YouTube動画「動かしつづける。自分を。未来を。 The Future Isn’t Waiting. | Nike」よりキャプチャ
倉本圭造
経営コンサルタント・経済思想家
1978年神戸市生まれ。兵庫県立神戸高校、京都大学経済学部卒業後、マッキンゼー入社。国内大企業や日本政府、国際的外資企業等のプロジェクトにおいて「グローバリズム的思考法」と「日本社会の現実」との大きな矛盾に直面することで、両者を相乗効果的関係に持ち込む『新しい経済思想』の必要性を痛感、その探求を単身スタートさせる。まずは「今を生きる日本人の全体像」を過不足なく体験として知るため、いわゆる「ブラック企業」や肉体労働現場、時にはカルト宗教団体やホストクラブにまで潜入して働くフィールドワークを実行後、船井総研を経て独立。企業単位のコンサルティングプロジェクトのかたわら、「個人の人生戦略コンサルティング」の中で、当初は誰もに不可能と言われたエコ系技術新事業創成や、ニートの社会再参加、元小学校教員がはじめた塾がキャンセル待ちが続出する大盛況となるなど、幅広い「個人の奥底からの変革」を支援。アマゾンKDPより「みんなで豊かになる社会はどうすれば実現するのか?」、星海社新書より『21世紀の薩長同盟を結べ』、晶文社より『日本がアメリカに勝つ方法』発売中。
1:ナイキ社の広告は「案の定」炎上しているが…
インターネットで広い認知を得るには「炎上させた者勝ち」みたいなところがありますが、この一週間はナイキ社の動画広告が話題でした。
同社のこういう「人種差別」問題を前面に押し出したCMシリーズは、アメリカ本国で公開された時も常に賛否両論で、強烈な認知を引き寄せて売上を伸ばしたり、また一方でナイキ社の靴を燃やす写真が大量に投稿されるような不買運動も起きたりしていました。
今回の「日本版」の公開でも、案の定、
・「素晴らしいメッセージ性を持った広告だ!」と感じる層
と、
「日本社会に対する侮辱」だと感じる層
と、真っ二つに分かれており、SNS上で「案の定すぎる」論戦が展開されていました。
2:こういうのは本当に「人種差別解消」に役立っているだろうか?
個人的な感想を言うと、
ぐらいの感想なんですが、SNSで最近よくある、「コレ系に反発を覚える層を徹底的に嘲笑する仕草」は本当に良くないことだと思っているし、むしろ本音を言えばかなり「嫌い」です。
「コレ系に反発を覚える層を徹底的に嘲笑する仕草」がどんなのかっていうと、
こういうの↑ですね。
もちろん、直球の外国人差別を隠さない人たちも日本には残念ながらいるので、それに対するカウンターとして現状必要なことはわかる。日本社会にももっと改善していかなくちゃいけない課題がたくさんあるということもわかっている。
でもだからといって、「こういうやり方」が問題を解決に導くのでしょうか?
単に「意識高いフリをして金儲けをしてやろうという、”いかにもナイキ社”的な商業主義」なのでは?という疑問は強烈にあります。
3:一周回って、むしろ「このCMに反発を覚える層をいかに自陣営に引き込めるか?」を考えるべき時代になってきているのでは?
私はこのナイキ社のCMシリーズがアメリカ本国で始まった時から、「こういうのがカッコいいのは認めざるを得ないが、これが“無条件にいいこと”扱いされる社会って絶対良くないよな」と思っていました。
特に、私は黒人クォーターバックとして徹底的にオリジナルなプレイスタイルを切り開いたNFLのコリン・キャパニック選手が選手として好きだったので、彼が始めた「試合前の国旗掲揚時に膝をつくキャンペーン」には複雑な思いを持ちました。
なぜならこういうのは「劇薬」だからです。
確かにこういうことでもしないと、「そこにある差別」をちゃんと認めてもらえないのだ…という言い分は理解できなくもない。特にアメリカの黒人差別問題の根深さを考えれば、アメリカの場合はそうなのかもしれない。
しかし、一度こうやって「統合の象徴(国旗)」を否定しはじめると、その「問題を認識」した後、どうやって「解決」に向かえばいいんでしょうか?
