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なぜ80年代リバイバルは続くのか? 音楽家の打席と打率、フリッパーズ・ギターの魅力と秋元康の「プロデュース力」【連載】西寺郷太のPop’n Soulを探して(4)
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  • 2018.12.20
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なぜ80年代リバイバルは続くのか? 音楽家の打席と打率、フリッパーズ・ギターの魅力と秋元康の「プロデュース力」【連載】西寺郷太のPop’n Soulを探して(4)

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ミュージシャン、西寺郷太さんとFINDERS編集長米田の音楽をめぐる対談連載、第4回は、80’sリバイバルの話題から始まり、90年代、渋谷系と言われた音楽シーンの頂点に立っていた元フリッパーズ・ギターの二人、小山田圭吾さんと小沢健二さんについて、さらにアイドル界で長らく頂点に立つAKB48について語り合います。

聞き手:米田智彦 文・構成:久保田泰平 写真:有高唯之

西寺郷太(にしでらごうた)

1973年、東京生まれ京都育ち。早稲田大学在学時に結成し、昨年メジャー・デビュー20周年を迎えたノーナ・リーヴスのシンガーにして、バンドの大半の楽曲を担当。作詞・作曲家として少年隊、SMAP、V6、KAT-TUN、岡村靖幸、中島美嘉、そのほかアイドルの作品にも数多く携わっている。音楽研究家としても知られ、少年期に体験した80年代の洋楽に詳しく、これまで数多くのライナーノーツを手掛けている。文筆家としては「新しい「マイケル・ジャクソン」の教科書」「ウィ・アー・ザ・ワールドの呪い」「プリンス論」「ジャネット・ジャクソンと80’sディーバたち」などを上梓し、ワム!を題材にした小説「噂のメロディ・メイカー」も話題となった。TV、ラジオ、雑誌の連載などでも精力的に活動し、現在インターネット番組「ぷらすと×Paravi」にレギュラー出演中。

NONA REEVES

80年代の音楽は味噌汁みたいなもの

米田:ところで、80’sリバイバルみたいなものってずっと続いてるじゃないですか。日本だけじゃなく海外でも。なんでこんなに賞味期限が長いのかなあって思うんですよ。

西寺:これは最近、ワーナーの人から聞いたんですけど、AORのCDってずっとコンスタントに売れているそうなんですね。アダルト・オリエンテッド・ロック、って言い方は日本だけだという話もありますけど、比較的ソフトでグルーヴィーで複雑なコードを使った「大人」に向けた音楽ジャンルですね。で、AORとか80’sのまあまあ知られてるぐらいの洋楽アーティストって、動かしやすいというか、こんな企画があるんでって頼んだら大体やってくれるからブームが続くんだって言ってましたね。たとえば、ドーム・クラスでやるような、マドンナとかプリンスとかマイケル・ジャクソンぐらいの人気になると海外のスタッフとの権利関係が難しくて日本のレコード会社も動かせないんですね。世界中から独自の企画が持ち込まれて、どちらにしても一定数売れるから「全部ダメ」って感じにしてて。そこにはメガ・スターであっても意外に信頼できるスタッフが少ない、っていう事情もあると思うんです。日本みたいに「事務所」っていう概念があまりなくて。有能な弁護士をマネージャーとしてアーティスト自身が雇うっていうケースが多いんですけど、割と掛け持ちしてたりするんですね。なので、ともかく高飛車というか。どう考えてもやった方がいいプロモーション案や、日本語の対訳や解説すら「つけないで」っていうケースも最近増えていて。だけど、たとえばボビー・コールドウェルくらいの適度にコアなファンとライトなファンが混在しているミュージシャンの場合、日本で根強い人気があるからイベントで歌って欲しいんです、って頼んだら、結構小刻みに動いてくれるみたいなんですよ。ボビー・コールドウェルは、あくまでも例えですが。そういう小刻みな企画が手榴弾になって常に爆発し続けてるっていうのもあるんじゃないですかね。日本でも海外でも。

米田:なるほど。あとはその、80’sとひとくちに言っても、AORとかシティポップみたいなものだけじゃなく、ユーロ・ビート的なものだったりテクノ・ポップだったり、ジャンル的にもいろいろあるし、たとえば、82年の音楽と87年の音楽では同じ80年代でもニュアンスが変わってくるじゃないですか。僕らが子ども時代を過ごした80年代って本当に音楽的には豊作だったんですよね。

