受容構造」を俯瞰した考察が音楽ファンのみならず音楽ライター・ミュージシャンの間で話題になり、2013年春から外部媒体への寄稿を開始。著書に『夏フェス革命 -音楽が変わる、社会が変わる-』(blueprint)、『日本代表とMr.Children』(ソル・メディア、宇野維正との共著)がある。
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「はな恋」に登場する『人生の勝算』の絶妙さ
2021年上半期の大ヒット映画として多くの人に親しまれた『花束みたいな恋をした』(以下『はな恋』)。誰もが「自分の話」をしてしまいたくなるようなリアリティと、普遍性のあるストーリーとは対照的な固有名詞の洪水とも言うべき表現手法に、ラブロマンスのファンからいわゆる「文化系」まで様々なタイプの層が魅了された。
ちょうど先日そのパッケージがリリースされたが、筆者は映画公開中に本サイトにて「『花束みたいな恋をした』から考える、社会人になったら趣味を全部諦めなきゃいけないのか問題」という記事を寄稿し、カルチャー好きな若者から会社人間に変貌していく主人公の麦に対して「よりうまくやるための処方箋」を実体験を交えながら提示した。その際に「読むのをやめた方が良い本」としてピックアップしたのが、作中において麦が書店で手に取る前田裕二『人生の勝算』である。
なぜ読むのをやめた方がよいかは前掲記事を読んでいただくとして、本稿で触れたいのは麦が手に取る本としてチョイスされた『人生の勝算』の絶妙さである。学生時代には音楽や映画、小説といったカルチャーもしくはコンテンツを知ることで周りとの差別化を成し遂げようとしていた麦は、「ビジネスにおける成功譚(山あり谷ありの物語)」を紡いだ自己啓発書を通じて自身の価値を高めようとしている。麦の視界に入っている世界が大きく変わっていることをわかりやすく見せるシーンである(一方で、「本質的には変わっていないのでは?」というのも前掲記事の主題でもあった)。
前田裕二『人生の勝算』を編集したのは幻冬舎の社員でありながら自身のオンラインサロン「箕輪編集室」で多数の会員を抱える箕輪厚介。箕輪が編集者として関わった本としては他には堀江貴文『多動力』、田端信太郎『ブランド人になれ!』などがあり、また「箕輪編集室」では西野亮廣『革命のファンファーレ』をいかに売るかというプロジェクトも手掛けている。
ここで挙げたような固有名詞は、2010年代後半ごろから今に至るまでの「意識高い系」と呼ばれるゾーンにおける牙城とも言うべき存在である。ビジネスパーソンとしての力を高めることで、会社に依存することなく「自由」な生き方を実現する。そんなメッセージがビジネス書を通じて、またオンラインサロンという新たなコミュニケーション回路を介して影響力を増していった。
こういった言説とは、適度な距離をとりながら自分にとって必要なエッセンスのみを吸収するというような付き合い方ができれば特に問題はない。だがそうは言っても、極端なメッセージとオンラインサロンで刺激される承認欲求の組み合わせは時に暴走する。西野亮廣のオンラインサロンでは、あるサロンメンバーが西野が手掛けた映画『えんとつ町のプペル』の台本付きチケットの販売を通じて成長したいと80セット(24万円分)を自身の失業保険まで使って購入していたという事実が発覚し、「搾取ではないか」といった声があがった。
「ファスト映画」とビジネスパーソン向け「ファスト教養」の近似性
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ところで、ここ数カ月の間で、映画という娯楽に対する受容態度の変化を感じさせるテーマが注目を集めた。
「映画を早送りで観る人たち」の出現が示す、恐ろしい未来
https://gendai.ismedia.jp/articles/-/81647
「ファスト映画」投稿者が初の逮捕、著作権法違反の疑いで
https://www.itmedia.co.jp/news/articles/2106/24/news078.html
いずれの話題も、「本来は2時間近くかけて」「ストーリーを味わいながら」楽しむというフォーマットを持つ映画をある意味で解体し、短時間のうちに結末さえわかればよいというスタンスにおいて共通している。
