CULTURE | 2019/03/26

誰も記さない日本人の姿を、たった一人で記録し続けること。『月刊ドライブイン』ができるまで|橋本倫史(ライター)

「ドライブイン」という言葉を聞いて、その業態をイメージできる人はいまどれだけ残っているだろうか。主に地方・郊外の街道沿い...

SHARE

  • twitter
  • facebook
  • はてな
  • line

「ドライブイン」という言葉を聞いて、その業態をイメージできる人はいまどれだけ残っているだろうか。主に地方・郊外の街道沿いに存在し、その名の通り駐車場完備なのでトラック運転手や地元ドライバーの食事処、休憩所として機能してきた場所だ。

このドライブインだけをテーマに、北海道から沖縄まで全国200軒以上を訪れ、毎回2つの取材記が収録されたミニコミ『月刊ドライブイン』全12巻を刊行したのがライターの橋本倫史氏である。今年1月にはその全内容を収録し、加筆・再編集を施した『ドライブイン探訪』(筑摩書房)として単行本が発売された。

この本は、単にドライブインの名前やメニューの一覧などが図鑑的に載っているのではなく、同氏が取材を希望するドライブインに三度足を運び、実際に食事をして店主と親しくなり、そうして初めて聞くことができた「(ある時期の、ある場所で過ごした)個人の歴史」が記された、ルポルタージュとエッセイの中間のような内容となっている。

橋本氏は『SPA!』『en-taxi』など商業誌でのライター経験もあるが、自分名義の本はほぼすべてミニコミ、つまり自費出版で刊行してきた。雑誌や新聞などの連載として載っていてもまったく違和感のないクオリティだが、なぜ個人で、なぜ紙で、そしてなぜドライブインを扱ったのかをうかがった。

※この取材は2018年4月30日に行われたものです

取材・文・写真:神保勇揮

「今のうちに取材だけはしておかないと本当にわからなくなる」

―― 『月刊ドライブイン』はすごく興味深いコンセプトのリトルプレスだと感じたんですが、どんな構想から始まったんでしょうか?

橋本:ドライブインの存在が気になり始めたのは、2009年ですね。当時、原付でZAZEN BOYSの全国各地のライブを追い掛けていたんですけど、2009年の春に九州を巡るツアーがあって。

その時に、大阪まで国道1号線をずっと行って、大阪から2泊3日ぐらいのフェリーで鹿児島まで行って、そこから宮崎、熊本、大分、長崎みたいな日程だったと思いますけど、鹿児島から宮崎に移動する途中ですごく変な建物を見つけたんです。原付だからすぐにピッと停められるので、近付いてみたら「ドライブイン」と書いてある。その時は営業していなかったんですが、そこから東京に帰ってくるまでの過程で、ずっと観察しながら走っていたらかなりの数のドライブインがあったんですよ。

―― 自分の旅行経験を思い返しましたが、「道路沿いの飲食店があるな」という記憶はあっても、「あそこにドライブインがあったな」という認識はなかったかもしれません。

『ドライブイン探訪』より

橋本:「こんなにあるのは何なんだろう?」と思って、当時、僕の検索の仕方が悪かったのかもしれないですけど、こういうものを記録している人がいると思って調べてみたらあまり出てこなかったんです。

それからちょっとずつ気になり始めて、2011年に「快快-FAIFAI-(ファイファイ)」という演劇カンパニーの舞台美術家・佐々木文美さんがミニバンを持っていて、「1カ月ぐらい使わないから、取材で使いたいなら使っていいよ」ということになって。後ろに布団を敷いて寝るみたいなかたちで旅に出て、ドライブインを見つけたら止まって入って、コーヒー1杯でもいいから飲んで、次にまた見つけたら止まる、みたいなことをずっとやっていたんです。

