“アフリ観LIFE” を送る人を紹介する連載企画《「奥 祐斉と考える - “アフリ観LIFE“ -」 僕たちは、きっとアフリカに救われる」》第2回目となる今回のゲストは、アフリカ人類学者の清水貴夫さん。大学生のころからアフリカに通い始め、ブルキナファソを中心に、西アフリカの子ども、NGO、宗教、環境、食文化、伝統建築…さまざまなことに関心を持ちながら研究活動をされています。
清水 貴夫(Takao Shimizu)
京都精華大学人文学部 准教授
明治学院大学国際学部卒。民間企業、NGO職員を経て名古屋大学大学院文学研究科博士課程後期満期退学。総合地球環境学研究所 (「砂漠化をめぐる風と人と土」 プロジェクト) 研究員)、広島大学教育開発国際協力研究センター研究員、総合地球環境学研究所 (「サニテーションの価値連鎖の提案:地域のヒトに寄り添うサニテーションのデザイン」 プロジェクト研究員)、京都精華大学アフリカ・アジア現代文化研究センター設置準備室・研究コーディネーターを経て、現職 (総合地球環境学研究所客員准教授を兼任)。 研究のキーワード:西アフリカ (ブルキナファソ、ニジェール、セネガル)、子ども、イスラーム、教育、食文化、環境 (砂漠化問題、サニテーション)
【著書】ブルキナファソを喰う!(あいり出版)
京都精華大学
https://www.kyoto-seika.ac.jp/edu/faculty/shimizutakao.html
清水 貴夫 (個人ウェブサイト)
https://shimizujbfa.wixsite.com/shimizupage
赤提灯 ~俺とアフリカとドラゴンズ~ (Blog)
https://cacaochemise.blogspot.com/
奥 祐斉(Yusai Oku)
株式会社bona 代表取締役
108の国と地域を回った旅人。イベントやツアー企画、プロダクト開発、場づくりなどを通じて、人と人を繋ぐことを積極的に行う。東アフリカや西アフリカを中心に企画型の旅を提案する。日本国内においては、京都を中心に企画・募集型の旅を主宰。また、スパイスの輸入を行い、全てアフリカ産のスパイスにこだわった「アフリカコーラ」などのプロダクト開発も行う。かつて暮らしたアフリカで心が救われた経験から、日本にアフリカの多様で大らかな価値観を輸入すべく活動を続けている。趣味は、アフリカで坊主にすること。「坊主とアフロと」と題して、Pod castを展開していく予定。
株式会社bona
https://bona.world/
奥 祐斉 Instagram
https://www.instagram.com/yusai0214/
奥 祐斉:清水先生は、西アフリカ・ブルキナファソの食の本も出されていますし、僕の中では、ブルキナファソ、食、そして納豆(スンバラ)、そういう印象が強いんですよね。正直、ブルキナファソに辿り着くって、普通に生きていたらなかなか無いことじゃないですか。なぜ辿り着いたかというより前に、まずは清水先生の人物像を知ってもらう上でも、どういう家庭で育ったのかなど、少し教えていただけますでしょうか?
清水貴夫:出身は千葉県なんですが、父が転勤族だったので色々な場所を渡り歩いていました。伊勢、鳥羽などの三重県で幼い頃を過ごし、小学校2年生のとき千葉県に移りました。バブル期の子供だったこともあって、有難いことに経済的には苦労も無かったですね。その後、親の脛をかじって、中高は私立の名門校にも行かせてもらいました。
奥 祐斉:確か、有名な進学校に通われていましたよね?
清水貴夫:はい。先日、卒業30周年ということで同窓会に行ったんですが、医者、弁護士、中小企業の社長などが勢揃いしていましたね。なんかもう、キラキラしていて近寄れないぐらいの感じの人たちでした。(笑)
小学校の頃は、お山の大将だったんですよね。なので、本当に大きな猿山に行った時に初めて打ちのめされるわけですよ。そこで、落ちこぼれました。それなりにちゃんと悪いこともしました。アフリカにスッと入っていけたのは、そんな経験もあったからじゃないかなと思います。
奥 祐斉:落ちこぼれからのアフリカ。僕と一緒ですね。変な度胸ができるんですかね。
清水貴夫:アフリカに行って、吸っちゃいけない葉っぱを吸っている人がいても、ふ〜んみたいな感じで見れるし、まあ適当なところでやめておきなよと言いながら過ごせたのも、この時の経験があったからかもしれません。ちなみに、落ちこぼれ方は割と半端じゃなくて、ちゃんと高校で留年しました。(笑)
「食」の原点は、意識が遠のく激辛カレー
奥 祐斉:そうなんですね。いつ頃からアフリカに関わって行くことになるんですか?
