LIFE STYLE | 2023/11/07

戦場になったウクライナから母親を呼び寄せるも「帰りたい」と言われてしまう…日本で活動するウクライナ人アーティストが語る「国外避難生活」の難しさ

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ウクライナの民族楽器「バンドゥーラ」奏者・歌手として、日本を中心に国内外で活動を続けるカテリーナ氏による、祖国の美しい大地や、そこに生きる人々の姿を多くの人に知って欲しいという思いを込めて綴ったエッセイ『ウクライナ女性の美しく前向きな生き方 美人大国・ウクライナ女性の衣食住と恋愛・結婚のすべて』(徳間書店)が今年9月に出版された。

同氏は1986年にチェルノブイリ原子力発電所から2.5km離れた町「プリピャチ」で生まれ、生後30日で原発事故により被災、一家は町から強制退去させられることとなった。その後、6歳の時に原発事故で被災した子供たちで構成された音楽団「チェルボナカリーナ」に入団し、以来海外公演に多数参加。その際に訪れた日本の素晴らしさに感動し、2006年、19歳の時に音楽活動の拠点を日本に移している。

本書はタイトル通り、主にウクライナ人女性のライフスタイル紹介がメインではあるが、2022年に起こったロシアによるウクライナ侵攻によって被った影響についても多くのページを割いて記されている。

本記事では、侵攻発生のためカテリーナ氏がウクライナに住む母を日本に呼び寄せた際のエピソードを紹介する。国外での避難生活が具体的にどんなものになるかを知らなければ「自国が戦場になったら迷わず逃げるべきだ」「保護してくれる国があるなら、生命の危機を感じなくて済むからいいじゃないか」と思ってしまうこともあるが、そう簡単な話ではないということを教えてくれる。

※本記事はカテリーナ『ウクライナ女性の美しく前向きな生き方 美人大国・ウクライナ女性の衣食住と恋愛・結婚のすべて』の内容を再編集したものです。

カテリーナ (Kateryna)

ウクライナの歌姫・バンドゥーラ奏者。
1986年、ウクライナ・プリピャチ生まれ。生後30日でチェルノブイリ原発事故により被災。
6歳の時に原発事故で被災した子供たちで構成された音楽団に入団、故郷の民族楽器であるバンドゥーラに触れ、演奏法・歌唱法の手ほどきを受ける。海外公演に多数参加、10歳のときに日本公演のため初来日。
16歳から音楽専門学校で学んだ後、19歳の時に音楽活動の拠点を日本に移すため再来日。
日本で活動する数少ないバンドゥーラ奏者の一人として、また、ウクライナ民謡・日本歌曲・クラシック・ポップスのヴォーカリストとして、CDのリリース、国内ツアーやライブハウスでのパフォーマンスなど、精力的な活動を行っている。現在は、全国各地でチャリティーイベントを中心にライブ活動を展開している。
オフィシャルHP https://www.kateryna-music.jp/
X(旧Twitter) https://twitter.com/kateryna_music

日本で暮らす、母のこと

私の母は戦争が始まってすぐ、ウクライナから日本に避難してきました。

戦争が始まるか始まらないかの微妙な時期から、私は音楽活動を一時休止して、各テレビ局でウクライナ語の通訳として仕事をしていました。

報道局でウクライナから入ってくるニュースを通訳していたので、ウクライナの状況をどこよりも早く知ることができました。それで、ロシアがウクライナに侵攻して本格的に戦争が始まる前から、当時まだウクライナにいた母に、「ロシアからの爆撃は時間の問題だから、今すぐシェルターに逃げたほうがいい」「すぐ逃げられるように、荷物をまとめておいて」などと、まめに連絡をしていました。

いよいよ戦争が始まるという頃から、母とは顔を見ながらスカイプ(Skype/ネット経由で世界中と通話ができるソフト)で話すようになりました。やはり母の顔を見ながら話すと、少しだけ安心できたからです。

「とりあえず、気を付けて。また後でね」

とスカイプを切ったあと、急に不安になることが何度もありました。

「後でね」と言ったけれど、5分後には、連絡がつかない状況になってしまうかもしれない。そう思ったら、いてもたってもいられず、切ったあとにすぐにまた連絡してしまうこともたびたびありました。

あるとき、スカイプでのやり取りで、私があまりにも心配ばかりするので「何度連絡してきても同じよ。こっちも忙しいんだから」

と母に言われ、

「心配だから連絡してるの! 少しはこっちの気持ちもわかって」

と、喧嘩になってしまったことがあります。

そのときは、私が怒って一方的にスカイプを切ってしまったのですが、そのあと今は戦争中なのだと思い返して、「さっきはちょっと言い過ぎちゃった、ごめんね」と、すぐ電話を掛け直したこともあります。

戦争前は、気軽に言えた「またね」という言葉ですが、戦争が始まった後は、「この電話が最後かもしれない。もう二度と声が聴けないかもしれない」、人と会っても、「この人とはもう二度と会えないかもしれない」と、思うようになりました。