そんなことをしていたら『TVブロス』の編集者であるおぐらりゅうじさんという方が興味を持ってくれて。

―― 速水健朗さんとcakesで『すべてのニュースは賞味期限切れである』という対談連載をしていた方ですね。

橋本:その人が担当で小特集を組んでくれて、「このテーマに興味を持ってくれる人がいるんだな」と思って、本にまとめたいと思っていたんですけど、本が売れない時代になかなかこういう企画は難しいだろうなということで、実際にどういうかたちにするかということが定まらないままずっと過ごしていて。でも、転機が2017年の正月にあったんです。お正月とかって、こう、今年の抱負とか考えたりしがちじゃないですか。

―― そうですね(笑)。

橋本:そろそろ本当に何かやりたいなと思って、2011年に行った店を検索してみたら結構閉まっていたんです。「あの店もない、この店も閉まっている」となった時に、「これはいよいよ今のうちに取材だけはしておかないと本当に分からなくなる」と思って、取りあえず記録に収めておこうと思ったのが2017年の1月でした。

「昭和のある時期、働いていた女性たちの姿」がテーマ

―― 刊行を重ねてきて、全体を貫くテーマのようなものが見えてきましたか?

橋本:話を伺っていると、何の経験もないのにドライブインを始めたってケースがかなり多かったんですよね。「このあたりも交通量が増えてきたし、最近はドライブインというのが流行ってるみたいだから、うちもやってみよう」と夫が突然言い出して、それまで全然商売したこともなかったけど、夫が言い出したんだからやるしかないとなって夫婦で創業されて、50年経った今では夫に先立たれ、今は女性が一人で切り盛りしている。そんなお店も多いんです。

そんな話をあちこちで伺っているうちに、ドライブインを取材するということは、そこで働いてきた女性たちの姿の記録でもあるかなというのは、途中から明確に見え始めたテーマのひとつではあるかもしれません。もちろん、そういう風景が今の時代になくなりました、ということでは全然ないとは思いますけれど、今の感覚からすると全然違うと思うんです。

ドライブインが急激に増えたのは、1960年代から1970年代にかけてです。その時代は、とにかく物を並べていれば何でも売れていたという話をあちこちで耳にしました。ただ、現状閉店しているドライブインが多いのは、以前に比べると繁盛しなくなって、後継者がいないからという理由がほとんどです。ただ、昔であれば、家業を「継ぎたくない」ということって難しかったと思うんですよね。そこも昭和から平成に移り変わる中で変化したことだと思うんですけど、「親がやっている仕事を継がなきゃ」ということのリアリティがどんどんなくなってきているんです。自分の親がドライブインを創業して、それを継いで何十年が経ち、60代から70代を迎えている――そんな店主たちの多くは、「自分の子供達に継がせるつもりはない」とおっしゃっています。それは、時代の変化を感じているということと、自分が「親が始めた仕事だから」と継がざるをえなかったことを振り返ると、同じ苦労を子供達に味合わせたくないという気持ちがあるのだと思います。

―― 確かにそれはあるでしょうね。

橋本:今、ドライブインを経営している人たちは「親がやっているし、やりたいこともあったけど、しょうがないから、まあ、継ぐか」という感じで50年を過ごしたりしているわけです。僕自身は家業を継ぐこともなく、フリーランスのライターとして好きなことをやっているから余計に、そうやってドライブインで何十年と働いてきた方達の人生を聞いて回りたいという気持ちもありました。

最初は「ドライブインという業態」に主な関心があったんですけど、その人たちが過ごした時間とか、何をもって生きてきたのかということを聞きたいという方に、自分の気持ちがどんどん傾いていっているところはあります。

今も確実に存在し機能する「ドライブイン」という風景

『月刊ドライブイン』は現在入手困難だが、1月29日に全12冊の内容を収録し、加筆・再構成が施された『ドライブイン探訪』(筑摩書房)が発売となった。

―― 取り上げるお店のセレクトはどんな観点で選んでいたんですか?

