EVENT | 2019/07/19

日本企業のイノベーションはアメリカが轢いたレールの上から逸脱すべき|小林弘人(Unchained主宰)【後編】

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雑誌『WIRED』日本版の創刊編集長や、企業のコンテンツマーケティングを支援する株式会社イ...

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雑誌『WIRED』日本版の創刊編集長や、企業のコンテンツマーケティングを支援する株式会社インフォバーン、日本最大級のガジェットメディア「ギズモード・ジャパン」の立ち上げなど、日本のインターネット黎明期からデジタル業界で活躍している小林弘人。

インタビュー後編のテーマは「今の日本企業が抱える問題点」と「Unchained」が目指すもの」の2つ。彼はベルリン最大のテック・カンファレンス「TOA」の公式パートナーとして「暗号の首都(クリプト・キャピタル)」と呼ばれるベルリンに日本企業を多く送り込み、加えて香港のブロックチェーン・コミュニティハブであるBitWorkとも連携し、個人としてもイスラエル・ブロックチェーン協会のアドバイザーにも名を連ねる。そのネットワークによってUnchainedに出入りする人々を、世界のブロックチェーン・コミュニティと交流させようとしている。

日本では「どこかからイキのいいスタートアップが現れないか」ぐらいの意味合いで「破壊的イノベーション」というワードが使われている節もあるが、小林はそうした認識は既に時代遅れであると喝破する。今、世界最先端のカンファレンスでは何が議論されているのか。そして既に萌芽もみられるという「日本企業にとってのチャンス」はどこにあるのだろうか。

聞き手:米田智彦・神保勇揮・長谷川賢人 文・構成:長谷川賢人 写真:KOBA

潮目が変わったSXSW。「破壊」から「信頼構築」への転換は可能か

この数年間、毎年SXSWを訪れていますが、今年訪れて驚いたのは、潮目が変わったなということです。相変わらずずば抜けたアイデアから「イノベーションに恋している」とでも形容したくなる天真爛漫なものまで幅は広いのですが、そればかりではなくなったということです。

そして、その認識の違いが日本と海外ではかなり隔たりがあると感じています。この点については、FINDERSでレポート記事もアップされている、黒鳥社の若林恵さん、ライゾマの齋藤精一さんとのイベントで言い尽くしたことでもあるので割愛しますが、そろそろ強欲資本主義とグローバリズムが交差するような枠組みの中でものを考えることはやめて、日本企業は自身の国際的な立ち位置から独自の視座と自身の言葉でイノベーションを語る時期に来ているというのが僕の意見です。

特に、今年のSXSWの潮目が変わったと思う点は、GAFA問題や行き過ぎたテック企業に疑問が呈されたことだったと思います。僕は今年のSXSWの隠れテーマは、「TRUST(信頼)」じゃないかと考えています。

自分が昨年に参加したベルリンの「Web3 Summit」は、分散型Webへの移行を訴えるイベントでしたし、サンフランシスコでも同様のイベント「Decentralized Web Summit」が開催されました。このように中央集権的になってしまったWebへのアンチテーゼは各地で関心を呼んでいます。

それは旧来のプラットフォーマーの寡占による利己主義的なビジネスと、それに結びついたユーザー数だけ増やしていけたらいくらでも時価総額を積み上げられるという「後から面倒なことは考える、あるいは金に糸目をつけずに裁判、買収上等、ロビー活動しまくるシステム」へのカウンターだと考えています。また、最近ではシェアリング・エコノミーへの反発も高まっています。仲介者にしかすぎないプラットフォーマーだけが丸肥りしていく「プラットフォーム資本主義」に対して、「協同組合」の形式をとるシェアリング・サービスが登場しています。

ライドシェアで言えば、ドライバー、ユーザーが一緒に出資して活用するものも登場しています。ただのマッチングモデルから相互に互恵的なものに進化しています。サンフランシスコにはJUNOという協同組合型のシェアリングサービスがありますし、コマースやヘルスケアまで多くの分野でこのコンセプトを掲げるエシカル(倫理的)なシェアリングサービスが芽生えつつあります。