そう考えると、相手へかける言葉も違ってきます。相手への不平や不満、暗い話題は避けて、より明るい話題で、相手を気遣う言葉を選ぶようになりました。

母の話に戻ります。

先にもお話ししたように2人の姉たち家族はウクライナに残り、70歳になる母だけが日本に避難することになりました。

戦争が始まってすぐの2022年3月6日にウクライナの家を出てもらい、3月21日に日本に到着しました。

じつは日本に到着するまでが過酷な道のりでした。国境近くまで行く列車に乗った母は、混雑する列車の中で11時間もじっと立ったまま乗り続けました。列車を降りてからは、バスに乗ったり歩いたりを繰り返して、長蛇の列ができた入国審査で10時間かかり、ようやく隣国のポーランドに入国することができたのです。

そこから避難所で5日間を過ごした後、やっとそこで日本から迎えに行った私の夫(編注:日本人)と会うことができたのです。

そして、ポーランドの日本大使館で入国ビザを申請して4日後の3月20日に、ポーランドからロンドン経由で日本へ向かう飛行機に乗り継ぎました。

16日間かけて、ようやく羽田空港に到着することができたのです。

決して楽ではない、外国での避難生活の現実

ウクライナに残ることに決めた姉たちからは、「ママは年齢的にも今から海外で生活するのは、精神的にはきついんじゃないの?」と言われていました。

でも、私は、「大丈夫よ、とりあえずは安全で平和なところにいたら慣れるから」と、とにかく1日でも早く安全な日本に呼び寄せなければ、という思いが強くありました。日本に来てしばらくの間は、母も必死に頑張って、自分の辛い思いや悲しい気持ちを見せないように明るく振る舞っていました。

でもそれは、ウクライナにいる人々も日本にいる私たちも、気持ちのどこかで、「戦争は2、3か月で終わるはず」と思っていたことが大きいでしょう。

それからあっという間に3か月が過ぎ、5か月が過ぎても、戦争は終わる気配どころか、ますます激化し長期化するように見えました。

母としては「戦争が終わるまでの少しの間だけ、日本に避難する」という心づもりだったのでしょう。もちろん日本語はわかりません。勉強しようにも、やはり年齢が年齢なので、なかなか言葉を覚えられません。日本の食事にも慣れない……。

じつは母は魚介類、海藻類が食べられません。近所の家で焼き魚を焼く匂いも苦手です。以前、豚汁を作ってあげたら、それも「食べられない」と言うのです。「魚は入ってないから大丈夫でしょう?」と聞いたら、「スープに入っているカツオだしの味がダメ」と言われました。確かに日本食の多くには、カツオや煮干し、昆布のだしが入っています。これらが苦手で食べられないと、日本での食生活はかなり厳しいと思いました。

すると日本に来て半年を過ぎた頃から、母はだんだん「日本にいてもできないことばかり。結局、自由はない」と精神的に追い詰められた気持ちになってきてしまったのです。

私と顔を合わせれば、「帰りたい、帰りたい」とパニック状態のようになって、2人の間でしなくてもいい喧嘩も増えてきてしまいました。

でも私としては、今、母を一人でウクライナに帰すわけにはいきません。

結局、一つ屋根の下にいると、つねに「帰りたいのに、帰れない」という思考から抜けられなくなってしまった母とぶつかってしまう。

それで何が最善かを話し合った結果、母はしばらくの間、一人暮らしをすることになりました。さいわい、日本財団が空いている団地の部屋を借りて、ウクライナから避難してきた人が暮らせるようにしてくれていました。避難所のような団体生活ではなく、一人暮らしができるように、部屋には冷蔵庫や洗濯機などがついています。そこに母も暮らすことになったのです。

母の希望とはいえ、年老いた母に日本での慣れない一人暮らしがどこまでできるのか、不安はありました。買い物くらいなら日本のスーパーでもできますが、地震や台風など不測の事態になったとき日本に慣れていない分、一人で大丈夫かと。

でも、私とつねに顔を突き合わせているよりも、お互いの家を行ったり来たりする距離感があったほうが、母としても気が楽だったようです。

母は一人暮らしとはいえ、ご近所にはウクライナから避難して来ている方々が30人ほどいます。母も最初はすごく喜んで、同じ境遇の皆さんや、なかには同じ年齢の一人暮らしのウクライナの女性も何人かいるので、「皆さんと力を合わせて、何かいろいろイベントでもやろうかしら」と、楽しそうにしていた時期もありました。

でも、現実には、いつも集まるようなコミュニティはできていないようです。

その理由は単純ではありません。やはり皆さん、いろいろな事情でウクライナから日本に避難をしてきています。

家族のこと、仕事のこと、生活のこと、ウクライナのこと、これから先のことなど、それぞれの悩みがあり、ウクライナ人同士でも考え方の違いがあります。ウクライナ人がたくさん集まって楽しくイベントをしたり、食事をしたりして、楽しく過ごす時間もありますが、やはりそれぞれの人の心の奥底には言いようのない孤独感が沈んでいます。

避難したウクライナ人同士が、共同生活をすることが、心のよりどころになるケースも当然あるでしょう。でもなかには、一人で生活したほうが退屈かもしれないけれど、逆に精神的に落ち着く人もいるのです。

誰とも会わない、誰とも話さないのは良くないけれども、私が知る限り、一人の時間がほしい、無理して人に会いたくない、と思っているウクライナ人は少なくないと思います。


カテリーナ『ウクライナ女性の美しく前向きな生き方 美人大国・ウクライナ女性の衣食住と恋愛・結婚のすべて