橋本:「寂れた店って味があるよね」という感じで取り上げているつもりはまったくありませんし、今でも賑わっている店を取り上げた号もあるんですけど、とにかくドライブインというものの全体像が見渡せるようにと、創刊の段階である程度の方向性は決めてました。ただ、実際の取材は毎月行っていて、取材依頼をするところから取り掛かっていたんですけど、断られることも多々あって。

―― 取材OKがもらえることの方が少ないぐらいですか?

橋本:断られることの方が多いとまでは言わないですけど、OKをもらえないことが続くこともあって。例えばある町に、「喫茶・食事」と書いてある看板が出ているドライブインがあって、そこはコーヒーチケットも売っているようなお店なんです。チケットがレジの横に貼ってあって、一番上に誰々さんと名前が書いてあって、常連の人が来てコーヒーを飲んですごく賑わっていたんです。

多くのドライブインは長距離トラックの運転手や旅行者などのためにつくられているのですが、今では地元のお客さん中心になっているという変化も含めた話を、そこで聞きたいと思ったんです。

『月刊ドライブイン』で取材をお願いする時は、まず客として普通にふらっと行って、雑誌のバックナンバーを渡して、「改めて取材依頼の手紙を送りますので」と伝えて帰るんです。それで手紙をお送りして、後日電話をかけて「お話を聞かせていただけませんか?」と。でも、その「喫茶・食事」と看板を出しているお店の場合は、「うちはもう、常連の地元の常連さんだけで細々とやっていて、このままひっそり終わっていけたらと思っています。こんなふうに依頼をいただくだけで、私たちがお店をやってきたことを気にかけてくれた人がいたんだと胸が一杯になりましたので、取材は結構です」という返答をいただきました。そこで「お店の名前は伏せますので」「地域名も隠します」「もう固有名詞は一切出しませんので」と言ってみたのですが、結局取材は断られてしまって。ドライブインのある日常の風景というのは、取材されるために存在しているわけではないので、難しいところではありますね。

―― なるほど。確かにお店の人からすると、そう言いたくなる気持ちも理解はできます。

橋本:もちろん、それはそうだろうなと。何十年も続けてきて、そういうお客さんとの場所としてあるところを、なんで今日来たお前に話さなきゃいけないんだという気持ちになるのも分かります。なのでこちらも毎回「これでダメだったら仕方ない」と諦められるぐらいしっかりと取材依頼の手紙を送るようにと心がけてました。

―― 話は変わりますが、僕自身がまちづくりとか地方創生という流れで新しいコミュニティ形成のためにゲストハウスをやりますとか、古いマンションをリノベーションしますという人のインタビューすることもあるんですけど、そこで「ドライブインをやります」という話は聞いたことがありませんでした。でも話をうかがってると、今でもちゃんと地元の人たちの憩いの場とか飲み屋だったりもするわけですよね。

橋本:それで言うと、すでに閉店してしまったドライブインでも、まちづくり・地方創生の文脈で復活する気配も取材を通して感じました。

―― もう具体的な例があったりするんですか?

橋本:沖縄県の宜野座村に、「漢那(かんな)ドライブイン」という閉店してしまったお店があったんですが、「地元の人がずっと使っていた場所だから、それをなくすのはもったいない」ということで去年の4月に「漢那ドライブインアートプロジェクト〜ぼくたちの記憶」という写真展が開催されていました。

―― なるほど。そういうケースもあるわけですね。

橋本:あとは山口県の岩国にある「峠ドライブイン」というお店があって、ここも去年の4月30日に閉店してしまったんですが、お店を経営されていたご夫婦の娘さんが「いわくにまることasoviva!プロジェクト」という団体に携わっていて、映画の上映会などを企画して、地元を盛り上げる活動をしています。

