CULTURE | 2021/07/20

「反ワクチンのモンスター医師」が生まれてしまうワケ。彼らに負けずにワクチン接種を進めるために社会はどう向き合うべきか?

【連載】あたらしい意識高い系をはじめよう(19)

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昨日公開した記事では、 ワクチン接種がある程度進んで「今すぐ打ちたい人」には打ち切った後の「後半戦」においては、“ものづくり大国日本“が比較的得意な「ロジスティクス」的な問題よりも、日本が苦手としがちな「マーケティング」的な問題が大きくなってくるだろうから、今のうちからその専門家の意見を取り入れる体制を作るべきだ という話を書きました。

特に強調したいのは、各種調査を見れば、SNSで目立つ「他人にも接種しないことを呼びかける強い反ワクチン派」の実数はそれほど多くなく、彼・彼女らが接種しなくても集団免疫達成は可能であり、使命感の高い医療関係者がついやってしまいがちな「反ワクチン派をやっつけようとする」ことよりも、むしろ「今は様子見しているが一応打つ気はある」層をいかに取りこぼさないか…について注力することが接種率向上の鍵となるだろうという話でした

そのためには、「接種呼びかけの対象者者のキャラクター」をいくつものパターンで「ペルソナ」として明確化し、それぞれにあわせて最適化したメッセージを発していくというマーケティングの発想が重要になってくるでしょう。

また、「反ワクチン派」には、「自分だけに限った反ワクチン」の人も結構いて、その人を悪魔化せず、「気持ちはわかる」状態に包摂しておくことで、柔軟な「ワクチンパスポート所持者への優遇策」的な武器を人権問題化させずに使うことが可能になるのだという話もしました。

私は「経営コンサルタント兼経済思想家」という肩書で仕事をしている人間なのですが、前回記事は「経営コンサルタント」の視点から、 “ビジネス“界隈では普通な発想だが、ワクチン接種行政に関わっておられる医療関係者や行政関係者が見落としがちな視点 についてデータに基づいてシェアする結構面白い記事になっていると思うので、まだ読まれていない方はぜひお読みください

一方で今回は、「他人のワクチン接種を止めようとする反ワクチン派」、特にその「親玉」の反ワクチン活動家の人たちと社会としてどう向き合っていくべきか? という話をします。

これに関しては、「思想家」的なレベルで

「そもそもなぜ人は反ワクチン的な運動に関わってしまうのか」

について色々と深く考え直す事が必要な部分が沢山あるように思っています。 その論点について深く考えることで、「平成時代」の30年間の日本が「改革中毒」的なかけ声倒れだけを続けながらどこにも進めずに混乱し続けてきた原因は、その解決の方向性なども見えてくると考えています。

倉本圭造

経営コンサルタント・経済思想家

1978年神戸市生まれ。兵庫県立神戸高校、京都大学経済学部卒業後、マッキンゼー入社。国内大企業や日本政府、国際的外資企業等のプロジェクトにおいて「グローバリズム的思考法」と「日本社会の現実」との大きな矛盾に直面することで、両者を相乗効果的関係に持ち込む『新しい経済思想』の必要性を痛感、その探求を単身スタートさせる。まずは「今を生きる日本人の全体像」を過不足なく体験として知るため、いわゆる「ブラック企業」や肉体労働現場、時にはカルト宗教団体やホストクラブにまで潜入して働くフィールドワークを実行後、船井総研を経て独立。企業単位のコンサルティングプロジェクトのかたわら、「個人の人生戦略コンサルティング」の中で、当初は誰もに不可能と言われたエコ系技術新事業創成や、ニートの社会再参加、元小学校教員がはじめた塾がキャンセル待ちが続出する大盛況となるなど、幅広い「個人の奥底からの変革」を支援。アマゾンKDPより「みんなで豊かになる社会はどうすれば実現するのか?」、星海社新書より『21世紀の薩長同盟を結べ』、晶文社より『日本がアメリカに勝つ方法』発売中。

