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ノーナ・リーヴス西寺郷太さんとFINDERS編集長米田の音楽対談連載第3回は、音楽における歌詞の重要性、ミュージシャンにおける「天才性」、そして、郷太さんの描いている音楽キャリアについて縦横無尽に語り合います。
聞き手:米田智彦 文・構成:久保田泰平 写真:有高唯之
西寺郷太(にしでらごうた)
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1973年、東京生まれ京都育ち。早稲田大学在学時に結成し、昨年メジャー・デビュー20周年を迎えたノーナ・リーヴスのシンガーにして、バンドの大半の楽曲を担当。作詞・作曲家として少年隊、SMAP、V6、KAT-TUN、岡村靖幸、中島美嘉、そのほかアイドルの作品にも数多く携わっている。音楽研究家としても知られ、少年期に体験した80年代の洋楽に詳しく、これまで数多くのライナーノーツを手掛けている。文筆家としては「新しい「マイケル・ジャクソン」の教科書」「ウィ・アー・ザ・ワールドの呪い」「プリンス論」「ジャネット・ジャクソンと80’sディーバたち」などを上梓し、ワム!を題材にした小説「噂のメロディ・メイカー」も話題となった。TV、ラジオ、雑誌の連載などでも精力的に活動し、現在インターネット番組「ぷらすと×Paravi」にレギュラー出演中。
いわゆる「歌謡曲」にとって何が大切か
西寺:少し前に、秋元康さんがプロデュースしてる「ラストアイドル」っていうオーディション番組の審査員を、1年ぐらい前に番組が始まった時にも2回ぐらい出たんですけど、久々に頼まれたんですよ。まあ、オーディションの内容はともかくとして、なんで僕がその仕事を受けてるかっていうと「好奇心」なんですよ。
それこそ80年代から現在までもちろん主流派ではない時代もありましたけど、「歌謡曲」というか「芸能界」の中心にいる秋元康という人はどんなこと考えてるんだろう? と。いわゆる「歌謡曲」にとって何が大切なのかっていうのが、改めてわかる経験でしたね。作曲が大事なのか、作詞が大事なのか、プロデューサーが大事なのか、もちろん全部大事なんだけど(笑)。ただ歌謡曲とはなにかっていうのは、日本で愛される音楽がいわゆるアメリカやイギリス発信の「洋楽」と違っているところはなにかみたいな話で。それは今、僕が考えてることのひとつでもあって。で、自分もずっと色々考えてきた結論から言うと、歌謡曲っていうのはつまり「歌える歌」っていうことだから、最も大事なのは作詞だろうなと。
米田:洋楽っぽい音でやっても、日本語で歌えば全部、歌謡曲、J-POPになってしまうというか。
西寺:そう、僕は子どもの頃から洋楽が好きで。正直、歌詞の意味がわかるものもあれば、そうでないものでも楽曲のパワーやヴォーカルの呼吸も含めて「音楽」として感動してきました。ただし日本で長く深く届けるとなったら、作詞と作曲のパワーバランスが50/50である必要があるのかなって。メジャー・デビューした時にそう思ってたんですね。正直、あんまり歌詞歌詞って聴いてなかったですし、今もある意味そうなんですけど、うるさいくらいに「作詞のほうが大事だから」ってディレクターやらプロデューサーに言われたんですよね。若い頃、当時はね、それにすごくムカついてたんですよ。
だって、僕らはビートルズでも感動するし、マイケルにも感動するし、言ってることも「うっすら」わかるし、歌詞カード見ればよりわかるし、作詞が大事だっていうことは、音楽そのものの効能を否定するのかよ!って思ったりもしてたんですよね。言葉のある音楽が生まれるよりもっと前から人類って何かを叩いたリズムで踊ったり、音そのものを楽しんだり怖がったりした長い歴史があるはずですからね。決まった歌詞を歌うなんて、人類の歴史のごく最近のことの気もしましたし。ただ20数年やってきて、特に歌謡曲の機能として日本人が感動できるものっていうことを考えた時に、言葉の力の圧倒的さに改めて気づきますね。たとえば、槇原敬之さんの書かれたSMAPの『世界にひとつだけの花』がもし別の歌詞だったとすれば、あのメロディーに別の歌詞が乗ってたらあんなに売れることもなかったと思うんですよね。まさに今年最大のヒットと言えるDA PUMPの『U.S.A.』も、カバー曲ですけど歌詞の面白さとインパクトでしょうし。
