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映画を観て感じたこと、思ったことは、あなただけのものであって、ぜったいに手放してはいけない。作り手が何を言おうと、評論家が何を書こうと、友人と意見が合わなくても、手放してはいけない。それがあなたの映画だから。
映画には実体がない。映画は1秒24コマの静止画が観せる錯覚であり、見た者それぞれのなかにしか存在しない。客観的な、誰がいつ見ても同じ作品というものは存在しない。映画をめぐって人と意見が食い違うのはあたりまえだし、同じ映画を二度見れば、自分の意見だって変化する。
私がしていることは、自分が感じたこと、思ったことを、できるだけおもしろく説得力のあるかたちで書くこと。私の映画とあなたの映画は違う。だからこそ、なぜ違うのかを一緒に考えることが楽しい。
添野知生(そえの・ちせ)
映画評論家
1962年東京生まれ。弘前大学人文学部卒。WOWOW映画部、SFオンライン(So-net)編集を経てフリー。SFマガジン(早川書房)、映画秘宝(洋泉社)で連載中。BS朝日「japanぐる~ヴ」に出演中。
目の醒めるような日本映画『きみの鳥はうたえる』
目の醒めるような日本映画に出会った。『きみの鳥はうたえる』は、柄本佑、石橋静河、染谷将太の3人主演による青春映画。原作は佐藤泰志の短編小説で、他の佐藤作品の映画化と同じく、現代の函館市が舞台になっている。
夏の始まりの函館。書店員アルバイトの「僕」(柄本佑)は、同僚の佐知子(石橋静河)と付き合い始め、アパートの同居人で友人の静雄(染谷将太)と3人で、一緒に遊ぶようになる。
なによりも衝撃を受けたのは、すべての人物の自然なたたずまい。演技をしているのではなく、まるでほんものの人間がただそこに存在しているかのような、肩の力の抜けたそれらしさで、こんな日本映画が作れるのかと驚かされた。冒頭の、夜の街での佐知子との会話の場面、部屋に戻ってきた静雄との会話の場面、どちらも微妙な感情の綾が込められていて、しっかり見ていないと振り落とされてしまうのだが、しばらくすると、そこに不自然さがないことに気づいてハッとする。するっと映画のなかに入り込んでしまう。
数年前から、日本映画の演技システム、セリフに違和感を覚えることが増えた。大げさな言葉、身ぶり、大きなリアクションと間、一人でいるときの過剰な感情表現、独り言、現実世界では見ることのない言い回し。わかりやすさは重要だし、ミステリ、コメディ、メロドラマといったジャンル映画ではこれらの特徴も有効に働くのだが、純文学的な(ジャンル属性の薄い)現代劇に持ち込まれると、途端に場面が凍りついてしまう。
製作国によって映画を分けることなどしたくないが、これがアメリカの、イギリスの、フランスの同種の映画だったら、この演技の演出はしないのではないか、このセリフの脚本は書かないのではないかと、どうしても比べてしまう。
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わかりにくさとループ感覚
『きみの鳥はうたえる』が自然な演技を実現できている理由は二つある。ひとつには、わかりやすさを避けているから。もうひとつはループ感覚だ。
ここでは演技もセリフもわかりやすさを目指していない。登場人物は表情を読ませないし、内面を語らない。三人の主演俳優は、それぞれすばらしいやり方で表情のあいまいさを保っている。印象的なモノローグが数回はさみこまれるが、それも内面の独白というよりは、謎を深める方向に作用している。
佐藤泰志だけでなく純文学的な小説の多くがそうであるように、人間のわかりにくさは作品の大きな魅力になる。謎は映画を前に進めるための原動力になる。物語ること自体に謎と謎解きが含まれ、それが映画のおもしろさになっている。
ここではすべての登場人物が、見た目とは異なっている。誠実ではない男、恋多き女、意志の弱い男、滑稽な青年、卑怯な大人。これらの人物像はすべて覆される。それでいて人物設定にあいまいなところはなく、すべてが最初から提示されていたことがわかる。最後には、「恋愛が成就する瞬間を、このような形で映画に写し取ることができるとは!」という驚嘆だけが残る。
