CULTURE | 2021/11/05

【追記あり】関西人視点で「維新が大阪で強い理由」を整理し、これからの日本における「改革」を考える

【連載】あたらしい意識高い系をはじめよう(24)

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日本維新の会公式サイトより

立民の枝野代表が選挙前に「野党共闘によって、大谷の打率ぐらい(約26%)は政権交代の可能性がある」と言ったりする期待の中行われた総選挙ですが、結果として

・自民党は単独過半数、自公で絶対安定多数を確保
・立民&共産は公示前議席数割れ
・むしろ伸びたのは維新で、公明を超える第三党に躍進・国民民主党もなかなかの健闘を見せた

…という結果に終わりました。

この結果について各人の立場なりに色々と思うところがあるでしょうが、中でも今話題なのが、大阪の小選挙区で全員当選、比例も北海道以外の全ブロックで議席を獲得した「日本維新の会」の躍進の理由ですよね。

選挙後のSNSでの議論を見ていると、総じてなんだか「大阪の人間ってバカだからさ」と言わんばかりの総括が多いのが非常に気になります。

直接的に大阪人をディスっている議論だけではなく、「大阪の立場から見ている論者」みたいな視点の言説を見ても、「大阪の人間は反知性的で、東京を中心としたインテリの上から目線が嫌いだからなんだよ」的な、

おいおい、どっちにしろ「大阪人はバカ」は当然の前提なんですか?

という状況なのはさすがに良くないのではないでしょうか。

今回の記事では、「大阪人はバカだから」で終わらせずに、

・関西人の筆者が自分の親や親戚や地元の友人たちの気分を代弁しながら「維新の躍進の理由」を考える

・その上で、野党共闘が不発に終わったリベラル派や、維新の緊縮ネオリベ要素に反対する自民支持者などが、それぞれ日本において自分たちの理想を実現していくために考えるべきことは何か?

…について考える記事です。

なお、最初にひとつだけ大事なことを確認したいのですが、私自身は維新の支持者ではないし投票もしていません。

今の日本のインターネットでは維新について少しでもポジティブなことを言うだけで、保守派(自民支持で、特に反緊縮主義者)からもリベラル派(立民・共産などの支持者)からも怒鳴り込んでくる人がいるんですが、その気持ちはわからないでもないものの、選挙の結果としてここまで躍進した「理由」を理解しようとすることは、維新の政策や政治手法や思想が許せないと感じている人にとっても大事なことではないでしょうか。

読者のあなたが理想とする立場が、「維新の躍進の理由」を参考にして取り入れて変わっていくことでのみ、「維新が伸びるのは嫌だ」と感じている人の意志も通していけるようになるはず。

単純に「大阪人はバカだから」「日本の有権者はかなり愚かだから」とか言うのが果たして民主主義と本当に向き合う意志がある態度なのか、考えてみるべきだと思います。

倉本圭造

経営コンサルタント・経済思想家

1978年神戸市生まれ。兵庫県立神戸高校、京都大学経済学部卒業後、マッキンゼー入社。国内大企業や日本政府、国際的外資企業等のプロジェクトにおいて「グローバリズム的思考法」と「日本社会の現実」との大きな矛盾に直面することで、両者を相乗効果的関係に持ち込む『新しい経済思想』の必要性を痛感、その探求を単身スタートさせる。まずは「今を生きる日本人の全体像」を過不足なく体験として知るため、いわゆる「ブラック企業」や肉体労働現場、時にはカルト宗教団体やホストクラブにまで潜入して働くフィールドワークを実行後、船井総研を経て独立。企業単位のコンサルティングプロジェクトのかたわら、「個人の人生戦略コンサルティング」の中で、当初は誰もに不可能と言われたエコ系技術新事業創成や、ニートの社会再参加、元小学校教員がはじめた塾がキャンセル待ちが続出する大盛況となるなど、幅広い「個人の奥底からの変革」を支援。アマゾンKDPより「みんなで豊かになる社会はどうすれば実現するのか?」、星海社新書より『21世紀の薩長同盟を結べ』、晶文社より『日本がアメリカに勝つ方法』発売中。