西寺:僕にとってはね、80年代の音楽は味噌汁みたいなもんで、「なんで味噌汁好きなんですか?」って言われても、いやいやちっちゃい頃から飲んでたからしょうがないっていうぐらいの理由なんですよ(笑)。だから他の年代より優れているとか、あの時代は良かったみたいに思っているわけじゃなくて。自分がそういう時代に子どもだったし、すべてが新鮮だったなぁ、って。そういう気持ちで。あと、92年に上京してきて、90年代のプロになった97年くらいまでは、本当に80年代の音楽や、良しとされていたセンス全般が忌み嫌われてたんですよね(笑)。

米田:あーそれ凄くわかります。90年代になると、80年代の音楽や音質は非常にダサいものととらわれていましたよね。

西寺:だから、僕は意地になっていた部分もあります。マイケルも酷い扱いでしたし。でも色々時代によって状況が変わってきて、ここ10年以上は80’sの音楽を考えることが仕事みたくなってるから。マイケルが亡くなった2009年から2年間くらい本を2冊執筆したり、マイケルとジャクソンズのライナーノーツをすべて書いたり、講演したり、テレビに出たり、すごくメディアに呼ばれたんです。その時は、全身全霊マイケル尽くし過ぎて。でも、プライベートでは、ボブ・ディランばっかり聴いてました(笑)。そもそも「80’s信仰」が根っこにあるにはあるんですが、たとえばスターシップの「シスコはロック・シティ」みたいなね、ああいうレコード会社によって「計算され尽くして生まれたヒット曲」ってのはもともと好みじゃないんです。あくまでも好みの話ですよ。僕が好きなのは、マイケルとかプリンスが持つヒットはしているけれど、本質的には「歪(いびつ)」な楽曲なんですよね。作りに「合議制的妥協」が見えないのが好きなんです。プリンスの「ビートに抱かれて」は、ベースがないとか。なんでないの?って。普通の会議室で生まれた感性ではなくて、ひとりの天才が勢いに乗って作っためちゃくちゃストレンジな曲が結果的に1984年全米で一番売れたシングルになった、っていう部分が痛快で。

マイケルにしたって、なんであんなに「アオ~ウ!」とか「ダッ!!」とかいうのかわからないじゃないですか(笑)。アルバム『BAD』なんてめちゃくちゃ変ですしね。オリジナルな感性の塊というか。当時の音楽評論家も軒並み低評価でしたし。わけわかんないレベルのものをワガママ通して作って売りまくって、非難と冷笑されまくって、その上30年経って「やっぱり凄いなぁ」と、そういう世界が好きなんですよね。なので、「ベストヒット’80s」みたいな、80年代のナンバーワン・ヒット曲を集めた洋楽のコンピが出ても、並んでる曲添加物まみれでほぼ好きじゃないんですよ(笑)。むしろ、アルバムから4枚目くらいのシングルで切られて、一番味わいがあったりアンニュイな曲が好きですね。ワム!の『メイク・イット・ビッグ』だったら「エヴリシング・シー・ウォンツ」、フリートウッド・マックの『タンゴ・イン・ザ・ナイト』は「リトル・ライズ」とか。どうしても一アーティストで一曲の代表曲を入れようとすると作りのド派手な曲が選ばれちゃうんですけどね。あと、なぜ80’sのブームが続くのかっていう意味でいうと、80年代も初期と中期と後期では全然違うから、そういうのがぐるぐる回ってる可能性もありますよね。

米田:で、やはりなんだかんだで僕ら団塊ジュニアってMTV直撃世代じゃないですか。小学校の高学年とかに日本でもMTVの放送が日本でも始まって、それこそニューロマンティックとか、マイケル、マドンナ、シンディー・ローパー…そこでたくさんの洋楽と出会っていった世代ですけど、そう、同時にテレビで「ザ・ベストテン」も観て、アイドルや歌謡曲にも夢中になってましたよね。

西寺:ですよね。MTVも「ザ・ベストテン」も、めっちゃ観てましたよ。

フリッパーズ・ギターを知らなかったがゆえの幸運

米田:洋楽と歌謡曲を両立させながら音楽体験を重ねていくっていうのが、僕らの小学校から中学校ぐらいの流れだったと思うんです。それがちょうど80年代のど真ん中で。

西寺:それこそジャニーズみたいなアイドルの音楽に親しんでた一方で、洋楽も聴いてて。その中間に松任谷由実さんとかオフコースとか、まあ、ほとんどテレビの歌番組には出ない人たちの音楽があってっていう、3本ラインがあったような気がしますね。その後になると、槇原敬之さんとかKANさんとか、シンガーソングライターの時代が来て。歌謡曲がJ-POPって呼ばれる時代になって、それまで歌謡曲の世界を支えていた職業作家さんとアイドルで作った華やかな音楽みたいものが減っていくじゃないですか。

