EVENT | 2021/08/07

ファスト映画、自己啓発オンラインサロンの人気に共通する「ファスト教養」への欲望。「古き良きコンテンツ」に勝ち目はあるか

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レジー
1981年生まれ。一般企業に勤める傍ら、2012年7月に音楽...

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「古き良きコンテンツ」は「ファスト教養」に駆逐されるのか

ビジネスシーンにおいて「ファスト教養=役に立つ情報を効率的に得る」というのはある種のトレンドになっている。いつの間にか「知的さの象徴」のようなポジションに祭り上げられているひろゆきは自著で繰り返し「コスパの良さ」を大事にする価値観を説き、ビジネス書を大量摂取する手法としてのオーディオブックはじわじわと支持を高めつつある。また、SNS上のバズコンテンツとしての「ビジネス書図解(話題のビジネス書の要点を画像数枚で解説する)」もだいぶ定着してきた。

ビジネス書のような「味わう」よりも「知識を得る」ことが大事なコンテンツであれば、枝葉をそぎ落として必要な情報のみにアクセスするという向き合い方は不自然ではないかもしれない。ただ、本来は「その2時間から何を感じ取るか」こそが重視されるべき映画のような娯楽がビジネス書と同様の扱い方をされるとなると、やはり違和感を覚える部分もある。「映画などのカルチャーにも詳しい」ということを「今の時代のビジネスパーソンの教養の一つ」と置いた時に、その真意が「表面的にストーリーを知っている」「幅広く流行りものを網羅している」程度の意味しかなさないとなると、軽薄としか思えないのが個人的な感覚ではある。

一方で、こういった傾向は2010年代から続く大きなトレンドの中の事象と言えるのかもしれない。少し古い引用になるが、2013年8月に発行された『日経ビジネスアソシエ』(こちらも「意識高い層」によって支えられてきた雑誌である)のムック「ビジネスパーソンのための教養大全」に掲載された特集「ビジネスパーソンが学ぶべき“ビジネス教養”の必修科目」において、会社員に行った調査結果を基に以下の3つの特徴が指摘されている。

①実学志向:激しい競争の中、現代のビジネスパーソンには「高尚だが、何に役立つか分からない学問」にエネルギーを使う余裕はない
②日本人らしさの再確認:グローバル化が盛んに叫ばれる中、自国のことを語れないのは恥ずかしい
③どんな分野も、ざっくりと大づかみに理解したい欲求:細かなウンチクより、バランスよく幅広い常識を得ることが、仕事に役立つと見られている

①と③については、「ファスト教養」が包含するであろう概念とかなりの確度で一致している。こういった考え方が、情報環境の進展に伴ってさらに加速しているのが2021年現在の状況と言えそうである。

「ファスト教養」が多くの人に求められる状況はこの先も進行すると思われる。芸術性といった曖昧な物差しは忌避され(今の時代は「定量化」「KPI管理」が基本である)、様々なコンテンツが「役に立つ/立たない」の一点において仕分けされる。そして、後者のラベルが貼られたものに対する冷淡な態度が許容される。そういった中で「映画とは本来じっくり味わうべきものだ」といった「正しい」主張は、負け犬の遠吠え的なものとして処理されるだろう。

この1年間、映画や音楽などカルチャー全般に関する産業は、国からの「不要不急」というメッセージによって大きなダメージを受けてきた。そしてそういった動きとは別の文脈において、カルチャーそのものが「ファスト教養」という価値観に飲み込まれる危機とも直面している。時代のあり方に対応しながら「古き良きコンテンツ」としての良さを守ることができるか、さまざまなジャンルの表現が大きな岐路に立たされている。

最後に筆者の見解を述べておきたい。まず、「古き良きコンテンツ」と接しながらここまで育ってきた身としては「ファスト教養」的にカルチャーが扱われることには生理的な嫌悪感を覚えるというのが大前提としてある。とはいえ、時代が変わっていく中で「受容されやすいカルチャーのあり方・発信方法」が変わるのは当然のことでもあり、また「物事を(たとえ表面的にであっても)幅広く知っておきたい」というビジネスパーソンの欲望自体は理解し得るものでもある。ゆえに、「本来の良さ(それはもしかしたら「古臭い」ものなのかもしれないが)を損なわずに」「時代に適応する」コンテンツ受容のあり方というものがもっと模索されるべきだというのは常々思っている。

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ヒントになるのは、「教養とは対話を生み出すものである」という考え方である。
「教養」と「自己啓発」の違いは何か。私は「自己啓発」は個人主義的な問題であり、個人の能力を高める意味合いが強いと理解している。
それに対して「教養」は、基本的に個人よりも他者とどう関わるかが重要だと考える。教養は、世界のさまざまなものに触れ、単純に驚くことから始まる。予想外のものに触れて愕然とする、素敵だなと感じながら世界を知った上で、他者とどう対話するか、という視点が教養には必要である。哲学に知を愛する、根源に戻れというような教養観があるように、驚きを知り、哲学するといったところに戻っていくことが教養にはあると思うのだ。
中央公論2021年8月号 隠岐さや香「新たな知の共同体を作れるか」より)

タイトルとあらすじを知るだけでは深い対話にはつながらないし、そういった対話ができるレベルまで到達していないと「ビジネスパーソンとして教養を持っている」とは言えないのではないか? そんな観点から「ファスト教養」のあり方をとらえ直すべきである。

そのような考えが社会に受け入れられるためにも、「深い対話に必要な情報を得るための“可処分時間”がない」という声を踏まえた発信が従来のカルチャーを司る側にも求められる。自分たちがよいと思っていることを届けたい場所に届けるには、伝え方の更新も必要だろう。そのような文脈で考えると、衒学的な言葉遣いが長くスタンダードになっていた音楽や映画に関する批評の領域からポッドキャスト番組「POP LIFE: The Podcast」のような、内容の深さと聴きやすさの両立にトライする発信が始まっているのは、カルチャーの歴史と今の時代のあり方の接続を考えるうえでの明るい兆しと言うこともできるのではないか。

「映画を全部観るなんてコスパが悪い」でも「カルチャーをしっかり味合わないなんて理解できない」でもない、本当の意味で「心を豊かにし、かつビジネスパーソンの武器にもなり得る」教養とは何か、引き続き思考を深めていきたい。


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