1:「維新支持者は血も涙もないネオリベの反知性主義者」というレッテル貼りをやめるべき

私は神戸生まれ育ちですが、父親の実家が大阪で、成人してから大阪に数年住んだこともあり、当然友人や親戚がたくさん大阪で暮らしています。

で、維新が大阪を席巻しはじめた頃に私は既に関西を離れていたので、何事も偏見で決めたくないなと思って、大阪で暮らしている友人とかに会うたびに「維新ってどう?」と聞いていたんですね。

そうすると、同世代の子育て中の女性(当時30代なかば)とかが

いやー頑張ってくれてはるよ〜、なんか大阪が明るくなったような気がするもん

…という感じで軒並みポジティブに答えていて、ネガティブなことを言う人がほとんどおらず、「へえ、そういうふうに感じているのか」と、あまりに「ネットの印象」と違っていてびっくりしたことがあります。

で、こういう話は、選挙後のネットでの「大阪で維新が強い理由談義」の中では、

・結局維新の「やってる感」にバカな大阪人が騙されてるだけなんだろう

・そういえばドブ板的な組織の動きはまあ頑張ってるらしいね。俺たち知性派と違ってバカなヤンキーどもはそのへんアホみたいに必死になったりするもんなあ、あー反知性的なサルどもが跋扈する日本は嫌だねえ

…みたいな話だと思われてるんですが、そういう「無内容なアピールにバカな大阪人が騙されている」という理解自体が間違ってると思うんですよ。

なにしろ、私は経営コンサル業の傍ら色んな個人と「文通」を通じて人生を考えるという仕事もしているんですが(ご興味があればこちら)、一時期凄く「地べた」レベルの福祉事業を大阪で営んでいる女性と文通していたことがあって、その人ですら!

もちろん政治的意見としては自分たちとは全然違うけど、何か困りごとがあった時に維新の議員に言ったらサッと動いてくれる…みたいな感じではある

ということを言っていて、なんか「ネットで触れる維新」とはすごい印象が違うなあ…と思ったことがあったんですね。

この「認識の違い」の背後にあるものはなんなのでしょうか?

2:大阪維新が持つ「知性派のテクノクラート的側面」が見落とされている

てんしば公式サイトより

単純にいうと、

・「大阪で維新が頑張っている」と評価されているのは単に“バカが騙されてる”だけの話じゃない

…ということに尽きます。

これは2020年に出した私の著書で書いた話なんですが、以前ある「維新批判派」の大学教授さんが「維新は無能!」の根拠として挙げてげていた財政の数字があまりに直感と違っていて、「おかしいな?どういうことだろう…」と思って大阪市の財政報告書を十数年分ひっくり返して調べたことがあります。

ちょっと長くなりますが、当時書いたことを改めて掲載したいと思います。

企業の財務諸表とは用語が全然違うので結構苦労しましたが、半日ぐらいかけて用語から調べながら財務報告を見ていくと、確かに見かけ上借金は増えているのですが、その借金の返済の原資として積立てが義務付けられている減債基金や、毎年の税収の変化を調整するための調整基金という項目に、借金が見かけ上増えた分以上はじゅうぶん積立てられており、この10年の高齢化の進展による社会保障費の増加や、私立高校無償化といったアピール政策への支出もしながらのこの状況は想像以上にドラスティックで、せいぜい数兆円の予算の中で、千億円もの単位でかなり野心的な支出の見直しを継続的にやっている印象でした。

「こういう要素」を国政でもある程度は実現できたら、かなり私たちが見えている状況は変わってくるはずなんですよ。

大阪府に比べて国の予算は桁違いに大きく、普通の意味での予算が100兆円、別立てで徴収されている社会保険料なども含めると毎年170兆円にもなるそうなので、たった1%か2%でも無理のない範囲で効率化できれば、一気に数兆円の自由に使えるお金が湧いてくることになります。

数兆円とかあったらすごいことができますよ。今、米国どころか中国に比べても数分の1とかいうレベルでしか投資できておらず、日本の国立大学の研究力の低下を国際科学雑誌からも心配され、技術立国なんてもう絶対無理だ! 日本はもう没落するんだ!…とかなんとか毎日学術関係者のボヤキと恨み言をSNSで見る原因になっている「科研費」ですら総額“たった二千数百億円”の世界なんですから。