その第1回のプレイベントを峠ドライブインでやっていたのですが、トラックが多いドライブインだったので、常連トラック運転手の方に協力してもらって、そのトラックに幕を垂らしてドライブインシアターみたいな感じで映画の野外上映会を開催していました。娘さんとしては「いろいろな人が行き交ってきた場所で、50年続いた店という歴史もあるから、閉店したからといって取り壊すのではなくて、何か別のかたちで活用していきたい」という話をされていて、そういうことも今後ぽつぽつ出てくるかもしれないですね。

ニッチなテーマのミニコミを、いかにメディアで取り上げてもらうか

―― 『月刊ドライブイン』はテレビにラジオにウェブにと結構いろんな媒体で取り上げられていましたね。

橋本:それは僕の中で意識的にそう仕向けなきゃということがあってやった部分もあるんです

―― それは先ほどおっしゃっていた「今自分が取材して伝えないとわからなくなってしまう」という危機感のことですか?

橋本:そうではなくて、リトルプレスという形態で届けられる範囲には限界があると思っていて、まずは1冊の単行本にしたいと思っていたんです。そのためには今この瞬間に波風を立たせないとダメで、何をすべきかということは、自分なりに創刊するまでの何カ月かで考えていました。

―― そのために営業的なこともされていたしたんですか?

橋本:それが得意な性格でないこともあって、メディアへの売り込みみたいなことはまったくしていないですね。じゃあ、どうやって気づいてもらって、ギョッとしてもらうか。こういったリトルプレスだと、「月刊」や「季刊」と銘打っても、実際にはそのペースで出ないことのほうが多いと思うんですよね。でも、「月刊」と銘打って、本当に月刊で出していけば、ギョッとしてもらえるんじゃないか思ったんですよね。月刊で出せていない時期も二回だけありましたけど。

―― 確かに並々ならぬ熱意を感じさせますね。

橋本:あとは毎号取り上げていたドライブイン2軒の組み合わせですね。取材の効率を考えれば、普通は「東北編」とか「関西編」とかまとめてやっちゃうじゃないですか。だけど、絶対にそれではダメだと思って。例えば1号なら北海道の帯広(ミッキーハウスドライブイン)と熊本の阿蘇の城山ドライブインを載せています。「え、1カ月にこの2カ所に行っているの?」という飛び方をするということです。

そういうインパクト、ギョッとするポイントをつくらないと反応はないだろうということを考えて、しかも謎のそっけないデザインの表紙であるといったことを書店の方も面白がってたくさん入荷してくれて。

―― グレーの表紙でタイトルと号数しか書いてないですからね(笑)。確かに当時のブログやSNSの反応を見ていても、橋本さんの思惑通り「なんかめっちゃ面白い雑誌を見つけた!」という反響が多かった気がします。

橋本:あとは、なるべく読み通しやすくするということは考えていました。「さらっと読めるけれど、そこにいろいろな情報がある」という状態にできるよう毎回気をつけていましたね。

―― 毎号40ページぐらいで、読了時間としては1時間ぐらい、確かに通勤とかカフェで休憩しようという時にさらっと読めて「いい話だったな」っていう充実感が毎回ありました。

橋本:上野の不忍池の周りをよくジョギングしているんですけど、公園のベンチで新聞を読んでぼーっとしているおっちゃんに渡して読んでもらっても、絶対に面白いと思ってもらえるぐらいの気持ちで毎回作っていましたね。ドライブインとかレトロなものに興味がある人が読んでももちろん面白いでしょうけど。

―― 雑誌とか新聞の連載として載っていてもまったく違和感ないですしね。

橋本:そういうつもりではあるんです。

約10年前、カルチャーメディアの萌芽は「紙のミニコミ」から生まれていた

橋本さんが編集長を務めていたミニコミ『HB』。第4号にはZAZEN BOYSのアメリカレコーディング同行記も掲載

―― ところで、橋本さんは『月刊ドライブイン』が初の刊行物ではなく、2007年創刊のミニコミ『HB』から始まって、演劇カンパニー「マームとジプシー」の取材旅行の同行記『沖縄観劇日記』(2013年)や、国内外ツアーに同行し、さらに時間を置いてその場所を再訪した時のことを記した『イタリア再訪日記』(2015年。上・中・下巻構成)、『まえのひを探訪する』(2016年)などさまざまな刊行物を自費出版、リトルプレスとして刊行しています。