1:他人にも反ワクチンを薦める「運動の親玉たち」にどう対処するか

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「奇跡」と言っていいレベルのワクチンが開発、普及したことで、なんとか「出口」について考え始めることができつつあるコロナ禍ですが、地球温暖化などの影響から、このようなパンデミックは今後も起きる可能性は高いと指摘されています。

その時に、「反ワクチン」的なムーブメントは、人類社会にとって結構重要な課題なんですよね。

前回記事で各種データを元に分析したように、とりあえず今回のコロナ禍について言えば、日本では「反ワクチン運動」と直接対決することなくワクチンによって集団免疫を達成することができそうですが、中長期的な「来たるべきパンデミックへの対処」という意味では、反ワクチン運動に対してもう少し踏み込んだ「社会の対処の仕方」が必要となるでしょう。

つい最近も、日本における反ワクチン派の中で有名なお医者さんのツイッターアカウントが停止されたという話がありましたが、こういうアカウント停止などの措置については、政府やSNSプラットフォーマーがどれだけ踏み込むべきかいろいろな意見があると思います。

個人的には、「まあこの状況下では停止もやむないかな」と思ってはいます。なにしろ完全放置した場合、結果として社会が支払うコストが莫大すぎるので…。

ただ、たしかにその「モンスター化してしまった医師」の言っている内容はちゃんと社会が協力して否定し、間違った言説が広がっていかないように抑止することは非常に大事なことだと思うわけですが、一方で、

「そもそもモンスター医師がそうなってしまう原因」的なところを、長期的に社会がなんとか吸い上げていけるようになることも考えるべきではないか

と考えています。

「鬼滅の刃」的に言えば、社会の中に滞留している「怨念」がモンスター医師という「鬼」を作るのなら、とりあえずその「鬼」を斬る事は躊躇しないにしても、その「怨念が溜まってしまう社会の構造」自体は、その「斬ってしまう鬼」の鎮魂のためにも別の解決の道を模索する事が必要ではないか? ということですね。

2:モンスター医師がモンスター化する前の「魂」を鎮魂する

そもそも、今現在「モンスター医者」になってしまっていたとしても

「モンスターになってしまう前の状態」

があったはずなんですね。

上記のアカウントを停止された医師とは別の人ですが、近藤誠氏という、「標準的ながん治療はすべて間違っている」という主張をされて物議を醸しているお医者さんがいます。最近では新型コロナワクチンの副作用に警鐘を鳴らす内容が含まれた書籍を複数出版し、ワクチン不安を煽る扇情的な週刊誌特集にも登場しており、「彼もワクチン批判派に回ったか」という批判の声も高まっています。

しかし、最近日本のSNS上で、何人もの昔の彼を直接知る医療関係者から、

「モンスター化」する前の近藤氏はむしろ非常に高潔で理想主義的な人物だったのだが、彼の提案の合理的な部分すら当時の日本の医療界が一切受け入れず、無視するどころか非常に侮辱的な対応を行ったことで彼は今の「信者ビジネス」に引きこもってしまうようになったのだ

という証言がなされています。

たとえば岩田健太郎医師が2017年に書いたブログ記事「近藤誠氏との対峙の仕方」や、その他多くの医師によるツイッターでの証言がTogetterにまとめられています。特に岩田氏のブログは当時の経緯と日本の医療界におけるすれ違いが非常に鮮やかに伝わってくる良い記事だったと思うので、ぜひお読みいただければと思います。 つまり、近藤誠氏のような(そして岩田健太郎氏も同種のタイプだと思われるわけですが)

「提案型の理想主義者かつ個人主義的で、寝技のような根回しが苦手な人物」の言い分をうまく吸い上げられない日本社会の問題

というものがまずあって、

そういう人が「平時」に必死に提案したことを受け入れてもらえていないという怨念が蓄積された結果、いざこういう大きな問題が生じた時に「モンスター」として出現し、具体的な政策議論を混乱させる原因となってしまっている