他方、大きな見せ場であるクラブとプールバーの場面、また目的もなく道を歩く場面などの驚くほどの自然さは、デジタル撮影の時代だからこそ可能になったといえる。余裕をもって人物を場面になじませ、じっくりと時間をかけて撮影し、長尺の撮影データのなかから、良いところだけを切り出す。フィルム撮影で同じことをしようとすれば、費用も手間もはねあがる。クラブの場面のリアリティ、出演しているラッパーOMSBの圧巻のパフォーマンスもこの手法だからこそ撮り得たといえる。
監督の三宅唱はデジタル世代と言える。長篇作品のうち『Playback』(2012)だけはフィルム仕上げだが、撮影はデジタルだという(ロール交換のマークが出ることで同じ巻の上映を疑わせる凝った仕掛けになっている)。
三宅監督はおもにヒップホップを聴いて育ったといい、今回の新作でも劇中にも登場するDJ/トラックメイカーのHi'Specがスコア(劇判音楽)を手がけている。じつのところ、世界の映画音楽は現在、本作のようなループ化されたものとそうでないものに二分されている。
大別すれば、鑑賞用の音楽は、始めと終わりがある直線的なもので、労働やダンスと結びついた音楽は、くりかえしのループのなかで好きなところで始まって好きなところで終わる。ループ化された劇判音楽の作曲者は、ポーティスヘッドのジェフ・バロウ、レッド・ホット・チリ・ペッパーズのクリフ・マルティネス、ポップ・ウィル・イート・イットセルフのクリント・マンセル、レディオヘッドのジョニー・グリーンウッド、ナイン・インチ・ネイルズのトレント・レズナーなど、バンド出身者やトラックメイカーが多いのが特徴だろう。長尺の撮影データから好きなところを使う三宅監督の手法には、ループ化された音楽と同じ感覚がある。
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三宅唱監督の驚異の到達点
三宅唱監督の長篇劇映画として本作は、『やくたたず』(2010)、『Playback』(2012)、『密使と番人』(2017)に続く4作目。三宅監督は全作で脚本・編集を兼ね、2作目以降は一貫して撮影の四宮秀俊と組んでいる。札幌出身の監督が、冬の札幌を舞台にセキュリティ工事の会社で働き始めた高校三年生の男子三人組を描いた『やくたたず』、東京で活躍する中年のスター男優が、高校生になって郷里の水戸市に帰り、生者と死者の両方に出会う幻想譚『Playback』の2本はモノクロ映画。実験的な時代劇『密使と番人』が初のカラー映画となり、そこで炭焼きの女房を好演した石橋静河を、いよいよ主演に起用したのが『きみの鳥はうたえる』ということになる。
その石橋静河がとにかくすばらしい。自然な演技、ベテラン二人を相手にした存在感、カメラに愛された表情の輝き、すべてに驚かされる。髪をあげ、うなじを見せるカットがくりかえされるのも、的確に魅力を捉えている。原作にない「ちょうどいいって感じ」のセリフにノックアウトされる観客も多いだろう。これまで恋愛もセックスも描いたことがない三宅監督がいきなり見せた驚異の到達点といえる。
ジャド・アパトーやリチャード・リンクレイターを意識しているという三宅監督だが、技術的な特長も明確に見て取れる。『密使と番人』で見せた自然光や逆光での大胆な撮影を踏まえたのではないかと思うが、夜明けの街と雨に濡れた道路、セックスシーンでベッドにさしこむ夕陽、夜の埠頭を歩き回る場面、らせん状のスロープを歩いて行く佐知子と静雄に、木漏れ日がちらちらと顔に影を落とす場面など、美しく印象的な瞬間がたくさんある。
さらに重要なのは、シーンのつなぎ、カットのつなぎにサスペンスがあること。シーンとシーンの間に何があったのか、時間はどのぐらい経っているのか、見る者に必ず考えさせる。会話の途中で話者を画面外に置いて、聴いている人物のカットにつないだり、リアクションのカットをわざと見せないこともある。監督がつねに編集も兼ねているのは、こうした仕掛けも演出の一部と考えているからだろう。