シンガー・ソングライター勢に浸食されて、松本隆さんたち作家の作詞が減るみたいな。高校生が89年で平成元年、そこから91年まではいわゆるバンド・ブームの後半だったのかな?BOØWY、BUCK-TICK、ユニコーン、X JAPANみたいな。で、92年に東京に出てきてインディーでCDを作り始める’96年くらいまでの時期の日本の音楽って、僕はほとんど聴いてなかったんです。

米田:僕もそうですよ。90年代の前半はビーイング全盛時代でしたけど、まったく通ってなくて。でも、そういう中で衝撃だったのがフリッパーズ・ギターだったんですよね。洋楽好きが聴ける日本のバンドでもあったし、なんかキラキラしていたんですよ。僕が予備校生だった時、1991年に『ヘッド博士の世界塔』がリリースされるんですけど、あれってプライマル・スクリームの『Screamadelica』の影響を受けたり、当時出始めたサンプリングの手法をリアルタイムでやっていたので、こんなバンドが日本に、しかもメジャーで、日本語でやってるんだっていうのに衝撃を受けましたね。

西寺:フリッパーズ・ギターの小沢健二さん、小山田圭吾さんのお2人には何度かお会いしたこともあるし、めちゃくちゃ尊敬してるんですけど……この話はよくするんですけど、僕はフリッパーズ・ギターをリアルタイムで知らなかったんですよね。あの時代って、今と違ってインターネットもないし、多くの情報を一人で得られる感じでもないし、自分がいた社会の中での影響が凄くデカいというか、たとえば大学のサークルの先輩から「これイイぞ」って言われて聴くとか。

米田:情報源といえば、あとはやっぱり音楽雑誌でしたよね。『ロッキン・オン』とか『クロスビート』とか。

西寺:そうなんですけど、雑誌はすぐに音が届いて来ないんですよ。でまあ、僕が下北沢のClub Que(ライブハウス)とかに出入りするようになったのが95年4月で。フリッパーズ・ギターはもちろんもう解散していて、小沢健二さんはセカンドの『LIFE』をリリースして、その上、筒美京平さんとタッグを組んだ「強い気持ち・強い愛」が出たのがその年の2月ですから。もう世の中に小沢健二さんのパワーは充満してたんですけど、その頃に吉田仁さんとお話する機会があって。周りのミュージシャンから「フリッパーズ・ギターのプロデューサーだった吉田さんだよ」って紹介してもらったので、そこで「あっ、名前はよく聞くんで、すぐに聴いてみます!」って。周りから「郷太、おまえフリッパーズ・ギター知らないのか?」って笑われましたけど(笑)。

そんな感じだったんですよ、ホントに。大学生の頃は、普通にマーヴィン・ゲイとか、デヴィッド・ボウイとか、ビートルズとか、アイズレー・ブラザーズ、もちろんプリンスとか、あとボビー・ブラウンとかジャミロクワイとかね、あとテレンス・トレント・ダービーとかレニー・クラヴィッツ。屋敷豪太さんのソロも聴きまくりでしたね。一年生の夏はフランスに留学してたんで、アシッド・ジャズに夢中になって。ヤング・ディサイプルズとか、オマーとか。だから、いわゆる「渋谷系」は全然知らなかったです。日本の音楽状況を知らずに、自分の世界で生きていたというか。それが95年に下北沢のライブハウスに通い始めて、大学とは別の仲間が急に増えて。ブラーやオアシスや、その兄貴分のストーン・ローゼズとか、あのあたりにハマるのとほぼ同時に吉田仁さんに出会って。そこから案の定ハマって、フリッパーズ・ギターの全アルバムと、コーネリアスのファーストと小沢さんのファーストとセカンドの『LIFE』をすぐに揃えて聴きまくりました。

ただ、96年12月には僕もNONA REEVESの初めてのCD『サイドカー』を出してるんですけど、そういう意味で影響を受けたとは言えませんね。なんと言っても、1年ちょっとしか聴いてないですし。めちゃニワカでした(笑)。ただむしろ、遅れて聴いたのが結果良かったのかも知れないですね。リアルタイムで知ってたら、もっと影響されまくってたんじゃないかと思いますよ。

