ITEM | 2020/06/22

「彼女はよくやってるよ」と人は言う。しかし本書は「本当に?」と問いかける【石井妙子『女帝 小池百合子』】


印南敦史
作家、書評家
1962年東京生まれ。 広告代理店勤務時代に音楽ライターとなり、 音楽雑誌の編集長を経て...

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印南敦史

作家、書評家

1962年東京生まれ。 広告代理店勤務時代に音楽ライターとなり、 音楽雑誌の編集長を経て独立。一般誌を中心に活動したのち、2012年8月より書評を書き始める。現在は「ライフハッカー[日本版]」「東洋経済オンライン」「ニューズウィーク日本版」「マイナビニュース」「サライ.JP」「WANI BOOKOUT」など複数のメディアに、月間40本以上の書評を寄稿。

「小池百合子」とは何者なのか

程度の差こそあれ、人は誰しも「自己顕示欲」を持っているものです。たとえば自分を俯瞰してみても、多少はそういう部分があるのだろうなと感じます。

ところが厄介なのは、たまにその“程度”が必要以上に過剰(に見える)人がいること。僕も過去に何人か、そういうタイプの人と会ってきたことがあります。

その結果として感じたのは、彼らにはいくつかの共通点があるということ。

まず特筆すべきは、上昇志向の強さです。もちろん上昇志向を持つことそれ自体は悪いことではありませんが、彼らの多くは暴走しがちなのです。そのため場合によっては、「自分が上に上がるためには人を蹴落とすことも辞さない」という方向に進んでしまうことがあるわけです。

次に、過剰なまでの承認欲求の強さ。客観的に見れば、人は他人にそれほど関心を持たないものです。ところがそういう人は、とにかく自分に視線を集めさせることに躍起になるのです。

そしてもうひとつは、自己顕示欲や上昇志向の背後に儼然としてある「自己肯定感の低さ」。生育環境などに関して過度なコンプレックスを抱いており、なかなかそこから抜け出せないため、「自分が! 自分が!」とアピールすることで“見たくないもの”、“認めたくないこと”から目を逸させようとしているようにも映るのです。

他人はそういうことをすぐ見抜いてしまうものですが、当人は、周囲をうまく操っていると信じて疑わないのかもしれません。むしろ、それが原動力になる場合もあるのでしょう。

たとえばいい例が、いろいろ物議を醸している東京都知事の小池百合子氏です。

少し前、ストリート・アーティストのバンクシーが描いたのではないかと推測される作品を前に、小池氏が市松模様の派手な服装でポーズをとる写真が炎上しました。ああいうことを恥ずかしげもなくやってしまえるところに、彼女の(勘違いを含む)承認欲求の強さが明確に現れています。

非常に洗練されていないのだけれど、そんな泥くささに自分だけが気づいていないという、そういう悲惨さが彼女にはあるのです。

しかしそんな彼女は、よくも悪くも政治家向きの性格だなと感じます。4年前の公約「7つのゼロ」をほとんど達成できていないという時点で失格ですが、あくまで性格的な意味で。

いつだったか、敵対する議員と鉢合わせになった小池氏が相手に満面の笑みを浮かべるシーンをテレビで見たことがありました。相手が誰だったかも忘れてしまいましたが、その時「なるほど、この人は、この作り笑顔で世の中を渡り歩いて来たのだな」と感じたことだけは鮮明に記憶しています。

だからこそ、石井妙子『女帝 小池百合子』(文藝春秋)にもいろいろな意味で納得できたのです。その作り笑顔同様に、彼女の道のりが嘘で固められていたことがわかり、そこに強く納得できたから。

芦屋出身というところから、彼女のイメージは形づくられていった。本人も芦屋を最大限に利用した。雑誌の取材などで「私が芦屋令嬢だった頃」と幾度となく語っている。

芦屋に生まれ何不自由なく育ったが、父親が有名政治家のタニマチになった挙句、衆議院選に出馬して落選。それがもとで家が没落した、というのが彼女の好む、彼女の「物語」のはじまりである。(P17)

著者は実際に芦屋を歩いてみた結果、「富めるものは富み、貧しいものは貧しい。階級の差が、私のような外から来た者にもあからさまに伝わってくる」場所であると感想を述べています。

お金持ちだけが暮らしている高級住宅地ではなく、貧富の差が露わになった地域だということ。

上を見れば、そこには煌めくような世界が広がっている。たくさんの使用人にかしずかれて暮らす同級生がいる。下を見ればまた、そこには最低限の暮らしを強いられ、陋屋(ろうおく)に暮らす人々の世界がある。小池家の暮らし向きは、その中間にあった。(P31)

なお小池氏は父親について、有名政治家のタニマチになった挙句、衆議院議員選挙で落選したために家が没落したという「物語」を好んで口にしていましたが、実際にはそうではなかったといいます。

とにかく成功している人、社会的に著名な人のもとに押しかけ、縁を結んで取り立ててもらおうとするのである。

彼が理想とする人物は、豊臣秀吉だった。(中略)出世したい、偉くなりたい、有名になりたい。それには秀吉のように、とにかくまずは偉い人と知り合うことだと考えていた。(P35)

これは、さしたる信念も持たないまま「政界渡り鳥」として自分の名声だけを重視して歩み続けてきた、小池百合子という人物の生き方そのものではないでしょうか? 血は争えないというべきか。

いずれにしても、嘘を吐き続ける過程でその嘘を信じ切り、それを原動力として生きてきた感もある小池氏の価値観は、おそらくそうした家庭環境によって形成されたものなのでしょう。本書を読むと、そのことがよくわかります。