映像を早回しで再生する機能は以前からハードディスクレコーダーやDVD・ブルーレイの再生ソフトには実装されていたし、この現象そのものは必ずしもまったく目新しいものというわけではない。ただ、映像コンテンツが今まで以上に大量に存在し、かつ過去のアーカイブも含めて手軽に触れられる回路が整備されつつある時代に、そういったものを「堪能する」のではなく「消費する」態度がより広く受け入れられているというのは確かに検討に値するトピックだったように思える。
『「映画を早送りで観る人たち」の出現が示す、恐ろしい未来』の執筆者である稲田豊史は、この内容を掘り下げる形での連載企画を展開している。その中では、こういった行動につながる背景として、SNSにおけるグループ内のコミュニケーションで晒される同調圧力や、「オタクとしてのスペック」を得ることが目的化している現状について言及している。
本稿で稲田の論考に付け加えたいのは、「教養」という概念である。この10年ほどの間、「ビジネスパーソンは教養を持つべき」といった言説はますます力を増している。曰く、「AIが多くの意思決定を代行できる時代に、人間にしかできない能力を磨くべきである」「直接ビジネスに関係ない領域から学びを得ることが差別化につながる」「海外のビジネスエリートたちは歴史や文化、芸術の教養があって当たり前」などなど。
こういった「教養」の範疇には、いわゆるエンターテイメントも含まれてくる。事実、先ほど名前を挙げたような「インフルエンサー」はそういった領域との接点を前景化させているケースも多い。田端信太郎はSNSでたびたびPerfumeやハロプロに対する愛を語り、箕輪厚介に至っては自身のラップ曲もリリースしている。「やわらかい話題にも対応できる自分」というブランディングに対して彼らは積極的である。
ビジネスで実績を残しながら、カルチャーへの造詣もある。「インフルエンサーを目指す若者」にとって、一つの理想像だろう。そういう意味で、もしかすると『はな恋』の麦もそんなポジションを目指していたのかもしれない。では、麦のようなカルチャーに対するバックグラウンドを持たない人がその道を目指そうとしたら?
そのような人たちにとって、「映画の倍速再生」は心強い武器であり、「ファスト映画」は自分たちのニーズに合致したコンテンツなのではないか。欲しているのは「オタクとしてのスペック」ではなく「教養ある(硬軟織り交ぜた話題を展開できる)ビジネスパーソンとしての姿」。手間と時間をかけてカタログを追わなくても、今の時代に重視される価値観でもある「コスパ」を大事にしながら自身が目指すあるべき姿に近づくことができる。
手軽に映画のストーリーと結末に触れられるコンテンツを「ファスト映画」と称するのであれば、その本質は「ファスト教養」とでも言うべき「ビジネスパーソンの武器として使える知識を手軽に知る」という概念の出現にあるのではないだろうか。
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「古き良きコンテンツ」は「ファスト教養」に駆逐されるのか
ビジネスシーンにおいて「ファスト教養=役に立つ情報を効率的に得る」というのはある種のトレンドになっている。いつの間にか「知的さの象徴」のようなポジションに祭り上げられているひろゆきは自著で繰り返し「コスパの良さ」を大事にする価値観を説き、ビジネス書を大量摂取する手法としてのオーディオブックはじわじわと支持を高めつつある。また、SNS上のバズコンテンツとしての「ビジネス書図解(話題のビジネス書の要点を画像数枚で解説する)」もだいぶ定着してきた。
ビジネス書のような「味わう」よりも「知識を得る」ことが大事なコンテンツであれば、枝葉をそぎ落として必要な情報のみにアクセスするという向き合い方は不自然ではないかもしれない。ただ、本来は「その2時間から何を感じ取るか」こそが重視されるべき映画のような娯楽がビジネス書と同様の扱い方をされるとなると、やはり違和感を覚える部分もある。「映画などのカルチャーにも詳しい」ということを「今の時代のビジネスパーソンの教養の一つ」と置いた時に、その真意が「表面的にストーリーを知っている」「幅広く流行りものを網羅している」程度の意味しかなさないとなると、軽薄としか思えないのが個人的な感覚ではある。
一方で、こういった傾向は2010年代から続く大きなトレンドの中の事象と言えるのかもしれない。少し古い引用になるが、2013年8月に発行された『日経ビジネスアソシエ』(こちらも「意識高い層」によって支えられてきた雑誌である)のムック「ビジネスパーソンのための教養大全」に掲載された特集「ビジネスパーソンが学ぶべき“ビジネス教養”の必修科目」において、会社員に行った調査結果を基に以下の3つの特徴が指摘されている。