カラオケ店で佐知子が「オリビアを聴きながら」を歌う場面で、「出逢った頃は/こんな日が/来るとは思わずにいた」のところを、声を出さずに口ずさむ静雄を捉えたカットで見せたのがすばらしかった。
また、主演の三人だけでなく、他の出演者もいい。店長役は萩原聖人のおかげで血の通った中年男性になったし、『Playback』でも重要な役を演じた渡辺真起子の母親役も原作にはないもの。足立智充と柴田貴哉は三宅監督の4作すべてに出演している常連俳優だが、ここではとくにきまじめな書店員を演じた足立智充の個性が光っている。
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佐藤泰志シリーズのベスト作
本作はまた、函館の映画館《函館シネマアイリス》の製作で進められてきた、函館出身の作家・佐藤泰志の小説を映画化するシリーズの第4作でもある。『海炭市叙景』(2010)、『そこのみにて光輝く』(2014)、『オーバー・フェンス』(2016)、そして『きみの鳥はうたえる』(2018)とハイレベルの作品が並んだが、唯一のフィルム撮影作品であり、短篇集から5篇を取り上げた大作『海炭市叙景』(2010)を別格とすれば、私にはこの『きみの鳥はうたえる』がベスト作に思える。
他の3作にあって『きみの鳥はうたえる』にないものがある。それは函館らしい場所、観光スポットのカットで、坂も山の斜面も出てこないし、洋館も教会も写らない。それどころか、冒頭の映画館も、主要舞台となる書店もアパートも、正面や入口のカットがなく、全景がわからない。路面電車に乗っても車内しか見せない。徹底して人物に寄り添い、ご当地映画になることを避けようとする、この禁欲的な個性もまた監督のものなのだろう。
男・女・男の三人組は映画では古くからあるテーマで、日本でとくに人気があるのは、『突然炎のごとく』(1962)、『冒険者たち』(1967)、『明日に向って撃て!』(1969)、『夕なぎ』(1972)といった60~70年代の洋画だろう。1981年発表の原作小説のなかにも、くりかえし言及される映画として『フロント・ページ』(1974)があり、これも男・女・男の三角関係の映画だったことを考えると、そもそも小説のイメージの源泉が、この時代の映画だった可能性がある。
それを映画に戻してやるにあたって、脚色がむずかしかったのは、東京から函館へという舞台の移動よりも、1980年ごろから現代へという、40年近い時間移動のほうだったに違いない。なかでもスマートホンのある時代は悩ましかろうと思いきや、スマホ操作の描写から直接、次のアクションにつながる場面が多く、あっさりと取り込んでいるのが頼もしい。セックスの場面にはコンドームを探す描写があり、家庭内暴力の描写は「楽しい話じゃないから」とカットされているあたりも、現代の健全な知性を感じさせる。
結末の変更については、さりげなくセリフで拾われているが、私は原作を読む前に映画を観られて幸運だった。映画を見たらどうせ原作を読みたくなるのだから、まだ原作を読んでいない人には、先に映画を観ることを勧めたい。
『きみの鳥はうたえる』という題名は、英題も出るのですぐにビートルズの曲名とわかるかもしれないが、原作にあったビートルズのレコードと静雄のエピソードがなくなったので、意味がわかりずらくなってしまった。「アンド・ユア・バード・キャン・シング」はアルバム『リボルバー』のB面収録曲で、歌詞のなかの「きみと僕」に小説のなかの「僕と静雄」を重ねて聴くことができるかもしれない。そして、映画の終盤に鳥を見あげるカットが入ったことで、奇跡的に新しい意味を獲得した。
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9月1日(土)より新宿武蔵野館、渋谷ユーロスペースほかロードショー!以降全国順次公開 (8月25日(土)より函館シネマアイリス先行公開)