結局ここで「劇薬」を使ってしまったら、警官が黒人に対して差別的な扱いをしてしまう問題に対して、
黒人差別をやめさせつつ治安を守る使命はちゃんと行える警察改革とはどういうものか?
という、あらゆる立場の人の知恵を寄せ合って解決するべき問題に対して、
・ただただ警察だけを悪者にして敵視して、「警察予算を削減しろ!」と叫んだりする
だけになってしまったり、一方でよく指摘されているような、
・黒人の経済状況を本当に改善するために必要な、教育学区ごとの予算が全然違う問題…のような「難しい構造的課題」はほったらかしになっている
ような問題がある。
『ローリングストーン』誌に掲載された記事「オバマ前大統領、ネット上の過激な批判カルチャーを非難「世の中は変わらない」」でオバマ元大統領が言っているように、ただSNSで「敵」を作って石を投げつけているだけで「いいことをした」と満足をするような風潮で世界を変えることはできません。
こういう「過激なスローガンで政敵を攻撃するのに熱中するだけで、政治的解決からむしろどんどん遠ざかってしまう」のが世界的な「病」になってきつつある状況においては、
このナイキCMの文句なしのかっこよさ…を100%褒め称えることの危うさ
だって理解できるでしょう。
だからこそ「こういうCMを絶対やってはダメだ」って言いたいわけじゃなくて、問題提起として大事だとは思うけど、「反感を持つ層」だって当然出てくる課題だし、そういう人を徹底的に嘲笑するような仕草は、「善なること」につながるとは到底思えない、むしろ非常に醜悪な商業主義と言っても過言ではないと私は考えています。
4:このCMに怒る層が「日本」に対して思い入れているもの
日本という国は「みんないっしょ」を目指したい国です。一方でそういう風潮が重いと思ったことがある人も多いでしょう。
しかし「日本という単位」がちゃんと尊重されているから、アメリカでは完全に分離してしまってスラム化してしまうような地域でも「まあ日本だしこれぐらいはね」という秩序がギリギリ保たれている。
たとえ離島や山間部のような辺境の地でも、「日本の初等ー中等教育ならば“みんないっしょ”にこれぐらいはできなければ」という情熱を関係者が持っているので、アメリカで起きているような「住んでいる学区ごとに絶望的な格差が生まれる」ような事態にはなっていない。中等教育までのクオリティに対して国際的評価も高い。
もちろん、こういうのはグローバル資本主義の荒波に揉まれて崩壊寸前ですし、こういう「みんないっしょ」傾向が強すぎるあまり「エリートを育てる」という課題がおろそかになってしまっている面もあるでしょう。
でももし「変化」が必要だとして、この「みんないっしょ」感を最後まで保持しようと頑張る人たちの意志はすごく大事なことですよね?
ナイキのCMみたいな志向がこういう「みんないっしょ」感を果てしなく引きちぎろうとする時、そういう志向への「警戒感」が出てくることは当然ではないでしょうか?
つまり、この「ナイキCMへの警戒感」こそが、アメリカのように公立学区ごとの格差があまりにも大きすぎて「生まれ育ちだけで格差が完全に固定化されてしまっている」状況にしないための土俵際でなんとか耐えている良識の源泉でもあるからです。
そうやって維持している「みんな」感を大きく育てていって、黒人の親を持っていた肌の黒い生徒も、在日コリアンの生徒も、LGBTの生徒も、学習障害的な課題を抱えている生徒も、スポーツが苦手な生徒も、“陰キャ”の生徒も、メチャクチャ勉強ができるために周囲から浮いてしまう生徒も…それぞれなりの居場所がちゃんと見つかるように、包摂されるように持っていきましょう、というのが、果てしなく二極分化して憎悪し合う状況になってしまった「アメリカ」を反面教師として今我々が高く掲げるべき理想ではないでしょうか?