橋本:そうですね。ただ、僕は「ライターになりたい」と思ったことは実は今まで1回もなくて。いつの間にかなっているというだけで、今もライターと名乗っていいのかわからないんです。

そもそもライターや編集をされている方は、基本的に本や雑誌がすごく好きな方が多いと思うんです。僕は正直、中学、高校の頃に本や雑誌を読んでいたというタイプでは全然ありませんでした。ただ大学時代は政治学科に通っていたので、『論座』や『諸君!』といった、いわゆる論壇誌は読んでいたんです。

そんな感じでしたが、大学4年の時に、単位が取りやすいらしいというぐらいの不真面目な理由で、坪内祐三さんの授業に出始めたんです。そこで授業に出てみたら何か面白そうだなと思って、大学時代で唯一、欠かさず出席していた授業でした。

―― それはどんな授業だったんですか?

橋本:「編集・ジャーナリズム論」という名前で、明治・大正から戦後のある時期までの雑誌を年代順にいろいろ紹介しながら、「これが後にどういう影響を与えたか」ということを説明していくという、ディープな授業でした。戦前の『中央公論』とかを授業で取り上げられた翌週には、図書館に行って大正時代の『中央公論』をパラパラめくってみるということをしていたんです。『中央公論』といえば、吉野作造の評論が掲載されて、大正デモクラシーを牽引した雑誌だという知識はありましたが、実際に手にしたことはなくて。そこで滝田樗陰という編集者の存在を学んだり、「論壇」や「近代」といった大きなテーマよりは当時の時代の空気がちょっとしたページに記録されているのを見て、「こういうふうに声が書き残される場でもあるのかな」と思ったんです。

その授業というのは、終わったあとに毎回、近くのお蕎麦屋さんで飲んでたんです。学生は誰でも参加オーケーで、坪内さんを担当されている編集者の方達もその場にいらっしゃって。その時間がとても楽しかったですね。

―― 『HB』はその時の仲間と作っていたということですか? 

橋本:仲間というと気恥ずかしいですけど、毎週のようにお蕎麦屋さんで顔を合わせて飲んでいた人たちと作りました。サークルにも入っていなかったので楽しいなと思っていたんですけど、授業が終わるとそういう場所もなくなる中で、編集・ジャーナリズム論を取っていたわけだしという、取って付けたような理由も持ちつつ、「みんなでミニコミをつくれば編集会議というかたちで、また毎週集まって飲んだりできるんじゃないか」という、不純な動機で創刊したのが『HB』ですね。

―― 今そういうことをやろうとしている人はみんなウェブでやり始めている印象がありますが、この頃はちょうど宇野常寛さんの『PLANETS』(2005年創刊)や、後にウェブメディア「KAI-YOU.net」になった『界遊』(2008年創刊)ができた頃だったり、カルチャーメディアの新しい萌芽が紙のミニコミから出てくる時代でしたね。

橋本:そうですね。『HB』を創刊したのが2007年です。

―― 2007年の夏号からですね。

橋本:その前から、文学フリマの流れもきっとあるんでしょうけど、そういうリトルマガジンが幾つか出始めていた時期だったような気はしますね。あの頃は例えば「書肆(しょし)アクセス」という神保町にあった地方・小出版流通センターがやっているミニコミをそろえているお店がまだありました。「書肆アクセス」は残念ながら閉店してしまいましたけど、新宿の「模索舎」や中野の「タコシェ」といったお店は『HB』のときからお世話になっていて、『月刊ドライブイン』も扱っていただきました。『HB』を創刊して10年以上経ちますけど、この10年のあいだに、個人でやっている小さな本屋さんが増えてきて、『月刊ドライブイン』はそういったお店の方から「うちでも扱わせてほしい」と連絡をいただくこともありました。そこで初めてお店のことを知ったりして、それは嬉しい発見でしたね。

確実に歴史に残るであろう物事を、リアルタイムで記録しておくこと

―― マームの同行記だけではなく、『HB』時代にはZAZEN BOYSのアメリカレコーディング同行記も書いていたりしますよね。橋本さんがそういう文章を書くモチベーションって、どこにあるんでしょうか?

