CULTURE | 2021/03/10

アートを起爆剤に被災地の復興なるか?「OVER ALLs」×有志による、双葉町アートプロジェクト【特集】3.11あれから10年

東北を中心に東日本全体を襲った大地震から10年が経つ。
同時に津波による原発事故が発生し、放射性物質の影響で「帰還困難...

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自分の力で人生を歩めるようになったきっかけは、3.11の原発事故

―― 髙崎さんは、被災する前後はどんな生活をしていましたか?

髙崎:17歳までは双葉町で育ち、その後は10年ほど東京で暮らしていました。そして震災の2年前に結婚や起業を機に、再び双葉町に戻り、飲食店「JOE'S MAN」を開業しました。その後、震災が起きたのでまた東京に戻り今に至ります。

震災直後は、勤めていた飲食店のエリアの都合で、僕だけ都内にある避難所に寝泊まりしながら職場に通っていました。

市営住宅を借りられる権利があるので、そこに家族を呼び寄せて3年ほど暮らし、ようやく三軒茶屋に「JOE'S MAN2号」をオープンすることができました。

―― お聞きするのも憚られますが、震災の影響で突然住まいを奪われた時の心境を伺えますか?

髙崎:震災直前まで、30年以上両親が「キッチンたかさき」という飲食店を経営していて、地元では知らない人はいないくらいの繁盛店でした。

双葉町では新しく2基の原発ができたことで原発バブルが起きて、最終的に5万人ほどの人口増が見込まれていました。両親のおかげで、なんとなく僕はそこで食いっぱぐれなく余生を過ごすイメージでいて、その状況が永遠に続くと思っていました。

僕の場合ちょっと変わっていて、いざ震災が起きた時、もっと落ち込むのかなと思いきや、絶対に今後も食いっぱぐれないという自信がありました(笑)。

避難しなければならなくなった時に初めて、地元の名士である祖父や親の築いてきた街でのブランドに、ある種抵抗感があることに気づきました。そうしたレールに乗って、決められた人生を歩むのは面白くないという気持ちもありました。

それがなくなった時、やっと自分の力でチャレンジし、自分自身のやり方次第で評価される人生がやって来る。そう思ったら、これからの人生に対してむしろワクワクしてきました。

どうやって復興するか?ではなく、「WOW」(感動)があるアートでまずは心を動かす

福島・双葉町の様子。2020年8月OVER ALLs撮影。

赤澤:今回、このプロジェクトを実施するにあたり、そんな髙崎さんの前向きなスタンスに僕らが共感しているところも大きいです。

今の髙崎さんの話は、多分一般的には不謹慎なんですよ。だって多くの人は震災があって原発事故があって、故郷を奪われているわけですから。

でも僕は、不謹慎という言葉が嫌いです。不謹慎ということは、「こうありなさい」「慎みなさい」という正しい価値観の押し付けがあると思うんです。

でも、人の感情なんてそんな単純なものではありません。いろんな人の事情がある中で、髙崎さんは震災によって一旦ゼロになりました。そこから新しいスタートを切れることにワクワクする髙崎さんのスタンスを僕はすごくいいなと思うんです。

だから今回のプロジェクトについて、僕らと3.11はあくまで無関係。3.11の振り返りについては一切関知しないし、もっと言うと僕らは、震災の復興にも関知しないということも言い続けています。

それよりも、ここから先をこうしたい!という前向きな人と共鳴したいのです。だからこそ、髙崎さんが感じているようなワクワク、次への挑戦に対して、どうやって復興するか?の「HOW」ではなく、「WOW(あっと言わせる喜びや驚き)」の復興をお手伝いしたいと思いました。

―― 髙崎さんが双葉町に戻ってから、自治体とこれから何をしていくかを考え始めたとのことですが、どんな構想が出ありましたか?

