やってきた日本のインターネットの夜明け
当時のアスキーには、後にIIJ4Uを立ち上げることになる深瀬弘恭さんがいた。その深瀬さんの開発部隊がUNIXの日本語化を手掛けた際、松下電器(当時)、東大、慶大、東工大らと一緒に、アメリカのインターネットを日本に持ち込もうと動き始めた。
では、どうやって回線をつなげるかというと、まだ海底ケーブルも光ケーブルも敷かれていないこの時代、日米間をつなぐことができる唯一の手段は、電話線を用いる9600bpsのモデムのみ。今なら3000円ほどではるかに高速なモデムが手に入るが、この頃はモデム1台あたり80万円もする高級品(リカール・バデック社)だった。これを3台並べてアメリカと回線をつなぎ、アスキーをハブにする形で東工大やKDDIなどと接続した。
アスキーに籍を置いていたおかげで、こうした場面に立ち会えた意義は大きい。これから日本でも、インターネットが未曾有の変革を起こすであろうことが、僕にはリアルに感じられた。
これと時を同じくして、僕は取締役に昇格。そして、アスキーが設立したアスキーマイクロソフト株式会社に出向することが決まった。与えられたミッションは、マイクロソフトが開発したMS-DOSを日本で売ることだ。
それというのも、IPプロトコルのスタックがこの当時は別売りで、ネットスケープなどのブラウザは無料で配布されていても、そのままではインターネットにつなぐことができない状態だったからである。インターネットを使うにはMS-DOSと8万円ほどするI P
プロトコル・スタック・モジュール(商品名:カメレオン等)が必要で、なんとも原始的な仕組みではあったが、これが日本のインターネットの紛れもないスタート地点だった。
しかし、僕は早い時期から「TCP/IPのプロトコル・スタックを、OSに標準で入れるべきだ」と主張していた。どのブラウザを使うかという選択肢はユーザー側が持っていてもいいが、少なくともIPにつなげる機能はOS自体が持っていなければ始まらないと考えていたからだ。
実際、マイクロソフトが立ち上げたプロバイダ・MSNにしても、なぜかTCP/IPではなくX.25という別のプロトコルで始めてしまったがゆえに、結果的には大きな遠回りを余儀なくされている。
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