こういうCMに熱中する都会の恵まれたインテリ階層は、お手軽に「古い社会を糾弾」できる「アイデンティティ」の問題だけに熱中して、自分自身も批判され痛みを負う必要があるような社会の構造的課題にしっかり向き合うことから逃げ続けているのだ…という「アイデンティティポリティクス批判」というのは世界各国で常に問題になっています。
そういう「世界共通の今の病理」にこそ、私たち日本人が大事にしてきたメッセージで応えていくべきタイミングなのではないでしょうか?
5:「アメリカの時代の終わり」に求められる、「第二波グローバリズム」のあり方
最近フランスでは、イスラム文化などとの多文化共生にあたって、大雑把に言えば
という、こう書くと当たり前の「お互い様」の姿勢を取り入れる政策が、国民の広い範囲の賛同を得て実現していっています。こういう政策は欧州で徐々に広がっていく見通しです。
マイノリティへの寛容さ、そういう人たちも生きやすい社会にしていくことは大事なことです。
しかし、その社会が脈々と大事にしてきた価値観を徹底的に「足蹴に」することを許すことが、「マイノリティへの寛容さ」であるという時代は世界的に終わりつつあります。
私は過去30年の、いわば「第一波グローバリズム」における、「あくまで非妥協的に“個”だけを見る」姿勢が果てしなく称揚されていたのは、それは「アメリカ一強の時代」であったからだと考えています。
大事なポイントは、「アメリカにおいては、そうやって“個だけ”を非妥協的に追求すること自体が“アメリカン・ウェイ”として共有されるものだから」という構造があることです。
だからアメリカでそういうやり方をやるのはいい。ナイキ社のCMも、アメリカの中だけでやる分には「ギリギリ」成立しているのは、アメリカでそういうふうにやることは、「私たちが共有するもの」を確認し合う行為でもあるからです。
しかし、日本には日本の、フランスにはフランスの、「社会と個人をお互い調和させるためのやり方」がある。
それを崩壊させるようなことをすれば、その社会の本能的危機感ゆえに、余計にその「マイノリティ」への感情的反発を刺激して、どこかで暴発的な攻撃をする人間が出てくるのを止めることはできなくなってしまいます。
世界においてアメリカの、そして欧米諸国が占めているGDPの割合がどんどん減っていく時代においては、単に「欧米的理想をローカル社会に無理やり守らせる」のではなくて、「ローカル社会の価値観といかに調和して取り入れてもらえるか」をもっと真剣に考えることが必要な時代が来ているわけです。
私は「ローカル社会をなぎ倒して無理やり新しい価値観に順応させる」タイプを「第一波グローバリズム」と呼び、そして今後来るべき「ローカル社会の価値観とグローバルな潮流をいかに調和させるか」を考える時代を「第二波グローバリズム」と呼んでいます。
「第一波」の時代にはナイキ社のCMに賛同しないタイプの人間を思うぞんぶん罵倒・嘲笑しまくることが「勝ちすじ」だったかもしれませんが、時代はそろそろ「反転」しはじめるでしょう。
いや、「自分と逆側にいる考えの人たちを果てしなく罵倒しまくるのが政治的に正しいこと」だと考えるような風潮が、あらゆる民主主義国家において「両極分断化」を生み出し、もうマトモな政権運営をするには中国みたいな強権主義でやるしかないんじゃないか…とすら思えてきてしまう時代には。
それでもあくまで民主主義の可能性を守りたいならば、むしろ、私たち日本人こそが、ナイキ社のようなやり方は、決して100%褒められたようなものではないのだ…というメッセージをしっかり発していく使命があるとすら言えるでしょう。
6:ただナイキに文句言うだけなのは情けない。私たちなりの答えで返してやろう
しかしなんというか、ナイキのCMってカッコいいですよね。それは認めざるを得ない。
大坂なおみさんが今年の全米オープン中、着用するマスクでBLM運動を支持するメッセージをアピールしていた件で、「スポーツに政治を持ち込むな」的な批判が巻き起こっていたことがありました。
そんな中でも堂々と優勝してみせた上での以下のツイートでは、「みんながスポーツに政治を持ち込むなって言い続けてくれたおかげで、逆にできるだけ長くテレビに映ってやろうと思わせてくれたので優勝できた」的なことを言っていて(笑)。
はっきり言ってちょっとかっこよすぎるやろ…という感じです。漫画の主人公かよ。
・世界を変える。自分を変えずに。Just Do It. (大坂なおみさんのCM)
・動かし続ける。自分を。未来を。YOU CAN'T STOP US (今回のCM)
うんうんかっこいいよ。それは認めよう。
もちろん、社会の今「抑圧されていると感じている人」が異議申し立てをする権利は完全に擁護されるべきだし、そういうメッセージを必要としている人たちもいることは認めよう。
だからこそ、ナイキ社と、こういうCMが好きな人は思う存分この自由主義社会の中でこういうメッセージを発すればいい。
しかしね…。
「そういうかっこよさの絶対視」が世界中の民主主義社会を果てしない両極分化に追い込み、民主主義社会の存続すら危うくしている時代には、もっと「何か別のもの」こそが最先端に必要とされている時代なのではないでしょうか?