髙崎:赤澤さんの話にもありましたが、「HOW」で始めると、たぶん2年がかりでようやく町が動いてくれた、といった話になると思うんです。「WOW」で始めると、僕ら自身も含め結果は誰にも分かりません。

でも、結果的に町長がOVER ALLsが町に描いたアートを休みの日にわざわざ見に来てくれました。しかも、前向きに「アートフェスもやりたいよね」という話に、ポジティブな反応を示してくれたんです。

空虚な復興スローガンではなく、個人の前向きな想いをかたちに

―― 民間のアートプロジェクトが自治体を動かしつつありますね。今回のプロジェクトでは、4つのアートを描いていますが(1月末時点)、特に壁に描かれた「HERE WE GO」(ここから新たなスタートだ)という力強いキャッチフレーズが印象的でした。

山本:僕は当初、被災地でアートを描くこと自体が不謹慎であり、生半可な覚悟では描けないと思いましたが、一旦原発の問題は置いておいて、描く経緯として大きかったのは、やはり髙崎さんのスタンスにありました。

髙崎さんがこれからの未来を願うワクワクなど、一個人の思いをそこに描けばいいんだと思ったら、吹っ切れました。赤澤と話をして、ここから狼煙を上げることをテーマに、髙崎さんの「俺たちはここから始める」という思いを描くことになりました。

赤澤:「HERE WE GO」は、かなり悩んだ末に出てきたフレーズです。初めて双葉町を訪れた時、現地をざっと見回しただけで、ここは無意味な落描きをしに来る場所ではないということが、当たり前ですけど分かりました。

その中で、落描きではなく真っ向から壁画にすることがこの町には必要だと感じたのは、昨年8月に初めて双葉町を訪れた時のこと。

昨年8月、初めて双葉町を訪れたOVER ALLs。

山本とも話をして、髙崎さんのご実家の壁がL字型で、駅の方から見えない範囲に今日は描いて、敗北しようと。一度行ってみないと分からないし、逆にバキバキに準備して行く方が失礼だと思ったのです。

現地に着いて、とりあえず爪痕を残すべく、山本がミッション通り落描きしている間、僕は町を紹介してもらいながら、髙崎さんの10年ぶりの先祖のお墓参りに同行させてもらいました。

一緒に線香をあげさせてもらったんですけど、お墓も全部倒れたままの状態でした。みんなが避難して、生きている人が逃げなければならなかったから、亡くなった方のお墓は放置されていたんですね。

そこで髙崎さんが10年ぶりにご先祖に手を合わせている背中を見た時に、髙崎さんはものすごい罪悪感を持っているような気がしました。

―― どんな罪悪感ですか?

赤澤:きっと先祖のお墓を放置していたことの後ろめたさだと僕は勝手に感じました。でも、それは髙崎さんが悪いわけではありません。

お墓から戻ってきて、反対側の壁に何を描くかという話になった時、それこそいろんなテーマが思い浮かびました。でも、僕たちのような双葉町に縁もゆかりもない人間が、「がんばろう」とか「復興支援」だなんておこがましいし、そもそも原発は僕らには無関係です。では何を描くか?と考えた時に、さっきの髙崎さんの背中が浮かびました。

僕は髙崎さんと同い年。今、震災から10年が経ち、髙崎さんは震災後に埼玉に非難し、実家も放置したまま。親父もお袋も埼玉で別の仕事を始めてもう引退の歳になっているわけです。

当時2歳だった子どもはすでに12歳になり、小学校で初めてのバレンタインチョコをもらって喜んでいる……といったリアルなイメージを描いてみました。そういう人物像が降りた時に、その人は何があったら一番嬉しいだろうと考えるわけです。

僕らはこれまで、法人や個人のメッセージをいっぱい聞き出して、その中からコアな部分をアートにすることをやってきましたが、ここは個人の壁だから、髙崎丈のメッセージをズドーンと表現しようということになった瞬間に、パーンと目の前が開けました。

最初に出てきたのは、「とにかくここが、俺たちの場所。原発事故があったから町を出て再び帰って来たけど、後ろめたい思いをする必要なんかないだろ。だってここが俺たちの場所だろう」といったメッセージにしようということで、“HERE”という言葉が浮かびました。

それを仕上げた後に、さらにこれを狼煙に続けていくことがこの町には必要だと思ったので、 “HERE WE GO”になりました。

―― 髙崎さんの思いがシンプルなメッセージに凝縮されていますね。双葉町の抱える問題は山積みという中で、現在はどんな動きがありますか?