①実学志向:激しい競争の中、現代のビジネスパーソンには「高尚だが、何に役立つか分からない学問」にエネルギーを使う余裕はない
②日本人らしさの再確認:グローバル化が盛んに叫ばれる中、自国のことを語れないのは恥ずかしい
③どんな分野も、ざっくりと大づかみに理解したい欲求:細かなウンチクより、バランスよく幅広い常識を得ることが、仕事に役立つと見られている
①と③については、「ファスト教養」が包含するであろう概念とかなりの確度で一致している。こういった考え方が、情報環境の進展に伴ってさらに加速しているのが2021年現在の状況と言えそうである。
「ファスト教養」が多くの人に求められる状況はこの先も進行すると思われる。芸術性といった曖昧な物差しは忌避され(今の時代は「定量化」「KPI管理」が基本である)、様々なコンテンツが「役に立つ/立たない」の一点において仕分けされる。そして、後者のラベルが貼られたものに対する冷淡な態度が許容される。そういった中で「映画とは本来じっくり味わうべきものだ」といった「正しい」主張は、負け犬の遠吠え的なものとして処理されるだろう。
この1年間、映画や音楽などカルチャー全般に関する産業は、国からの「不要不急」というメッセージによって大きなダメージを受けてきた。そしてそういった動きとは別の文脈において、カルチャーそのものが「ファスト教養」という価値観に飲み込まれる危機とも直面している。時代のあり方に対応しながら「古き良きコンテンツ」としての良さを守ることができるか、さまざまなジャンルの表現が大きな岐路に立たされている。
最後に筆者の見解を述べておきたい。まず、「古き良きコンテンツ」と接しながらここまで育ってきた身としては「ファスト教養」的にカルチャーが扱われることには生理的な嫌悪感を覚えるというのが大前提としてある。とはいえ、時代が変わっていく中で「受容されやすいカルチャーのあり方・発信方法」が変わるのは当然のことでもあり、また「物事を(たとえ表面的にであっても)幅広く知っておきたい」というビジネスパーソンの欲望自体は理解し得るものでもある。ゆえに、「本来の良さ(それはもしかしたら「古臭い」ものなのかもしれないが)を損なわずに」「時代に適応する」コンテンツ受容のあり方というものがもっと模索されるべきだというのは常々思っている。
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ヒントになるのは、「教養とは対話を生み出すものである」という考え方である。
「教養」と「自己啓発」の違いは何か。私は「自己啓発」は個人主義的な問題であり、個人の能力を高める意味合いが強いと理解している。
それに対して「教養」は、基本的に個人よりも他者とどう関わるかが重要だと考える。教養は、世界のさまざまなものに触れ、単純に驚くことから始まる。予想外のものに触れて愕然とする、素敵だなと感じながら世界を知った上で、他者とどう対話するか、という視点が教養には必要である。哲学に知を愛する、根源に戻れというような教養観があるように、驚きを知り、哲学するといったところに戻っていくことが教養にはあると思うのだ。
(中央公論2021年8月号 隠岐さや香「新たな知の共同体を作れるか」より)
タイトルとあらすじを知るだけでは深い対話にはつながらないし、そういった対話ができるレベルまで到達していないと「ビジネスパーソンとして教養を持っている」とは言えないのではないか? そんな観点から「ファスト教養」のあり方をとらえ直すべきである。
そのような考えが社会に受け入れられるためにも、「深い対話に必要な情報を得るための“可処分時間”がない」という声を踏まえた発信が従来のカルチャーを司る側にも求められる。自分たちがよいと思っていることを届けたい場所に届けるには、伝え方の更新も必要だろう。そのような文脈で考えると、衒学的な言葉遣いが長くスタンダードになっていた音楽や映画に関する批評の領域からポッドキャスト番組「POP LIFE: The Podcast」のような、内容の深さと聴きやすさの両立にトライする発信が始まっているのは、カルチャーの歴史と今の時代のあり方の接続を考えるうえでの明るい兆しと言うこともできるのではないか。
「映画を全部観るなんてコスパが悪い」でも「カルチャーをしっかり味合わないなんて理解できない」でもない、本当の意味で「心を豊かにし、かつビジネスパーソンの武器にもなり得る」教養とは何か、引き続き思考を深めていきたい。