私がバックパッカーとして海外行きに夢中になっていた20歳の頃に訪れたスペイン・マドリッドのプラド美術館。あれから数十年が経ち、再びプラド美術館に行ってきた。
…といっても、VRで、だ。
今、東京タワーでプラド美術館を体験できる。当時は全く想像もつかなかった形で。
夜の美術館の警備員と巡る名画の裏側
会場に入り、説明を受けてゴーグルを装着すると、そこはもう夜のプラド美術館になっていた。出迎えてくれたのは、長年この美術館で警備を務めてきた警備員テオ。彼の最後の夜勤に同行するという設定で、物語が始まる。
「Art Masters:プラド美術館所蔵品VR展(特別協力:TKP)」は、プラド美術館が正式に監修・許諾したVRアート体験で、上海で約10万人、アルゼンチンで約2万人を動員し、日本は3カ国目の開催となる。
約30分のVR体験(全体では45分)で、プラド美術館が誇る5つの名画の世界を巡っていく。ヤン・ブリューゲル&ルーベンスの《視覚の寓意》(1617年)、ベラスケスの《ラス・メニーナス》(1656年)、ヴェロネーゼの《ヴィーナスとアドニス》(約1580年)、ゴヤの《魔女の安息日》(1820-1823年)、そしてヒエロニムス・ボスの《快楽の園》(1490-1500年)。
テオに導かれて、館内の裏側を巡る。最初は夜の館内を歩くが、次第に通路が空中に浮かんでいたり、突然絵画の中を歩いたりと、場面は縦横無尽に入れ替わってゆく。ドアを開け、本のページをめくる。松明を受け取って暗い通路を照らす。コントローラーは使わず、手の動きだけで操作できるのがいい。
約0.7kgという軽量なゴーグルのおかげで、30分間装着していても疲れることはなかった。そして自宅で座って体験するVRとは違い、空間の中を自分の足で自由に歩き回ることができる。体験の価値を大きく高めていたのは、まさにこの点だったと思う。
絵画に近づくのではなく「入り込む」
それぞれの絵画の前では、近づいてじっくりと細部を観察したり、中に入り込んだりしながら、テオが絵画に隠された秘密や知られざる事実を教えてくれる。
従来の美術館では、絵画との距離は厳格に保たれている。数メートル離れた位置から、作品を「眺める」だけで、ともすれば多くの観客の頭しか見えないこともある。しかしVR空間では、ツアーのバディ以外誰もいない美術館や絵画の中に文字通り入り込むことができる。
ベラスケスの《ラス・メニーナス》では、画家本人が描かれたアトリエの空間に立ち、王女マルガリータや侍女たちと同じ空間を共有できる。彼らの視線の先に何があるのか。なぜ画家本人が画面に描かれているのか。謎に満ちたこの傑作を、内側から体験していく。
ゴヤの《魔女の安息日》では、画家が晩年を過ごした「聾者の家(キンタ・デル・ソルド)」の不穏な空気の中へと誘われる。壁画として描かれたこの作品が、どれほど閉ざされた空間で生まれたのか。老いた画家の孤独と、静かに向き合っていく。
《快楽の園》の中で謎の生物たちと踊る
そしてクライマックスは、私自身がとても好きな絵画であるヒエロニムス・ボスの《快楽の園》へ。
暗い海に浮かんだ船で移動する演出を経て、いよいよこの謎に満ちた三連祭壇画の中へと入っていく。すると、未だに読み解かれることなく、謎が謎のまま語り継がれるこの大作の中に、いきなり自分が立っているのだ。
炎が暗闇を焦がす。寓意に満ちた動物や人が空を飛ぶ。奇妙な生き物が建物から見下ろしてくる。空中に浮かんだ私たちを、大勢の生き物たちが取り囲んでいく。
ボスの《快楽の園》に描かれた人間や意匠を再解釈したキャラクターが、周囲をぐるぐると回転しながら踊り狂う。ムール貝やリンゴの頭をした白い人間たちも混じっている。16ビートのダンスミュージックが鳴り響く中、思わず一緒に踊らずにはいられなかった。
今回は気心知れた人たちと4人一組で体験した。同じ空間にいる他の参加者は、石像のようなアバターとして上半身と両手だけが見える。気配を感じられるので、一緒に同じ空間を体験しているようで心強いし楽しい。
しかし、そんな私たちを会場で客観的に眺めたら、それもきっとおもしろかっただろう。なにしろ、何もない空間で見上げたり見下ろしたり、歩き回ったり踊ったりしているのだから。
画家も「同じ時間を生きた人」だと体感
20歳の頃にマドリードで見たプラド美術館の数々の絵画。当時の私は、それらを遠い国の昔の人が描いた恐れ多いものだと思っていた。
ところが今回、テオの説明を受けながらよく見たり中に入り込んだりすることで、描いた画家も時代こそ違え同じ「時間」を生きた人なのだと感じられた。その時間が、絵画にこもっているのだ。
アートや絵画の鑑賞が好きで、これまで海外も含め数え切れないほどの美術館を訪れてきた。しかしこれほど強く、画家の「生きた時間」を感じたのは初めてだった。まさに、人生の初体験だったと言ってもいい。
VRを子どもだましだと思って敬遠している人にこそ、ぜひ体験してみてほしい。私自身、これまでなかなかVRの世界に入り込むことができなかった。しかし実在の絵画をこのように体験できるのは、この技術ならではだと改めてその可能性を感じることとなった。
このプログラムはプラド美術館の厳密な監修を受けている。美術が好きな人にも、VRに興味がある人にも、何かおもしろい体験をしてみたい人にも、おすすめしたいイベントだ。
会場は東京タワー1階、正面から入ってすぐのところでわかりやすい。チケットは平日4000円、休日4500円など。VR体験としては少々高いと感じるかもしれないが、その価値は十分にある。
畏怖の念をもって見上げた名画が、VR空間で全く新しい姿で目の前に現れる。技術の進化が、アート体験の可能性をここまで広げたことを素直に驚き、楽しんでみたい。
Art Masters:プラド美術館所蔵品VR展(特別協力:株式会社ティーケーピー)
会場:東京タワー1階
開催期間:〜2026年4月12日
チケット:平日4,000円、休日4,500円(税込み、ほか各種割引あり)
詳細:https://www.artmasters.jp/