髙崎:現実的には来年の4月には一応インフラが整うから、そこから人が戻ってくるのではないかといわれています。それから西地区という、以前は田んぼだったところを開発して、宅地化される予定です。

今、地域の人たちとも連携して、赤澤さんたちのおかげで、新聞にも取り上げられるなど、これだけクローズアップされるようになりました。この流れはすごく大事で、地方創生という意味でもこの流れを止めたくないと思っています。

そのために、今後は会社を双葉町に設立して、自治体の方たちと連携を取りながら、仕組み作りができるように動いているところです。当面は双葉町と東京を行き来しながら活動できればと思っています。

―― 2拠点でフレキシブルに活動するわけですね。「ファーストペンギン」はどんな経緯で薬局だったところに描きましたか?

赤澤:地元の大家さんが、どうせ一回壊すから、それまでの間だったら別にいいよということで、主旨を理解して快く描かせていただけることになりました。

同じエリアでやっていた「ペンギン」という店の名物ママ。薬局はやがて壊される運命だが、モデルとなった名物ママは、「絵の部分だけ取り出して残したい」というほど喜んでいるという。下は、薬局の店頭。

双葉町アートプロジェクト「FUTABA Art District」の最終章は?

―― 今回のプロジェクトは、年末に朝日新聞の一面に載るなど大きな反響があったと思いますが、地元の反響はいかがですか?

髙崎:僕の周りは関係者がメインなので応援してくれています。僕個人的な課題で言うと、双葉町の住民同士がもっと繋がっていくべきだと思っていますが、距離感の問題もあってそこが難しいところでもありますね。

でも昨日、Clubhouseで、たまたま双葉町の復興支援をしている方と結婚されて、町会議員になった方と繋がったんですよ。そういう方に間に入ってもらって、今後の双葉町の人たちを巻き込んでいけたらと思っています。

―― 最後に、プロジェクトについて、アフターコロナを見据えた今後のビジョンについて教えてください。

赤澤: 2月中に第4弾、3月11日を中心に、数日かけて第5弾のアートを描く予定です。3月11日に完成を合わせず、あえて次の未来を見据えて12日に完成にしようと思っています。

最終目標としては、この壁画をもう少し増やした後、双葉町でフェスをやることで、それが最後の除染活動だと僕は考えています。

町は物理的には一旦除染できたものの、土地に人が入って来られなかった10年間で活気が失われてしまっています。

そこにたくさんの人が訪れて、双葉町の土地をいっぱい踏みしめてもらって、グデーンとした空気を払拭することで、土地の空気が入れ替わるような気がしています。

実際、双葉町に壁画を描いたことによって、髙崎さんをはじめ、再び町で活動する流れが少しずつ生まれてきている中で、最後に人が集まるような希望の光景を作り出した瞬間に、またそういう人たちが増えると思うのです。

よく地方創生で3人の変態がいたらその町は盛り上がるなどと言われますが、双葉町に関しては、一旦ゼロになった地域だから、3人では足りません。

だけど30人変態がいたら、双葉町は再びきっと盛り上がる。その30人のうち、10人でもアートによる「WOW」が最初にあったことによって生まれてくれたら、それこそ僕らが一番やりたかったことです。

さらに双葉町で「HOW」ではなく「WOW」の復興をひとつの形にするところまでやったら、あとはバトンタッチするのが、今回のプロジェクトの区切りかなと思っています。

山本:今回のプロジェクトに限らず、僕が絵でやれることって実はあまりなくて、絵そのものにはあまり価値がないと思っています。大事なのは、個人や法人の思いやストーリーを描くこと。

今回で言えば、もともと髙崎さん自身が持つ思いやメッセージそのものです。僕は人の超個人的な思いを一個ずつ入れてそれをテーマに表現するだけなので、絵描きとしてちょっとだけ背中を押すぐらいの感覚でいます。

でも、僕らが描いた壁画が町にあることで、たとえば10年ぶりに、当時は幼かった子どもを連れて、町に帰るようなきっかけが作れたかなとは思います。

絵自体のパワーというよりも、人のパワーをそのまま素直に表現しようと思って僕はいつも描いていて、それを増やしていくことで、大きなうねりになることを期待しています。

髙崎:今回、プロジェクトを機に大きなチャンスをいただけたので、いかに流れを作り、流動的に繋げることがこれからの課題です。

もちろん、僕らの活動だけで完結する話ではありません。このプロジェクトを機に、最終的に何年かかけて変態が10人や30人に増えていくためにも、そのきっかけを作ることがとても重要だと思っています。


OVER ALLs

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