そういう意味では、たった1%!だけでも行財政改革で、あまり弱者切り捨てにならない形で引っ張ってこられたら、あれだけもう日本は終わりだぁ…と恨み言が満載になっているあの問題もこの問題も、何個かまとめて一気に札束でぶん殴って葬り去ることが可能なわけです。そうなったら、「なーんだ、日本政府って、案外お金持ってるじゃん」って印象にもなるでしょう。

(「日本政府は無限大に借金できる」と考えている人にとっては、こういう発想自体がそもそも間違っていると感じるのだということは理解していますが、それについては後に述べるのでとりあえず後半まで読んでいただければと思います)

全体として、大阪で維新が継続的に行っている「大枠としての予算のリバランス」は相当見事というか、ある意味で非常に「知性的」な部分を感じてびっくりしました。

つまり、「いわゆる“自民党っぽい性質”を大阪版に煮詰めたのが維新」という一般イメージとはかなり違う政党であることがわかります。

その結果として、毎日新聞の記事「維新「第3党」の裏で何が 「吉村人気」だけではない底力と限界」によると、私立高校授業料の無償化や、大阪市立小中での給食費無償化など、現役世代に重きを置いた施策を積極的に取り入れたことを吉村氏を中心にアピールしてきた事が今回の選挙結果には大きく効いているらしい。

大阪城公園とか「てんしば(天王寺公園エントランスエリア)」の再開発にしても、「批判派」の人がネットであまりに「中身がないチープなショッピングモールみたいになった」的な批判をするから「本当にそうなのかな」と思って地元に帰った時に見に行ったんですけど、個人的にはすごく好感を持ちました。

「ネットやメディア」でもてはやされていても、行ってみたら価格帯やクオリティや商品選びが地元の雰囲気と全然合っていなくて閑古鳥が泣いていたりすることってよくあるんですが、大阪城公園や天王寺公園の再開発は、誘致した商業施設が価格帯的に土地にフィットしている上にいかにも“安かろう悪かろう”という感じでもなく、「新しいデートスポット&家族の憩いの場」としてバランスよく生まれ変わった印象を受けた。

ハコモノを作ってもちゃんと地元のニーズにあっていないから、閑古鳥になって維持費がのしかかるだけで終わる例が日本中で起きている中で、それなりに黒字になって財政に貢献している大阪城公園や「てんしば」の再開発はかなり上出来と言っていいんじゃないかと思います。

なにより、大阪城公園や天王寺周辺は、僕は神戸人なので土地勘がなくて普通に旅行に行ったりしましたが、後から大阪の人に「あんなとこ危ないから一人で歩いたらアカンで!」とか言われてビックリしたぐらい昔は治安の悪い場所だったらしい。

それが今は世界的観光地みたいになっていて、2022年には星野リゾートのホテルもオープンするとか。

【追記】今回記事については好意的に意図を受け取ってくださった読者の方にも、ここの部分(天王寺周辺や大阪城公園は昔は“治安が悪かった”という話について)、事実と違うというご指摘をたくさんいただきました。もっと普通に行ける場所だったと。

実際、「あんなとこ言ったらアカンで」とか「ウチの実家はほんまガラ悪いところにあるから」とか言ってみせるけれども実態はそれほどでもない…という「関西人のネタ話の呼吸」は私も一応理解していますし、この記事の部分についても“そういうノリ”の一環として書いたつもりではあります。しかし、「自分の地元」をそういうふうに悪く言われると不快だと思われる方もいるでしょうし、その点は言葉が足りなかったと思います。

ただ、事実はともかく大阪人の多くが「天王寺周辺(特に付近の南西ブロックにある釜ヶ崎エリア)?危ないとこ行くな〜」と冗談だとしても言っている文化があったこと自体は紛れもない事実で、今までの人生の中で私は数え切れないぐらいその「ネタ」を聞いてきました。

そして実際、それは「ある程度」は事実だったし、過去10年〜20年で「かなりきれいな場所に」なったことも事実なのだと思います。

そして何人もの方が指摘されたように付近の「浄化(ジェントリフィケーション)」は維新以前からも行われていたことで、維新の手柄だけではないとしても、「一般人のイメージ」としては

「汚くて古い大阪」のイメージだった場所が「新しくてきれいに」なった…という“印象”