テクノロジー業界はその持てる力によって格差を広げるのではなく、社会との共生を考えなければならない時期に突入したと言えるでしょう。また、フェイスブックのデータ横流しやグーグルの中国における方針転換、セラノス、ウーバーのスキャンダルなども露呈し、プラットフォーマーへのTRUSTが著しく揺らいでいます。

そんななか、SXSWは、「インターネットはなにかがおかしい」といった流れも汲んで自己言及するようなイベントであり、そこが草の根から立ち上がってきた良さだと思っています。もちろん、SXSWといえども退屈かつ金満なセッションも存在しますが、批判的観点を含むものや、業界の枠を超えた新しい提案など、「問題意識」を声にして次代をつくろうとしている点は、今も日本人のわれわれが見習うべき点だと思います。

僕が参加したAIA(米航空宇宙工業協会)のカンファレンスでは、フライングカーや超音速旅客機など、新しいエアロモビリティの法整備の必要性を訴えていました。既存のテクノロジーを披露するだけでなく、「これらを実現させるために、こいういうロビー活動が必要です。皆で連帯しましょう」という姿勢も、またSXSWの白眉ですよね。わざわざ日本から駆けつける意味があると思います。

今さら「シリコンバレー企業に習え」では遅い

それに対し、単に「シリコンバレーに見倣え」と安直に考えている日本企業がいたとしたら、周回遅れも甚だしい気がします。「アジャイル」や「コ・ワーキング」が新しいファッション・トレンドといった印象です。本気で経営資源の一部を新規事業開発に割く気があるのか? 「ディスラプション(破壊、混沌の意)」も一時期キーワードでしたが、そもそも世間体を気にする日本企業に誰かにとっての中間業者を中抜きしたり、ひとつの産業を潰すようなディスラプターになる覚悟はあるのか? 上司の稟議だらけのイノベーションは誰のためのものなのか? など、「ベンチャーごっこ」から卒業して、本質を見つめてほしいと思います。

必要なのは「自社の哲学は?」「社会をどう変えたいのか?」「それはシリコンバレーの企業と何がどう違うのか?」と自問してみることです。そもそもダイバーシティもなく、育児休暇明けに転勤を命じることが違和感なく受け止められ、「適法である」という冷たいコメントを放つような企業風土において、社会構造を変革できるのか甚だ疑問が残ります。

日本企業は社会的なフレームや企業文化を変革するようなところからディスラプションを起こすべきではないでしょうか。その上で企業がいかに新しいビジネスモデルを作って社会に貢献できるかだと思います。誰も買う必要のないものを延々と作り続け、大量に破棄するような地球規模の自転車操業は、もうこの先続かないと思います。かと言ってニッチな小改良を延々とやるには存在が重すぎる。

働き方や多様性、コミュニティとの共生、格差の是正などを追い求めることを含めて、そもそも技術革新や利益の果てしなき追求に明け暮れるようなことは、われわれ自身の幸せにつながっているのか考えるべきでしょう。テクノロジーが引き起こすシンギュラリティについては信じる人も多いのに、なぜ労働環境を変革できる可能性や、強欲な資本主義への疑義ははなから諦めているのでしょうか。

日本は今、すごくチャンスだと思います。それは丹念に課題を拾い、お金にならないと思い込んでいる思考から脱却し、クリエイティビティを磨くことが大切だと思います。例えば、日本のような切り立った傾斜面の多い山間部での農業。そこではレモン栽培や収穫に特化したロボティクスやエッジコンピューティングが役立つでしょう。また、LoRaWANやローカル5Gなど自律型の発電を駆使した農耕具など、単体で見たらニッチかもしれませんが、類似の課題をもつ地域をグローバルで集めたらどうでしょうか?人口減少、空き家問題、事業継承など、待ったなしの問題が多いなか、同様の課題には多くの先進国が今後直面していきます。抽出された解決方法は輸出が可能だと思います。