清水貴夫:少し話はそれますが、学校の近くにカレー屋があったんですよ。「メーヤウ」という、今でも伝説のカレー屋なんですけど、ぜひ食べて欲しい。

奥 祐斉:どこの場所にある、どのようなカレー屋さんなんですか?
清水貴夫:早稲田駅のそばにありました。今は、移転して西早稲田駅です。30年以上通ってますね。ここのカレーが、驚くほど辛いんですよ。夏場に学校の仲間とそこのカレーを食べに行っていたんですけど、食べ終わると、あまりにも辛いので耳の奥が痛くなって、一瞬何も聞こえなくなるし、しばらく何も考えられなくなるほど気が遠のく感じです。辛すぎて。
奥 祐斉:どういうことでしょう?辛すぎるからって、そんなことあるんでしょうか。(笑)
清水貴夫:あるんですよ。なんか、辛すぎて起きるその現象が面白くて、みんなでキャーキャー言いながら食べていたんですよね。エスニックな食べ物への入り口は「メーヤウ」にあったような気がします。家庭のカレーでは食べたことのないスパイシーなカレーで、なんだ、感じたことの無い、この辛さは!!みたいな衝撃でしたね。
強烈な恩師との出会いが、アフリカへの道を加速させる
奥 祐斉:エスニックの刺激が、「食」の世界へ通じていく入口になったんですか?
清水貴夫:そこからというわけでもないのですが、その後、エスニックへの憧れの色んな小さな要素が、 どんどん結晶していくんですよ。その後、大学に進学したんですが、留年して、浪人して、さらに、ちょっと更生しかけたんです。
奥 祐斉:それって、どういうことですか?更生しかけたって。(笑)更に意味がわからないんですけど。
清水貴夫:留年した時に、父が多分唯一流した涙を見たんですよね。情けないやら、悲しいやら、ムカつくやら、色々な気持ちがあったと思います。その時、自分でも食べられるようになりたいなと思って、法学部に入り、ダブルスクールをやっていたんです。大学とは別で法律の学校に通っていました。
奥 祐斉:全然違いますね、今のキャラクターと。(笑)
清水貴夫:大学は真面目に通いましたね。でも、ある時、友人に「変な先生がいるから遊びに来い」と誘われたんです。これがアフリカへの扉でした。僕が通っていた明治学院大学には、アフリカ研究で有名な政治経済学者の勝俣誠先生という方がいたんですね。でも、その先生じゃなくて別の先生で、森本栄二先生と言う先生でした。その先生、見た目から変な人でしたね。髪型はボブで、白い30cmくらいのヤギ髭で、常に黄色いシャツと黄色いパンツを履いてる先生でした。
奥 祐斉:かなり尖ってますね。(笑)その先生が、アフリカに出会うきっかけになったんですか?
清水貴夫:普段の言動は個性強めなんですが、1年に何回かいいことを言うんです。その先生は、幾つかの国連機関の職員として西アフリカに10数年向き合って来られたというのもあって、珍しい経歴だなと思って気になったんですよ。森本先生から聞くアフリカの話は、何だかキラキラしていて、本当に楽しかったんです。中でも、森本先生の話で印象に残ったのは、アフリカの話をする時に、アフリカの貧しさとかを語るのではなくて、アフリカの人たちとコミュニケーションがいかに楽しいかということなんです。僕ら人間にとっての幸福な生き方とは何かを問いかけられていたようにも思います。結局、その先生の研究に関心を持って、国際学部に転学科して、アフリカ地域研究、国際開発論を専攻して、森本先生のすべての講義、ゼミに通うようになりました。
奥 祐斉:では、森本先生との出逢いがあって「人」に繋がっていく感じなんでしょうか?
清水貴夫:そうですね。多分、そこからどんどん結晶していった感じです。僕が大学生の頃ってバックパッカーが当たり前の時代だったので、夏休みや春休みになるとリュック1個背負って、実際にアフリカに行っていましたね。初めての海外旅行は1997年に行ったケニアです。地平線があって、サバンナが広がり、シマウマが普通に歩いていて、マサイ族がいるというイメージ通りのアフリカがそこにありましたね。その後、2度目のアフリカ旅行で1998年頃にブルキナファソに降り立った感じです。
奥 祐斉:なるほど。アフリカの入口として、ケニアはいいですよね。ワクワクしますもんね。僕も大学時代はバックパッカーでした。何だか、同じようなことをしていたんですね。急に親近感が沸きました。大学卒業後は、ストレートに就職されたんでしょうか?
清水貴夫:進学を考えていたんですけど、父親が大学4年生の時に亡くなって、実家のこともあるし、就職かなと思って。でも、就職活動も、進学の勉強も、旅行も続けていましたね。
奥 祐斉:自分も大学4年生の時に進学するのか、旅に出るのかを悩んで、家族に後押しされたこともあって旅に出て、そのまま、JICAに行きました。

僕はアフリカで飯を喰います!宣言
奥 祐斉:その後は、どんな選択をされたんですか?