のではないでしょうか。

3:しかし、単に「日本ってだめだよねえ」と言っているだけでは前に進めないんですよ

ただ、ここで単に「日本って体質が古い老害がのさばっている社会だから嫌だよねえ」みたいなことを言っているだけでは日本は前に進めないんですね。

たとえば、似たタイプの医師として、コロナ禍が始まってから、「日本の対策担当者のやっていることを全部否定して逆を言う」言論でワイドショーなどに持て囃され、一方で現場のお医者さんクラスタから総スカンになっている“K氏”がいますね(彼は反ワクチンではありませんが)。

実は、彼がコロナ禍前に書いた「日本の医者の数は政策的に低く抑えられすぎており、特に関東圏において何かあれば医療逼迫するのは避けられない」という趣旨の提言本は、たまたま読んだのですがものすごく勉強になりました。

そういう「個人主義の理想主義者の提案」が黙殺され、今のような有事になって欧米諸国と比べてかなり少ない感染者数でも医療崩壊の瀬戸際に追いこまれる大問題に発展してしまっている背景には、日本医師会や中央官僚の「既得権益」的なものが立ちはだかっているのだ…というのが「平成の30年間」で最もハバを効かせてきた理解の仕方だったと言えるでしょう。

しかし、物事をフェアに見ると、逆にその「既得権益」があるがゆえに保たれている日本の医療関係者の団結による必死の働きによって、ギリギリのところで日本の医療はアメリカみたいに貧乏人と金持ちで受ける医療が全然違うというような事態にはなっていない事情があるとも言えるんですね。

もちろん、その「日本の医師の高い使命感」に依存して彼・彼女らを使い潰すような制度は改め、なんらか合理的で透明感の高い制度に変えていくべきだ…という「改革の方向性」に反対する人はほぼいないでしょう。

しかし、それを「よほどの配慮なしに、ただ“犯人探し”をして誰かを悪者にして殴るだけ」のような解決案では、結局「アメリカのように貧乏人はマトモな医療が受けられない社会」に落ち込んでいってしまう可能性がかなり高いですよね。

「平成時代の日本」はあらゆる分野においてこのジレンマにぶつかり、

・「犯人探し」をして「既得権益の悪者」を叩くだけで結果として弱者にシワ寄せが行くだけの政策が遂行される

か、逆に

・それによって「アメリカ型の格差社会に落ち込むことを忌避するあまり“昭和的な根性主義”で内輪を締め付け、ちょっとした変化も拒否してしまう

「どちらか」しか選べない究極の二択

を迫られて右往左往してきたのだ…という理解をしてほしいんですね。

ビジネスエリートタイプの人は、こういう議論をすると露骨に拒否反応を起こすことが結構あって、

そうやって「日本流」にこだわるから結局何もできずに停滞し続けてきたんじゃないか!

という反論をされることが多いんですが、しかし私のプロフィールを読んでいただけるとわかるような、「グローバル」と「日本の“現場”的会社」のハザマで仕事をしてきた人間からすると、

「グローバル」側、あるいは「アカデミックな知性」を代表する側が、「日本社会」に変化を迫る時に、「あと一歩注意深く相手側の事情を理解できるようにする」

だけで全然変わってくると感じています。

今は、その「グローバル側・アカデミック側」にいる人間が「日本社会の事情」のことをあまりに無理解すぎる例が多く、結果として余計に「日本の主要部で舵取りをする人間」が「あまりにも非グローバルで非アカデミックな人」に占められてしまいがちなんですね。

とはいえ、たとえば岩田健太郎氏が明日から官僚組織の事情を理解して水も漏らさぬ根回しが得意になる、ということは今までの発言内容を見る限り考えにくいわけで、要はそういう「個人主義の理想主義者の提案」を、ちゃんと理解できるぐらいには「グローバルあるいはアカデミック」な視点を持ちつつ、日本社会の事情もちゃんと理解できる「翻訳者(私は“レペゼンする知識人”と呼んでいます)」が色々と差配できるセンターが、日本には必要なのだと考えています。

4:「平成時代の失敗」の「逆」を考える…官僚組織を無意味に叩くのはやめよう

つまり、「既得権益をぶっ壊せ!」と言う前に、「既得権益が現状必要とされている真因」の方に遡ってちゃんと考えるようにしないと、

なんでアメリカみたいにやれないの?日本って馬鹿じゃないの?老害ども全員さっさと滅べばいいのに。もう絶望だよ!