オランダの高校生が起業したThe Ocean Cleanup(海洋に漂流するプラスチックゴミの除去)は海外で生まれたコンセプトですが、最初の実証実験は日本の対馬海域です。また、パナソニック・アプライアンス社が開発したデリソフターという家電のプロトタイプは、食べ物を咀嚼したり飲み込むのが難しい、嚥下(えんげ)障害をもつ家族のために工場の検品担当者が考案し、SXSWで発表しました。そのアイデアは高齢者と暮らす国外の家庭でも注目を集めていると聞きます。日本の課題が特殊だと思い込まないことでしょう。

僕が日本企業の人々を毎年ベルリンにお連れするのは、どういった形で資本主義と社会が共生できるのかについて、考えてもらいたいからです。現地では移民や格差によるジェントリフィケーションに悩むコミュニティがあり、そこでは課題解決のために多くのアイデアが実践されています。また、サーキュラーエコノミーのように無駄を排出せず、それを富に変えるための新しいアイデアがいくつもあります。これらはベルリン特有の課題というわけではありません。世界の先進国が抱えていて、いずれ新興国が突き当たる課題なのです。そして、インクルージョン。異なる者を追放するのではなく、互いの違いを認めてどう価値を創出するのか。また、デジタルだけではなく、デジタルによって復活するアナログ体験もあり、そのような「アップデート」も十分価値があると考えています。

脱中心化の流れは止まらない

イノベーションはテクノロジーがなくても興せるものだと思います。例えば、ベルリンの市内には使われていない電話ボックスがありますが、この中は図書館となっていて、自宅で読まなくなった本を置いたりすることができます。他にもDJブースになっている電話ボックスもあるようです。そこで、興味が湧いて使われなくなった電話ボックスにどう新しい価値が吹き込まれているか世界中を調べてみると、インスタレーションの一環として巨大水槽バチになっている日本の事例や、公衆シャワーになっているものなど、どれも既成概念を刷新し、巨大な資源ゴミの再生になっていると思いました(笑)。

まず、枠組みを疑うことから始めることをお勧めします。それは自分を取り巻く日常的な環境だったりします。なぜ会社に毎日通うのか、それはいつ始まったのか。なぜ座って仕事をするのか?立って仕事をするオフィスがあってもいいのではないか? など。

学校教育にせよ、フィリップ・アリエス曰く、中世のヨーロッパに子どもという概念は存在していなかったといいます。すぐに職人になる、家業を手伝うなど「小さな大人」だったようですね。大航海時代を経て、商業革命において習得可能なスキルが増え、ホワイトカラーが誕生したという説は面白い。そのための教育を受けるモラトリアムな子ども時代という概念が併せて誕生したそうですが、その仕組みが現代に引き継がれている理由が今後無くならないとも限らない。

今はMOOCsなどオンラインによる遠隔教育もある。あるいは、ブロックチェーンで自分の履修履歴を証明できれば、第三者である教育機関の認定も必要なくなるかもしれない。いずれにせよ、いま当たり前だと思われている社会構造などのフレームは、テクノロジー起点でディスラプトされる可能性を持ちます。

分散化の成否は「横並びの幸せモデル」を乗り越えられるかがカギ

僕個人の考えとしては、今後資本や労働力などは、ますます流動化していくと思います。昔のように産業構造が安定していて、就業やライフスタイルが固着化していた時は、社会も、それに伴い保守的かつ共同体に束縛され、人と違うことはリスクだった。ところがインターネットが登場し、人や情報が流動化していった。さらにブロックチェーンは無形・有形の価値を流動化させることができる。この先には何が待ち受けているのでしょうか?