清水貴夫:普通に民間企業に就職しました。海運業界だったんですけど、4年ほど働いた頃に悩んでいたんですよね。結局、辞表を出すことを決めて、教科書通り、「一身上の都合により退職を希望いたします」みたいな文面で提出したんですけど、当然面談があるじゃないですか。「どうした?」みたいな感じになるわけですよ。
その時、もう言うことは決めていて、「僕はアフリカで飯を喰います!」って伝えました。ちょっと、漫画の読みすぎじゃないかって感じですけど。

清水貴夫:実は、会社にいる間も大学生の頃から関わり続けていたいくつかのNGOでボランティアをしていました。会社を辞めてすぐにその中のNGOの1つの駐在員としてアフリカに行くことになりました。現地駐在として7ヶ月ほどブルキナファソにいたんですけど、その時は、そのまま開発援助の業界でいくのかなって思っていたんですけど、実際に行ってみたら正直すごくがっかりしたんですよね。
奥 祐斉:その気持ち、なんだかわかる気がします。(笑)
清水貴夫:多分、それぞれがっかりするポイントってあると思うんですけど、NGOの世界も資本主義の波にさらされていると感じたんですよね。資本主義もそうだし、ネオリベ的な世界の中に、NGOもあるのかなと。例えば、プロジェクトを1個作るために、アフリカの状況をいかに酷く書くかということだったりとか。こういうことが納得できませんでした。NGOとか開発援助って、アフリカの人たちを“未開な人たち”として描くような傾向があって、なんかそういう方程式になっているんですよね。
僕が関わったNGOのある人が、村の人たちの食事を見て、“葉っぱ汁”という言い方をしたんです。それ聞いて、「えっ」と思うわけですよね。当時はよく知らないながらでしたが、すごく違和感を持ちました。その後、食文化の研究をしていくと、その“葉っぱ”にもたくさんの種類があって、旬のものがあり、乾燥させた方が美味しいとか、その辺の雑草を食べているわけではないことがわかるわけです。今でこそ、そこに文化があるということを言語化できるようになりましたが、当時の僕は、そこまで深くは解らないながらですけれど、ただ、その人が言っていることはおかしいということはわかったんです。
奥 祐斉:確かに、そうですね。
清水貴夫:なので、このプロジェクトベースというのが良くないんだなって気づいていくんです。そのプロジェクトを取るために申請書をどう書くかみたいな、そういう専門職みたいな人が出てきたりとか。ロビイングみたいなことが仕事になっているように感じてしまい、やっぱり違うなと思って。自分がやりたいことは、これではないってハッキリ気づいた感じでしたね。それとともに、ブルキナファソでやっていくためにはフランス語が必要だと思ったんですよね。
フランス語を学びながら、英語で大学院の試験生活が始まる!
奥 祐斉:ブルキナファソから帰国して、フランス語を習い始めたのでしょうか。
清水貴夫:1度帰国して、すぐにフランス語を勉強し始めましたね。幸いなことに、受付の女の子と恋に落ちまして。
奥 祐斉:それも、モチベーションになってた感じですね。(笑)
清水貴夫:ただ、邪な気持ちで通っていたのもあったので、全然伸びないんですよ。違う方に目がいってるんで、これはいけないと思っていた時にちょうど振られたので、傷心のままフランス行きを決めました。南フランスのトゥールーズという町で、フランス語の勉強が始まりました。


清水貴夫:そんな中、方向性についてちょっと悩んでいたこともあって、学生時代のゼミの先輩に相談をしたんですよね。すると、「あなたのその問題意識っていうのは、いわゆる文化人類学に非常にフィットするはずだから、文化人類学をやってみたら」と言われて、それで、進学を目指すことにしました。そこからは、午前中はフランス語の勉強をして、午後は英語の本で文化人類学の勉強をする生活でしたね。
奥 祐斉:なるほど。その方のアドバイスが、今に繋がっていくんですね。それは、フランスでの出来事なんでしょうか。
清水貴夫:はい。その時は、まだフランスにいました。なので、フランス語の勉強を続けながら、大学院の入試の対策をしたり、お世話になる先生にコンタクトを取ったりしていました。
奥 祐斉:その結果、大学院に進学されて、博士まで進学されたんでしたよね?
清水貴夫:はい、そうですね。まぁ、もう楽しくてね。ブルキナファソ1本でいきましたね。
奥 祐斉:結果的には、NGOでブルキナファソに派遣されることになって、そこでの出会いがそのままいかされているということですね。
清水貴夫:そうですね。NGOはいくつか関わっていたのですが、今でも“緑のサヘル”というNGOとはお付き合いがあります。ブルキナファソで活動してるNGOは大体何かしらにちゃんと関わりました。
後編へ続く
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