…を抱いていることは、「維新が実際に投票の結果として躍進する空気」を下支えする理由としては見逃せないものではないかとも思います。

この「ジェントリフィケーション(都市再開発によって元にそこにいた住民にとって居づらい環境になること)」がもたらす問題についての、賛成派と反対派のぶつかりあいというのは世界中で見られるものですが、特に大阪に関していえば、反対派が「きれいになることそのものに反対している」と見られること自体が、逆に維新支持を後押しするのではないかという感覚が私にはあります。

むしろ、

「きれいになること」自体は当然“いいこと”として受け入れるが、それが排除する困窮者の福祉は、今のままホームレス状態で放っておくのでなく行政が真剣にやるべき

…という着地点こそが、「維新が望まれる理由を潰す」意味で維新反対派にとって取るべき「論調」ではないかと思います。

このあたりの「維新が強い理由に対抗するなら取るべき論調」については別記事↓にまとめましたので、そちらをお読みいただければと思います。

「ハイ論破!」文化を超えるために・・・立民・共産より維新の支持が伸びる理由についてのより深い考察

ともあれ、中心部がきれいになって世界的観光地になったことは、「情け容赦ない資本の力で地元の紐帯が破壊されて味気ないスカスカの観光地になってしまった」的なストーリーかと思いきや、新世界の「ディープな商店街」的なものはそのまま残されていて、そこを歩いてると自転車に乗ったオッサンが

「ちりんちりん〜」

とか「自転車のベルの口真似」をしながら悠然と通り過ぎたりしていて、ある程度大きな資本的な仕切りが入って治安も良くなり世界中から観光客が来てそれなりに経済が潤う中で、

「みんなが期待する大阪のオッサン」

を演じる楽しみ…みたいな地続きの心のふれあいがある感じがあって微笑ましかったです。

こういう「大阪人の気持ち」と「テクノクラート的な視点での投資」が分断せず両立している感じなのが、維新が意外に「やり手」な部分だなあ、と私が感じる部分なんですね。

つまり、大阪に住んでいる人が

「いや〜維新よくやってくれてるよぉ」

というのは、単に「バカが騙されてる」だけの話ではなくて、実際に無償化された私立高校の学費とか給食の話とか、きれいになったデートスポット&家族の憩いの場だとか、コロナ前には「観光客の伸び率が世界一レベル」とか企業の転入転出問題が徐々に改善してきているいった変化だとか、そういう「具体的な変化」が明らかにあるわけですね。

3:維新は維新なりに「知性的」な部分があることを直視しよう

もちろん、“維新批判派”的な視点から見れば、そのプロセスで「大事な支出がカットされてしまった!」ということもあったでしょうし、問題提起は大いにしていくべきです。実際、こんなに大胆な組み換えを常時やっていたら、そのトバッチリで社会にとって大事な予算を切ってしまったことも当然あるだろうなと感じます。そのあたりはコロナ禍においてあの橋下徹氏でさえ認める発言をしていました

ただ、その際に維新のやっていることの全体像をあまり理解せずにツッコミを入れてしまうと、コミュニケーションが全然成立しなくなってしまうんですよね。大阪の財政について調べていた時に、いくつかマスコミとの質疑応答の全文みたいなものも発掘して読んでいたんですが、話が全然噛み合っていないケースが1つ2つではありませんでした。

単にマスコミ側が勉強不足すぎて、たとえば積立金などの全体像を見ずに「見かけ上の借金の数字の増減」だけでセンセーショナルに「維新は無能!」みたいな論陣を張ろうとする勢力が一方ではあって、そういう無理やりな批判に自分たちの政治を邪魔されないためにちょっとどう考えても牽強付会な無理がある成果アピールみたいなものばかり発表するようになり…という「全然噛み合ってない罵り合い」が、大阪維新に関する色々な「論争」と呼ばれるものの実像だと思います。

ただ、ざっくりとした評価として「維新の大阪政治」全体で見れば、都構想の理論的支柱でいわば「当事者の一人」ではありますが、上山信一慶大教授が書いた記事「数字でみる大都市「大阪」の復活ーー橋下改革から10年の成果」のようなかたちで具体的な数字改善が見られることは明らかだし、それは選挙での民意も評価している通りだと思います。