橋本:どちらも親しくなった経緯はそれぞれありますけど、僕は彼らがすごく面白いと思っているし、その活動は50年後、100年後に振り返られることになるだろうと思っているんです。そこでみんながアクセスするものが「あの時はこうだったんですよね」っていう当時を振り返った証言ではなく、リアルタイムで記録されたものの方がが絶対にいいだろうと。誰かが書いてくれればそれで安心できますけど、誰も書かないなら、自分で書こうと。ただ、そうやって書くことができているのは、向こうが嫌がったりせず受け入れてくれたということもポイントではあると思います。

ZAZEN BOYSのレコーディングルポは、新潟の居酒屋さんで向井さんにお会いした時、「ぜひ同行記を書かせて欲しい」とご本人にお願いしたんです。すると、「こっちもレコーディングで行くわけやから、毎日そのことに集中しとるし、向こうで『今日はどうでしたか』とか質問されるのは無理やから」と向井さんがおっしゃって。それもそうだよなと思っていたら、「ただ、自分が雑用係としてついてきて、雑用をするなかで見聞きしたものを勝手に書くっていうのであれば、それは好きにしたらいい」と。それで雑用係としてアメリカに渡って書いたルポでしたね。

―― なるほど。一連の本を読んでいて興味深いと思ったのが、どの本も「これはファンだけに向けたアイテムです」という体をしていないということです。完全に橋本さんの同行記、日記というところがメインであって、そこに時折アーティストインタビューや、同行中に交わした会話なんかが入っている感じで。例えば『イタリア再訪日記』、『まえのひを探訪する』でも、タイトルや表紙に「マームとジプシー」という単語がまったく入っていませんよね。

『イタリア探訪日記』の上中下巻。2013年から15年にかけての「マームとジプシー」の上演ツアーに同行した際のことが記されている。現在は入手困難。

橋本:確かにそうですね。ファンアイテム的なものを作ろうと思えば作れるでしょうけど、マームの作品を観なかった人にも届かなければ文章にする意味がないと思っているので、こういうアウトプットになっているんだと思います。

あとは、インタビュー対象とすごく仲が良い前提で話している記事って苦手なんですよね。個人的にどれだけ仲良くなっても、文章にするうえでは適切な距離感を保ち続けたいと思っています。

―― なるほど。ちなみにこれらの単行本シリーズは、刊行してみてどういう反応がありましたか? 

橋本:どうでしょうね。僕は事務能力が極端にないので最初はあまり書店に営業をかけられなかったんですが、マームのツアーに同行している時に「ドライブインの本、面白かったです」と声をかけられることがあったり、書店さんから「マームの同行記がきっかけで橋本さんを知ったんですが、うちでも『月刊ドライブイン』を扱いたいです」と言ってくれることもあって嬉しかったです。

意外と思ったより届いているんだなというか、何となく気になって手にとってくれた人も意外といるのかなという気がします。一番分厚い『イタリア再訪日記』は完売してるんですよ。

『イタリア再訪日記』の上巻より

―― 個人的にも、橋本さんの文章は長くいろんな人に読み継がれて欲しいと思っていますが、売り切れとなった本を再販したり電子化したりすることは考えたりしないのでしょうか?