米田:「歌える」ということで言えば、海外でもケンドリック・ラマーがピューリッツァー賞を獲ったりだとか、最先端って言われてるラッパーも、いちばん重要視してるのは客といかに合唱できるかっていう。ケンドリック・ラマーと同じく今年フジロックに出演したN.E.R.Dなんかもそうでしたけど、やっぱりそういう「歌詞回帰」みたいなのは世界的にある気がしますね。
西寺:僕、2年前にポカリスエットのCMソングで『キミの夢は、僕の夢。』っていう曲の歌詞を書いたんですよ。そしたらもう、高校生や中学生が公園で踊っていたり、「子どもも歌ってます」みたいなうれしい感想をもらって。あくまでもCMソングだったんで、CDや完成品としてパッケージされてないんで、ちょっともったいない曲でしたけど。ただ、僕らはアンビヴァレントな世代なんですよね。僕らより上の人って、明らかに「洋楽のほうが偉い」っていう世代でしたけど、僕らのあとぐらいの世代の認識では日本の音楽が越えていって、洋楽が売れないっていう話ばかりになって。でも、ここ数年、ケンドリック・ラマーを筆頭にラップの世界は若い人にもストレートに浸透してるかもしれないですね。ともかくケンドリックはインタビューとかで普通にしゃべってるだけでも、声とグルーヴがとんでもないって、それこそ人種や言語を飛び越えて伝わる人ですからね。クインシー・ジョーンズのドキュメンタリーがNetflixでやってましたけど、ケンドリックの登場シーンだけは普通の会話が、え? これ完成してる新曲か? ってくらいクールで驚きましたよ。
米田:あと、R&Bとかは相変わらず売れるわけじゃないですか。歌詞とかの翻訳を読むと、「おまえと×××したい」的なエロいやつだったり、そういうしょうもない歌詞も結構多い(笑)。R&Bはベッドタイム・ミュージックというか、女の子を部屋に誘ってR&Bをかけて気分を盛り上げるみたいな機能もあって、そこは歌謡曲とR&Bの違いかなあって思ったりしますけどね。
西寺:松尾潔さんは、ベイビーフェイスとかああいうアーティストは、向こうの人にしたらみんな歌謡曲なんだって言ってますよね。僕らが「別れても好きな人」とか「時の流れに身をまかせ」とか聴いて感じる感情のような世界こそがベイビーフェイスが愛されてることを理解する真髄なのかもって。僕らはどうしてもアメリカやイギリスから届いた「しゃれた音楽」として、英語だったり黒人が歌ってるソウルを受け取ってる。インテリの音楽のようにも思ってるけど、向こうの年配の人がベイビーフェイスの歌詞を覚えて歌ってる時の気持ちっていうのは、まさに安全地帯と井上陽水さんの「夏の終わりのハーモニー」じゃないけど、日本でいうスナックとかで「染みるなあ」って思って歌ってるのとイコールなんだろうなって。
「和製プリンス」と言えば……?
米田:前に尾崎豊の話をしましたけど、僕ね、吉川晃司さんと岡村靖幸さんも大好きで。尾崎さんと吉川さんと岡村さんって、仲良し3人組だったっていうじゃないですか。とくに岡村さんは高校の頃によく聴いてて。岡村さんって、サウンドとダンスってところによく注目されますけど、歌詞もすごく独特で良いんですよね。
西寺:あ、多分、岡村さんの歌詞は皆凄いと伝わってると思いますけどね。彼は現在までどんどん若い人たちとコラボレーションしてアップデートしてて凄いですよね。岡村さんは、「和製プリンス」って昔よく言われてたけど、個人的には和製ジョン・レノンでもあり、和製ボブ・ディランの方が近いんじゃないかって僕は思ってますね。その前に、超多作のプリンスに比べて、岡村さんは寡作ですしね。とはいえリリースした作品がとんでもなく凄いんですけど。
米田:たしかに、プリンスは亡くなるまでずっとコンスタントに作ってたし、未発表のままの曲も膨大にあるんですよね。
西寺:そうなんですよ。大量に作って出すっていうことをいったら、曽我部恵一さんのほうがプリンスに近いと思います。もう、わけわかんないもの、駄作かも知れないけどとりあえず出すみたいな。本人も、自分でもよく意味わかんないって言ってましたから(笑)。そのために自分のレーベルがあってね。曽我部さんって凄いなぁ、と。ジョン・レノンがもし生きていたら、ほんとボブ・ディラン以上の多作家になって、ネットとかも上手に使いこなしていた気がしますね。
米田:プレイヤーとしては、どっちかっていうと「味」ですよね。