特に、維新側の「成果」を測る時には、大阪というのは戦前は東京よりも人口が大きかった超大都市が今は東京一極集中の流れに飲み込まれている…という「非常に厳しい前提条件」を一応は勘案することが大事で、もっと小さな規模の県と「伸び率」的な指標だけで評価して「維新が無能な理由」という断罪をするのはあまりフェアな評価ではないと思います。

一方で「都構想(少なくとも今の維新案)」に関しては、紆余曲折を経て内容を縮小した案を「それでも意味がある」と強引に維新が推し進めようとして出している数字はツッコミどころも多く、その「都構想の効果見積もり」に関しては、反維新の急先鋒である京都大学藤井聡教授が各所で書いていることはそれなりに納得感があり、それもまた二度の住民投票否決によって「民意」が評価している通りだとも言えそうです。維新は本来、「そういうコストがかかっても一体化には意味がある」と主張すべきところ、細かいコスト比較の論争でも「断然意味がある」と強弁しまくるのでツッコミどころが満載になってしまってるんですよね。

そういう意味では、「選挙によって顕になる民衆の集合的無意識」は案外賢く評価しているように感じているんですが、こと「言葉で交わされる論争」は全然噛み合っていないんですよね。

特に大阪維新の場合は、そもそも「国や社会の運営をどうするべきか」の価値観の面で大きく違った2つの姿勢がぶつかりあっているところに、お互いの陣営が「細かい数字とか施策の一部」だけを取り出してきて「ここが間違ってるんだからお前たちは全部間違っている(俺たちが完全に正しい)」と言い合っているすれ違いがある。

たとえば、「予算の組み換え」にしても、「日本政府は無限にいくらでも借金を増やせる」と思っている層からすれば、「そういう発想」自体がもう全く間違っているわけですよね。

私も日本国債には伝統的に考えられていた以上の借り入れ余地があり、何らかの積極財政を展開していくことが必要だと考えているので、維新のやっていることが「やりすぎ」だと感じている部分はあります。だから支持できないと感じて投票先として現段階では考えていない。

ただ、だからといって「“無限大にいくらでも”借金できる」はずもないので、維新が考えているような何らかの予算のリバランス(特に高齢者向けに優しく現役世代に厳しすぎるかたちになりがちな日本の公的予算の配分を見直していくこと)自体が大事なのだという意見は、「MMT&積極財政主義者」としても一応否定できない部分はあるのではないかとも思います。

また、考え方によっては、大阪城公園や「てんしば」といった公園の再開発に民間企業を参画させる仕組み自体が、そもそも前提として受け入れられないという立場の人もいますよね。「公」と「民」を関わらせること自体に潔癖的な反発心がある考え方が一方ではある。

こういう手法は、アメリカでは結構普通にあることだと思いますし、ブランドイメージ的な違いによって、ニューヨークのセントラルパークでやってれば「素敵!」と感じるけど大阪維新がやってれば「大阪の野蛮人どもが公の大事な資産を自分たちの利益のために売り渡してしまった」的な評価になってしまっている面もあるのではないかとも思うのですが(笑)。

大胆な予算の組み換えにしても、アメリカ政治に関する本を読んでいると、国政でも地方政治レベルでも共和党・民主党に関わらず、選挙の結果によって予算がドカンと組み替えられて何かの部門ごと消滅したりする話が結構出てきてビックリすることがあるんですが、維新がやっていることはそのアメリカの事例よりはかなりマイルドなものの、同じような「思想」に基づいて行われていることだと思います。

つまり、維新は維新で、彼らなりに「知性的」な部分がかなりある政党なんですね。

そこを最初から「反知性主義の塊」みたいなレッテル貼りで入る感じなのが、今の「維新批判議論」の良くないところだと思います。

「人文アカデミア系」の知性も知性だし、維新が理想とするような「アメリカ型のテクノクラート的発想」の知性も知性だし、理系の科学者やエンジニア的発想も知性だし、社会の現場レベルで日々の業務を効率的にこなす知性も知性なので、どれかだけが絶対的な「知性」でソレ以外は「バカ」という発想自体に問題があるわけです。