橋本:まず、完売しているものは『イタリア再訪日記』ぐらいなんです。そして自分の意識としては一人出版社をやっているつもりはないので、在庫を持つというのはちょっと違うなと。だから「なくなったらそれで終わりです」というふうな考え方です。

あくまでも誰かが書籍化してくれれば最高だけど、そういうオファーも基本ないし営業する心構えもないから自分で出しているだけなので、「これはもっと読まれるべき本だ」と思ってくれる編集者さんがいてくれれば出してもらいたいというだけで。そういうこともあって、僕が再販するつもりはないですね。

あと最近は電子書籍とかnoteとかもありますけど、「ウェブ掲載の有料記事に対するアクセスのしやすさ」が自分の中にリアリティとしてまだあまりないんですよね。それが変化してくれば電子化もあり得るかもしれないですけど、今はあまりそれは考えていないです。紙の本に対してものすごく愛着がある、というわけでもないんですけどね。

「あの家の木はどんな経緯で植えることになったのか」というような話を書きたい

―― 『月刊ドライブイン』の刊行は一区切りついたわけですが、今後やってみたいことはありますか。書くことに関係していることでも、そうでなくても結構ですので。

橋本:興味のあるテーマはいくつもあるんですけど、それを誰かにプレゼンしても、面白いと思ってもらいづらいだろうなというものも多くて。そういったテーマに関しては、また『月刊ドライブイン』みたいなかたちでつくるかもしれないです。

例えば、僕は何度かぎっくり腰をやってるんですよね。それはきっと運動不足が原因に違いないと思って去年からジョギングを始めたんですけど、ジョギングルートに古い家が多いんです。そうすると、すごく狭い庭であっても、そこに木が植わっていたりするんですよね。

その植木を眺めていて思い出すのは、2017年に病気をして手術を受けた父親のことで。手術が無事に成功して退院できるというタイミングで「田んぼに梅の木を植えたいから穴を掘ってくれ」と言い出したんですよ。仕方なくホームセンターについていくと、苗を三つぐらい買いだして。そうやって木を植えることに、すごく抵抗があったんです。植える動機が見え過ぎるから。自分が病気になって、「もしかしたら死ぬかもしれない」と考えた時に木を植えて、しかも自分の子どもに植えさせて、その木を見る度に…みたいなことが見え過ぎたんですけど、それで満足するならと思って、穴を掘って植樹して。それでまた腰が悪くなったんですけどね(笑)。

でも、それからジョギングをしていると「この一軒一軒の木にも、当然だけど、植えた理由があるのかな」と思うようになって。もちろん何となく植えた人もいるかもしれないけど、何かしらのきっかけがあったはずですよね。そのきっかけとか、なぜその木の種類を選んだのかとか、そういう話を聞いていくだけでも物語があると思ったんです。

―― なるほど。それを橋本さんの筆で書いてもらえるならすごく読みたいです。

橋本:そういう話を聞いて集めていきたいと思うんですけど、それをプレゼンしたところで弱いと思うから、そういうことは自分で作ってやるかもしれないです。僕はとにかくテレビが好きで、家にいるあいだはずっとテレビをつけて過ごしてるんですけど、例えば『サラメシ』という人気番組がありますよね。あれも、誰かのお昼ごはんを紹介しているだけで、ものすごく大きなドラマがあるわけでもないけれど、ちょっとした時間に眺めているととても楽しいですよね。そのお昼ごはんに、その人の時間や人生が垣間見えるという。テレビだと、5分枠くらいの番組で、そういうささやかな風景を紹介する企画がよくあると思うんですけど、あれが読み物として書かれていたら面白いだろうなと思うんです。

すごく鋭い話とか、「人生の教訓を得た!」みたいなことは出てこないかもしれないけれど、通勤の時間にちょっと読んで、ふうんと何か感じて過ごす。そういう内容は読み物に適していると思うから、そういう言葉を拾う作業もいろいろやりようがあるだろうと思うようになりました。何気ない風景の中にも、たくさんの断片が詰まっている。そう思うようになったのも、『月刊ドライブイン』を始めたことが大きいんだと思います。


橋本倫史(Twitter)