西寺:ボブ・ディランも岡村さんもそうですよね。そういえば、岡村さんの『ビバナミダ』っていうシングル曲は僕が歌詞を書いてて。正確に言うとある当時の国民的アイドル・グループに提供する話で、僕が作詞、岡村さんが作曲と編曲って感じの座組で。ただ歌うには難しい曲と判断されたのか、あんないい曲が返ってきちゃったんですよね。今でももったいないと思ってますけど。
米田:岡村さんの曲って、独特のクセの強さがありますもんね。
西寺:僕、作詞する時には自分で仮歌入れるんですけど、そのアイドル・グループに渡す段階で岡村さんが歌い直してくれたんですよ。それがまた不思議な感じで、どっちも知ってる人からしたら、同じ曲を僕が歌ってるとノーナに聴こえて、岡村さんが歌うとバリバリ岡村靖幸になるっていう。当たり前なんですけど(笑)。で、それがあまりにも良かったから、これ、岡村さんの曲にしたらいいのにって思ったのも事実だったんです。結局、岡村さんが残りの歌詞を書き加えられて歌ってリリースしたら、人気曲になって。タイトルは、コールドプレイでもヒット曲ありましたけど、常套句の『Viva la Vida』からとった言葉で、「ヴィヴァ・ラ・ヴィダ」から、「ヴィヴァ、涙」。僕の最初のタイトル表記は『VIVA NAMIDA』だったのを、岡村さんがカタカナ「ビバナミダ」に替えたんですよ。そっちの方が断然いいですよね。表記へのこだわりもさすがだなって。
80年代とそれ以降で違う、スター音楽家のメンタリティー
米田:そう言えばこの前、80年代までのスター音楽家と90年代以降のスター音楽家は違うって、仰ってませんでした?
西寺:これは個人的な意見なんですけど、80年代までスター音楽家って、本当にお金も持って、若くして成功して、富みや名声もあるぶん、自分でコントロールできる範囲を超えたものが覆い被さってきて悩むこともあったと思うんです。90年代中盤以降って、そこまで裕福にならないぶん、自分で自分の音楽ライフを適度にコントロールしやすいというか。
80年代のアーティストって、産業規模が大きい分、本人やバンドが持つ荒削りで未熟な部分を、レコード会社含む先輩や天才ミュージシャンがサポートしてくれて大きいビジネスになったような気がするんですね。だから、10代とか20代前半で「天才」って崇められて。でも、アーティスト個人にとっては自分が思い描いたシンプルな世界を、ピュアにそのまま表現したい欲望は消せないはずで。スタジオで手練れの裏方の人にちょいちょい手を加えられていくことが許せなくなってくる。で、そういう自分を脅かす裏方の人材を切り離し、ひとりずつ排除していくと、結果クォリティーの高いものができなくなってくると。
米田:本人の才能あってのことだけど、それを一緒に具現化してくれる人たちがいたからこそ、ってことですよね。
西寺:そう、「ここはどうすんの?」ってなった時に、やっぱり80年代から90年代の途中までは音楽が良くも悪くも「産業」だったんで、それをなんとかできちゃう技術者っていうのが大勢いたんだと思うんですよね。つまりそれは、富が集まるところにはそれなりの技術を持つ人が、名前が表に出てなくても、「仕事」になるからその役割を果たしてくれていたのかなって。
米田:ところで、郷太さんは、スランプってあったんですか?
西寺:歌詞も作曲も自分で歌うものは、ある意味苦労しますね、21年やってますしね(笑)。でも、NONA REEVESに関しては正直最新作が一番凄いことになってますよ。ただ僕は、遅咲きだと、10代の頃から思っていたんです。妙に楽観的なんで「西寺郷太」の能力、総合力を考えると、若い頃よりもこれからの40代後半、50代で、もっと素晴らしい音楽を作れたり、歌えたりするんじゃないかっていうふうには思ってます(笑)。
米田:それってすごく良い志ですよね。
西寺:なんか、僕がやってることって分かりやすそうで分かりづらいというか。やってること自体はポップな音楽だと思いますけど、ちょっとした骨董品じゃないですけど、形は普通の器だけれど気がつく人は「あれ?これ?」みたいな部分があると思ってて。周囲の感覚も熟成した瞬間に、ようやく「こいつすげえかも」って思ってもらえるものなのかなって。まあ、常に全力で走ってきたつもりですけど、冷静に今、自分の持ってるマシンガンの弾を数えたとしたら、「あれ? まだ結構残ってる」って気がするんですよね(笑)。
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