「自分たちの考える知性とは違うタイプの知性」がそこにはあるのだ、と敬意を持って理解した上で、彼らが支持されている理由を自分たちのやり方で代替できるようになれば維新批判派が維新に勝てるようになるわけですね。

そして特に維新の場合「彼らなりの知性」と「大阪人の気持ち」的なものを分離させずに同じ場所に繋ぎ止めなくてはいけない…という使命感があるのが、維新以外が彼らを見習うべき点だと思います。

4:維新批判派が維新の強みに学べるのは、「知性派」と「現場的組織」の「異質を超えた連携」を最重視すること

私が考える大阪の維新が強いところのコアにある部分は、

そういう「アメリカ型のテクノクラート的知性」を、単に「インテリの内輪トーク」で終わらせずに、「大阪人の気持ち」と共鳴させて同じところに繋ぎ止めておかねばならない…という使命感

っていう部分なんですよね。

「住民の困りごとがあったらすぐ動いてくれるのは維新」と維新反対派にすら言わせるほどの「密接な組織力」と、そこから上がってきた情報を党内のテクノクラート的な知性派に受け渡して両輪で協力しあう、「知性と現場の異質を超えた結合」が強みとしてある。

「大阪の維新」は住民との密接な関係性を持つ地元組織が情報を吸い上げてそれを党内のテクノクラート的な部分に受け渡し、そのうえで「大ナタを振るう」的なことをしているので、全国イメージほどに「弱肉強食の血も涙もないネオリベ」という感じじゃなくて、住民の評価も概ね高いから選挙で圧勝しているわけです。むしろ「高齢者に優しすぎ現役世代に厳しすぎる」日本の政治をリバランスする上でのモデルになる可能性すらある。

それでも個人的には“やりすぎ感”がいつもあるのは問題だと思うんですが、私も含めてその「やりすぎ」を批判したい勢力は、彼らの「長所」は謙虚に見習って、「自分たちの派閥の知性」と「民衆の気持ち」を、いかに同じ場所に繋ぎ止めるのか…について真剣な模索が必要でしょう。

今後の日本においては、「大阪における維新」がやったように、「自分たちの派閥の知性派」が「現場的集団」とのお互いの異質さを尊重しあえる両輪の連携をいかに作れるかどうかが勝負を分ける世界になってくると思います(それは“国政の維新”もできているわけではないはず)。

これは今回立民の選挙にボランティアで参加した人の匿名の投稿ですが、「たった10人のボランティア」すら「組織」としてちゃんと運営できていないしそもそもする気がない様子が批判されていました(2017年の衆院選で立民のボランティアをしたという知人も、この記事の内容に同意できると言っていました)。

「知性派」と「現場を動かせる人」はどちらが欠けても組織の実力を十分に発揮できなくなってしまうのです。

その「今、日本人の目の前にある課題」から逃げずに真正面から解決していければ、「アメリカにおけるトランプ派と反トランプ派」「巨視的に人類社会を見た時の欧米的理想とそれに背を向ける中国やアフガンといった国々」といった「分断」を超える

「“一緒に連れていく”変化のビジョン」

として、世界の人にいずれ必要とされるプロセスになっていくでしょう。

過去10年の「グローバリゼーションが一番強烈に調子に乗っていた時代」には内輪に引きこもって変化に抵抗してきた日本だからこそ、「米中冷戦の時代」に「両側を相対化してちゃんと一歩ずつ変わっていける可能性がある」という著書を今書いているんですが、前文を無料公開しているのでご興味がある方はどうぞ。

結局、「自分と話が合う内輪の慰めあいだけに退行して、自分たち以外をバカにする」言論をやり続けるなら、自民だろうと維新だろうとリベラル派だろうと未来はない。

「ジェンダーやエコ政策などを重視するといった進歩派的改革派」も「ネオリベ的な経済的改革派」も、そして「反緊縮路線の政治的保守派」の人も、それぞれなりに「未開拓のまま残されているど真ん中のボリュームゾーン」と真剣に向き合い、「自分たち以外はバカ」と思わずお互いを尊重しあう対話を生み出そうとすること。

それこそが、今回の維新の躍進が教えてくれる「日本の健全な民主主義」のあるべき姿ではないでしょうか。

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連載は不定期なので、更新情報は私のツイッターをフォローいただければと思います。


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