少年漫画風に言えば、
てな感じで「挑戦を受け取って、最後に勝つ」道を模索したいものです。
具体的には、最近noteで書いて結構高評価を頂いている、「竹中平蔵を排除するためにデービッド・アトキンソンと組む」・・・「血も涙もないネオリベモンスター」を倒すためには「血の通ったネオリベ」を味方にする必要があるという話。という記事に、「ナイキ」型にイデオロギー対立を煽るのではなく、「具体的にリアルな改善」を積み重ねていくための具体策…は書きましたのでそちらをお読みください。
7:「妄想の右翼」さんでなく「ちゃんと時代にマッチしたナショナリズム」に乗り換えよう
最近話題の、O・A・ウェスタッドというノルウェー人歴史家の『冷戦 ワールドヒストリー』という本を今読んでいるんですが、100年以上にわたる「冷戦の歴史」を、主にイデオロギー対立の視点から網羅的に世界を見回しつつ記述している大著なんですね。
で、これは『ファクトフルネス』が話題になった時も思ったのですが、北欧人は「欧米の帝国主義争い」的な世界観から少し傍観的な立場にいるために、単純に誰かをワルモノにして叩いて終わり…というのではなく、「イデオロギーという熱病」が世界中の人間を駆り立てる中で、征服したりされたり…という不幸が起きた現象の全体像を冷静かつ中立的に描くことができているように思います。
こういう本が世界的にベストセラーになる「時代の空気」は、20世紀型の「誰かをヒトラーだと断罪して終わり」のような世界観から「その次」を模索しようとする、これも「第二波グローバリズム」に含まれる出来事だと思います。
要するに、20世紀的な「歴史認識問題」というのは、「そこにあったことの総体」をちゃんと理解した上で、「人間社会全体がそういう暴走をしないためにはどうしたらいいか」を深く考えるというより、安易に「ワルモノ」を見つけてそいつに「罪をおっかぶせる」議論しかしてなかったところがあるわけです。
「人類全体で巻き起こっていた不幸」がある時、特定の国だけが過剰に叩かれたりすると「お前らの国だって似たようなことをしたじゃないか!」と納得感は決して得られないですし、そりゃ「歴史修正主義」みたいなのも盛り上がるだろうし、そうしたら実際に不幸な目に遭った人への救済もスムーズには進まなくなりますよ。
「イデオロギーで誰かを断罪して糾弾することで何か意味があることができる」という勘違いは、世界史の不幸を全部「ナチス」とかそういう「自分とは関係ない敵」におっかぶせてしまえる20世紀的世界観を大きな源泉として形成されているわけですね。
だからこそ、「左右問わないイデオロギーの絶対化」があらゆる社会を両極分化して民主主義そのものの存続すら危うくし、米中対立がここから何十年の人類史を規程するような現象が起きつつある時には、むしろ「靖国神社」にちゃんとこだわり続けてきた日本人の「思い」を、発展的に解消して「新しい調和の軸」に仕立て上げることもできる時代になるでしょう。
欧米文明中心主義に対する対抗軸として必死に何かを打ち立てようと頑張ってきた戦前の日本のあり方のコア部分さえ名誉回復できるなら、国内外で起こした不名誉な事件についても、ちゃんと受け入れ扱えるようになる。
要するに「全人類共通の罪」がある時に、「誰かを自分にひざまづかせたい」という歪んだ欲望に利用しようとするから紛糾するわけで、そういう世界の中で「ワルモノ役」を過剰に与えられた存在の反発が高まるのは当然です。
そういった、「20世紀型の断罪」ではない新しい歴史認識も、「日本」から今後出てきて、両極分化する世界の新しい調和の軸として提示していけるでしょう。
最近、いまだに「トランプは来年も大統領」だと本気で思っている人たちが「日本のナショナリズム」の結構な部分を占めてしまっているというわけがわからない状況になっているわけですが。
そんな「妄想の右」は脱却して、むしろ欧米文明の最前線に新しい価値観を提示できる「自分たちのプライドの源泉」に乗り換えていきたいものですよね。
8:今後の日本という国の影響力を最大化する「キャステイングボート」戦略とは?