米田:小沢さん、小山田さんのミュージシャンに対する影響力は当時は本当に凄かったですからね。ミスチルやサニーデイ・サービスだって、最初はフリッパーズ・ギターを明らかに意識したみたいな感じで売り出してましたよね。

西寺:曽我部さんは良い意味で影響されやすい人というか、あの声と軸があるから何にでもなれる強さ。ケンドリック・ラマーやフランク・オーシャンなんかの影響を受けて、今回ラップ・アルバム『ヘブン』作りましたよね。曽我部さんは、その時いちばん好きなものにメタモルフォーゼする、グダグダ考えないで、自分のレーベルで瞬時に、っていう部分が本当にかっこいいと思いますよ。

米田:その時に聴いていたものが作品に出るという。だから、多作でもあるんでしょうね。

西寺:そう、野球に喩えると、たまに代打で打席に入ってホームラン打つのが小沢健二さんで、毎回試合に出てコンスタントに塁に出てるのが曽我部さん。曽我部さんは休まないし、そこを僕はめちゃくちゃ尊敬してます。もしチームの監督だったとすれば確実に試合に出てくれる選手のほうが絶対ありがたいよね、っていう。僕も、ずっと色んな打席に休まず立つ多作家なんで、その辺はプライド持ってますね。

米田:ヒットでもフォアボールでも、出塁する感じですよね。

西寺:ですです(笑)。もちろん、小沢さん、小山田さんは歴史的な天才だと思うし、たとえば誰かの結婚パーティとか道とかでたまに会うとその日一日うれしいし(笑)。僕の日常で、ミュージシャンや芸能人に会う機会は多いですけど、20年以上経っても、元フリッパーズの2人となにかしらの遭遇があると、こっちもウキウキする。それは否めないしズルいなぁって(笑)。

米田:まさに「痛快ウキウキ通り」(笑)。

西寺:(笑)。僕、「WOWOWぷらすと」っていう番組でMCをやってるんですけど、ゲストに「人生の9枚」みたいなのを選んでもらうコーナーがあるんですよ。たぶんね、今までで一番多かったのが小沢さんの『LIFE』だと思いますよ。凄く若いバンドでも混ぜ込んでくるっていうぐらい、その影響力は日本の音楽シーンでは、ビートルズやマイケルよりも全然あるっていう感じがしますよね。

米田:あの『LIFE』というアルバムが大ヒットしたっていうのは、日本の音楽史において大きな足跡ですよ。誰もが歌いたくなるメロディーラインや歌詞の素晴らしさ、アレンジや過去の音楽からのオマージュ…。他の追随を許さない圧倒的なアルバムでしたね。

西寺:ですよね。で、僕がリアルタイムでフリッパーズ・ギターを知らなかったっていう話はよくするんですけど、好きになって、この人たちはスゲぇと思ってたのが96、7年で、ちょうど自分も日本語の歌詞を書かなきゃいけないと思った時期なんですね。それまでずっと英詞でやってて、ワーナーからメジャー・デビューしたけどたいして売れなくてどうしようって思ってた頃で、その時に研究してたのが小沢さんの歌詞なんです。ちょっと前まで小沢さんのこと知らなかったですって言ってたのが、めっちゃ心酔しちゃって。

米田:さっきの「人生の9枚」じゃないですけど、郷太さんのように、リアルタイムで聴いてなくても大きな影響力を及ぼす音楽を作っていたっていうことですよね、小沢健二さんは。

西寺:そういうことですよね。で、ノーナ・リーヴスでコーラスやってくれてる真城めぐみさんが、小沢さんやオリジナル・ラブとも一緒にやっていた人だから、真城さんにコーラスを頼むようになってから「小沢さんってどうやって歌詞書いてたんですかね?」って訊いてみたんですよ。そしたら、「『LIFE』の時はすごく悩んでて、(レコーディングの時は)ずっと小沢くんの歌詞待ちだったもん」って。

そうなんだあと思って、入ってたスタジオが桜新町のスタジオ・ジャイヴだったこととか、さらにいろいろ訊いてたら、「246沿いにジョリーパスタあるでしょ。ジャイヴはあの店の裏なのよ。小沢くん、あそこでずっと歌詞書いてたのよ」って。その頃、僕は近所に住んでいたんで、うわっ、めっちゃ近いやん!と思って、歌詞に詰まった時に何度かジョリーパスタ行きましたから(笑)。知らんかったと言いつつ、どんだけ影響受けてんねん!って(笑)。