カイロ大学卒業の是非をめぐる「学歴詐称疑惑」については、駐日エジプト大使館がが先ごろ「小池氏が1976年に卒業したことを証明する」という大学側の声明を出しました。さらに彼女が保有する卒業証書の原本も公開されました。ですが、そもそも1982年に出版された小池氏初の著書『振り袖、ピラミッドを登る』(講談社)にて自身が「1年留年した」ということを記しており、そもそも「1976年卒業」の辻褄が合わないという指摘をはじめ、本書ではカイロ滞在時代の元同居人や、当時交流のあった商社マン・マスコミ関係者などへの取材、「話者が小池氏である」ということを伏せてネイティブにアラビア語能力を問うた検証などを重ね「現地トップ大学の卒業に足りる能力を持ち得ていたのかは、かなり怪しい」という証言を集めています。ただ今後は「大学の声明が虚偽である」という証拠を手に入れない限り、その主張を崩すのは難しいでしょう。

しかし、だからといって小池氏に関するすべての嘘がチャラになったというわけではありません。なぜなら著者も指摘しているように、彼女の人生には発言と行動の間に辻褄の合わないことが多すぎるから。カイロ大の問題だけではないのです。

なお本書については、見逃すべきではない点があります。ノンフィクション作家としての著者の技量が、とても優れているということ。推測や感情に流れることなく綿密な取材を重ね、膨大な資料をとことん読み込んでいることがはっきりとわかるのです。

重要なポイントは、その結果、小池百合子という人の人間性の問題が生々しく、(ちょっと嫌な気分になってしまうほど)浮き彫りになっていることです。

たとえば個人的には、2つのエピソードが特に印象に残りました。まずひとつは、1995年の阪神淡路大震災被災者に対する冷たい態度。

「あったー、私のバッグ。拉致されたかと思った」

本人は「自分は地震を知った時、いち早く現地入りした」とマスコミで語り、当時の村山富市首相の判断が鈍かったから被害が大きくなったと、繰り返し社民党を批判しました。ところが被災者や地方議員の間では、小池氏は「なにもしてくれなかった国会議員」として記憶されているというのです。

たとえば、強烈なのは次のエピソードです。

震災からだいぶ経っても、被災者の厳しい現状は変わらず、芦屋の女性たちが一九九六年、数人で議員会館に小池を訪ねたことがあった。

窮状を必死に伝える彼女たちに対して、小池は指にマニキュアを塗りながら応じた。一度として顔を上げることがなかった。女性たちは、小池のこの態度に驚きながらも、何とか味方になってもらおうと言葉を重ねた。ところが、小池はすべての指にマニキュアを塗り終えると指先に息を吹きかけ、こう告げたという。

「もうマニキュア、塗り終わったから帰ってくれます? 私、選挙区変わったし」

女性たちは、あまりのことに驚き、大きなショックを受けた。

テレビや選挙時に街頭で見る小池と、目の前にいる小池とのギャップ。小池の部屋を出た彼女たちは別の国会議員の部屋になだれ込むと、その場で号泣した。(P214〜251)

先ごろ小池氏は東京都知事選に立候補を表明しましたが、その選挙活動の背後では、またこうした問題が生まれることになるのでしょうか? そんなことを考えずにはいられなくなるほど、小池氏の“二面性”は気になります。

もうひとつ、北朝鮮拉致問題を利用した件についても同じことが言えます。2002年9月17日に小泉純一郎総理(当時)が北朝鮮を訪問した結果、拉致被害者の「5名生存、8名死亡」という悲しい情報が伝えられた時のことです。

記者会見で、先ごろ亡くなった横田めぐみさんの父、滋さんが言葉を詰まらせる場面は、多くの人の心を打ちました。そしてこのとき、横田夫妻の真後ろで涙を拭う小池氏の姿も映し出されていました(YouTubeで確認できます)。

だが、テレビが報じたのはここまでだった。

会見が終わると取材陣も政治家も慌ただしく引き揚げてしまい、部屋には被害者家族と関係者だけが残され、大きな悲しみに包まれていた。するとそこへ、いったんは退出した小池が足音を立てて、慌ただしく駆け込んできた。彼女は大声を上げた。

「私のバッグ。私のバッグがないのよっ」

部屋の片隅にそれを見つけると、横田夫妻もいる部屋で彼女は叫んだ。

「あったー、私のバッグ。拉致されたかと思った」

この発言を会場で耳にした拉致被害者家族の蓮池透さんは、「あれ以来、彼女のことは信用していない」と二○一八年八月二十二日、自身のツイッターで明かしている。(P226〜227)

こうした信じ難いような事実が、本書では続々と明かされていきます。とはいえ読者は、ただ闇雲に非難しているわけではないところに目を向けなくてはなりません。なぜなら著者は、さまざまな証言をもとに、ファクト(事実)を丹念に積み重ねているから。だからこそ、読み手を納得させるのです。

ですから全面的に賛同するのですが、そういうことよりも気になってしまったのは、やはり小池氏の「生き方」です。余計なお節介に過ぎませんが、冒頭に書いたような自己顕示欲や承認欲求を満たすことができさえすれば、それで満足できるのだろうか? やはり、そんな疑問を感じてしまうのです。

もし自分だとしたら、いつかは嘘まみれの生き方に嫌気が差してしまうのではないだろうか……? そう考えたりもしたのですけれど、そういう甘っちょろいことを考えているようでは、政治の世界で名を上げることなどできないのかもしれません。