大いなる分散化は止まらないと思います。歴史を見たら、天動説から地動説へ。自然から分子へ。宗教改革や産業革命。スーパーコンピュータからPC、そしてスマホへ。ブロックチェーンで用いられている暗号も最初は国家が発明し、民主化されました。このような中心から自分たちへと思想や力が分散されていく、Decentraliztion(分散化)の流れは止められないでしょう。それは引力のように働いていると思われます。

しかし、こういうことを言うと、「すべてがそれ一色になる」と誤解する人がいますが、そんなに単純なものだとも思いません。今もそうであるように中央集権的なものも、混在して残るでしょう。また分散化が機能しなければ、再び中央集権的な仕組みにも脚光が集まる可能性もあります。ただし、総体としては、これまでテクノロジーがなくて分散化できなかった物事が、さらに分散していくはず。

そんな分散化社会で、どう生きていくのか? 新しい価値とセットで再考する必要があります。先ほど、かつて人と違うことはリスクだったと述べましたが、地方創生にしても、どこに存在してもいいような箱モノを造ったり、高速インター付近に東京にもあるようなチェーン店舗を揃えるのは、他と同じというテンプレート化であり、ダメな分散化です。このテンプレート化の果てに日本中が大都市の郊外のようになってしまいました。しかし、それはある意味で地域の価値を毀損しています。文化が顧みられていません。分散化はすべてが良いことだらけではありません。効率化のためにテンプレート化された商業やテクノロジーの分散化は、「横並び」をつくります。そこではクリエイティビティは後回しになるでしょう。「失敗をしない=ヨソと同じでいい」という人たちが増える社会です。

そんな中、新しい価値を軸としたコミュニティを築くことも可能になるでしょう。徳島県神山町は、アーティスト・イン・レジデンスで多くのアーティストを迎え入れています。その共同体の価値は国外にも広がりを見せています。そんな新しい価値とライフスタイルを提案し、存立させることはテクノロジーによって昔よりもたやすくなっています。

「右肩上がりに売上を立てろ」というプレッシャーは、長期的には実は思考停止に陥りやすい。ものすごく中央集権的な思想です。その目標に向かって進むことが、ステークホルダーの幸福や技術の進歩につながるといわれていますが、公害問題や貧富の格差が生まれ、監査のごまかしやブラック企業を生み出しています。なにが幸福なのか、人それぞれだと思いますが、旧来の価値判断はひとつのメジャーだけを頼っています。

例えば、自分が幸福だと感じる価値を共有できるコミュニティを築くことはできるし、豊かに暮らすことについてもっと議論が行われてもいい。実は創り出すビジネス以前に、働く人が幸せになるべきだと思います。しかし、その観点においては、どこかで達観というか、諦観しているのかもしれませんね。SRI(社会的責任投資)というメジャーもありますが、日本では絵空事のように思えるときがあります。それも問うべき枠組みのひとつだと思います。

僕はイノベーターと自認する人たちには、自分と家族、ひいては属する社会の幸福を追求してほしいと願っています。僕が尊敬するトルーマン・カポーティという作家は、自分の作品の読者に、世界にはどんな人にもそこにフィットする場所がある、ということを伝えたいとインタビューで述べていました。

イノベーションにおいて、アーティストのように、あるいはデザイナーのように考えよう、という思考メソッドが企業にもてはやされています。しかし、本当に考えたほうがいいのは、その目的です。アーティストの中には「お金になるからそれをやる」と考えている人はごく少数でしょう。お金が目的なら、アーティストにはならないかもしれません(笑)。その目的の中に輝くヒントがあると思うのですが、表層的な手法だけ抜き出すことは、少しは意味があるかもしれないが、本質的に異なる気がしています。

実はクリエイティブというのは責任も伴うし、同時に人の顔色をうかがうのではなく、誰もがびっくりする完璧な提案ができるまで諦めないことではないでしょうか。解答はありません。人はメソッドがあれば安心しますが、そもそもその通りにやれば必ず成功するわけでもないことはわかりきったことですが、メソッドが責任回避に用いられている印象です。

自分の現在三歳になる子どもは、大好物の果物をあげると、すぐに独り占めしようとします。しかし、おばあちゃんが「美味しいものは、皆で食べるともっと美味しいよ」と諭してからは、最近気分が乗れば先に分けてくれるようになりました(笑)。「自分だけが幸せは、本当の幸せではない」。先述した話に戻りますが、これが今のインターネットやグローバリズムの尻馬に乗ろうという焦りから日本が忘れようとしている価値ではないでしょうか。


Unchained