秋元康が導き出したアイドル作りにおける正解例

米田:(笑)。小沢さんは、当時、正当なミュージシャンでもあったんですが、王子様風な佇まいを自ら演出していて、ある意味アイドル的な存在でもありましたからね……というところで、ちょっと今の歌謡界というか、アイドルの話をしたいんですけど。

西寺:ほう。

米田:ちょっと前の話なんですけど、2011年に公開されていたAKB48のドキュメンタリー映画の中で、東日本大震災の被災地に慰問に行くというシーンがあって。で、AKB48がやって来た瞬間に子どもたちがうわっと歓喜するんですけど、それがね、音楽映画で今まで観たことないっていうぐらいの興奮状態で。これがポップスターかっていうのを、そこで思い知ったんですよね。

西寺:秋元康さんって、まさに80年代、おニャン子クラブの時代から、AKB48から、いろんな坂道グループ含めてさんざんアイドルやってるじゃないですか。で、僕が思うに秋元さんは、25歳ぐらいまでの人間は良い意味で「コントロール」しようとするけど、それ以上は「見離す」んですよね。例えば「恋愛禁止」に関しても言葉だけ聞くと厳しすぎるように見えますけど、たぶん、女の子の「アイドル」としての賞味期限を15歳から25歳ぐらいに設定してて、25、6ぐらいになってからはどうぞご自由にってするのが、秋元さんのスタイルだと思うんです。それって冷たいように見えてめっちゃ優しくて、30過ぎてまで女の子を縛りつけとくんじゃなくて、25ぐらいまではこのルールに従ってやってください、そのあとあなたたちが個人で彼氏がいたって、結婚したって、ファンやスタッフを納得させて仕事して生きていけるなら、どうぞうどうぞっていう。

米田:たしかに、25歳過ぎたあたりでグループを卒業する子は多いような気がしますし、卒業してからとくに秋元さんがフォローしないっていうのも、良い意味で優しさなんでしょうね。歌以外のドラマや映画に出て役者をやったり。

西寺:でまあ、僕が前回「ラストアイドル」の審査員をやったって言ったじゃないですか。秋元康さんってどんなこと考えてるんだろう?っていう「好奇心」でね。番組の中で受けたインタビューでも、今までいっぱいアイドルを作って来た秋元さんが、「ラスト」ということの意味を探りたい、そこにすごく好奇心があります、って言ったんですけど、まさにそうなんですよ。あれだけ人の心を動かして、さっき米田さんも言ったように、被災地の子どもたちがものすごく歓喜するグループを作る人って、絶対何かあるやんって。

米田:きっといつも何か戦略を考えてるはずですよね。秋元さんの頭の中を覗いてみたいですよ(笑)。

西寺:で、番組も、7人のメンバーを勝ち抜きのオーディションで決めていくっていう、最初はそれだけのものかと思っていたんですけど、秋元さんが行き当たりばったりでいろいろアイデアを加えていって、中森明夫さんとか吉田豪さんとかっていう審査員に賽を委ねるという。

米田:やっていくうちに閃くんでしょうね。ゴール地点をあえて考えてないというか。

西寺:なんか、良い意味で「集合知」というか。Wikipediaじゃないですけど、皆がむちゃくちゃにアップデートして、どんどん増えていって、あんまりおかしいのは他の誰かが指摘して修正して、みたいなことを繰り返すなかで正解が出てくる、そのプロセス自体を楽しんでる感じがしましたね。21世紀になって、いわゆる「アイドル」の寿命が思った以上に伸びて、人間自体の寿命が伸びたってことだとは思うんですが。その中で、どんどん「アイドル」の基準や求められることも変わるというか。やっぱり、ちやほやされたりスポットライトを浴びるけれど、当たり前だけどいいことばかりじゃない。

ドライというか非情な世の中だっていうことで。僕の立場からすれば、せっかく美味しい果物がどんどん腐っていくのも見なきゃいけない場面も多いんで、それは男性アイドルも含めた話なんですが。悲しいな、と思うこともありますね、正直。もっとこういうことしてあげられるのになぁ、とか。選別して、育てて、みたいなのももちろん素晴らしいんですけど、今は、ネットもあるし、もらったものを全部出しますっていう感じのシステムもいいなぁ、と。キズがあったり形がヘンだったりする果物でも新鮮で安ければ買ってくれる人がいる、みたいな。さっきの曽我部さんの打席の話と似てるんですが。割と秋元さんは、色々やり尽くしてこられたからか、お客さんにすべての判断を委ねている感じがして、勉強になりましたね。


次回公開は1月20日頃になります。

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