日本という国は、単独のパワーで世界をリードするほどの影響力を持つほどのサイズは持っていません。
しかし、いまだ世界第3位の経済大国日本は、「拮抗する極論同士の罵り合い」が世界中で問題になる時に、今の日本の国会における公明党のような存在として、「場に決定的な影響力を持つ一票」を投じるぐらいのことならできます。
こういう現象を「キャステイングボートを握る」と言いますが、
「イデオロギーの死」の時代にリアルな議論を社会で共有する技術
を日本が作り上げられれば、それは今の日本の国会における「公明党」的なポジションを作り出すことで、
「果てしなく両極に分断されていく人類社会の中で決定的なキャスティングボートを握るパワー」
となって、国際社会の中で実際の人口・経済規模を大きく超える力を日本に与えてくれるでしょう。
「そのポジション」さえ確保すれば、そういう国が経済的に繁栄しないことなどありえないとすら言えます。
それは東洋と西洋の間にたってこの150年ほどを強烈な矛盾を抱え込みつつなんとか生き抜いてきた私たち日本人にとって、本当の意味で「私たちならではのオリジナリティ」に基づいたものであり、そして分断に苦しむ人類社会に大きな貢献となりえるものにもなるでしょう。私の著書などで最近毎回引用している小林秀雄の言葉
美しい花がある、花の美しさというようなものはない
が我々のスローガンです。あらゆる「イデオロギー」に本来懐疑的な私たちの「禅」的感性こそが、欧米文明の独善性を掣肘し、東洋と西洋の文明の間に新しい調和の基準点を生み出していく時代となります。
私たちならできますよ!(Yes, we can!)
その具体的な「策」は、さきほどリンクした以下の記事をお読みいただければと思います。
「竹中平蔵を排除するためにデービッド・アトキンソンと組む」・・・「血も涙もないネオリベモンスター」を倒すためには「血の通ったネオリベ」を味方にする必要があるという話。
もう一個、先月書いた「鬼滅の刃」のブームについての記事、「欧米由来の”最低最悪のアンシャンレジーム”と”完璧な正義の俺たち”という世界観自体を超えて、各人の新しい”責任”のあり方を見出していく志向」を象徴するものとして「鬼滅の刃」の大ヒットはあるのだ・・・という話がかなりnoteで好評をいただいているので、そちらもよかったらどうぞ。
感想やご意見などは、私のウェブサイトのメール投稿フォームからか、私のツイッターにどうぞ。連載は不定期なので、更新情報は私のツイッターをフォローいただければと思います。
また、この連載の趣旨に興味を持たれた方は、コロナ以前に書いた本ではありますが、単なる極論同士の罵り合いに陥らず、「みんなで豊かになる」という大目標に向かって適切な社会運営・経済運営を行っていくにはどういうことを考える必要があるのか?という視点から書いた、「みんなで豊かになる社会はどうすれば実現するのか?」をお読みいただければと思います(Kindleアンリミテッド登録者は無料で読めます)。「経営コンサルタント」的な視点と、「思想家」的な大きな捉え返しを往復することで、無内容な「日本ダメ」VS「日本スゴイ」論的な罵り合いを超えるあたらしい視点を提示する本となっています。