みたいな「平成時代の定番的意見」ばかりが溢れかえっていると、日本社会の方はアメリカ型の超絶格差社会に落ち込まないために、どんどん「昭和的根性主義」に引きこもってしまうわけですよね。

結果として、今のままだと本当に、コロナ禍が去ったらまた結局「完全に今の延長」の制度のままになってしまいそうですが、そうしないためには提案者の意見が有用であればちゃんと吸い上げつつ、現実的な社会の事情とすり合わせて最適な姿を模索する…そういう「機能」がどこかに必要でしょう。

私は中央官僚システムをむしろちゃんと抜本的に強化して、批判者を黙らせるでもなく、逆に批判者と一緒になって「◯◯をぶっ壊せ!」式の既得権叩きムーブメントに仕立てるでもなく、冷静に制度の細部を再設計して日本社会の事情と新しい考え方をすり合わせられるようなセンターとしての機能を持たせるべきだと考えています。

今は官僚システムに余力がなさすぎて、批判的な人物の提案をうまく吸い上げられず、「完全に無視して大雑把に現状維持」してしまうか、「大雑把な◯◯をぶっ壊せ式の暴論で改革する」結果としてどこかにシワ寄せが行くだけで終わり社会に呪詛の声が満ち溢れる…の二択みたいになってしまいがちですよね。

「アメリカ型の格差社会に落ち込まず、昭和的な根性主義に引きこもりもしない」ためには、よほどの高い見識と広い配慮を持ったセンターが必要です。 「平時に色々な提案をフレキシブルに吸い上げてちゃんとすり合わせて実行するセンター」を、日本社会のどこかが持てるようになることが、「反ワクチン運動の親玉になってしまったモンスター」たちをちゃんと抑止していく一方で、

「彼・彼女らの魂の鎮魂」

のために大事なことではないでしょうか。

5:欧米社会は逆に「欧米的な知の構造」に乗らないものを抑圧しすぎている

ここまでは「日本社会」におけるモンスター化の事情について考察してきましたが、しかしこういう「抑圧された怨念が“非科学的なまでの反ワクチン派”を生み出す」というのは、むしろアメリカなどが本場といっていいほどでもありますよね。

欧米社会、特にアメリカにおいても、やはりこの「社会が“標準”として取り入れる考え方の範囲の狭さ」が、アメリカなりに問題を起こしているのだと私は考えています。

ただし日本とは逆に、欧米、特にアメリカの場合は「アカデミックな知のあり方」に社会を思う存分トップダウンで振り回せるパワーを与える反動で、それ以外の人の効力感や本来発揮可能だった能力を奪いすぎているところがあるのではないでしょうか。

たとえば、日本の製造業の現場の「知性」ってすごいところはビックリするほどやはり超すごいところがあって、私のクライアントの話は守秘義務的にできないので公開されているトヨタの話をしますけど、トヨタイムズというオウンドメディアに掲載された「医療用防護ガウンを“1日でも早く、1枚でも多く” (生産工程改善の現場を取材)」という記事によると、コロナ禍で急遽医療用ガウンを急遽製造することになった雨合羽メーカーに、トヨタの生産技術者が指導に行って一緒に製造工程を見直した結果、

一日500着が限度だったのが、なんと一日5万着も作れるようになった!!

そうです。生産量100倍。すごすぎますよね。

そもそもクルマ以外の生産に関わったことが今までほとんどなかったはずなのにこんなことができるというのは、ほとんど「マジカル」なレベルの知性だと思うし、世界中どこに行っても引く手あまたの超優秀人材と言っていいと思います。

ただ、似た感じの私のクライアント企業の社員の例を考えてみると、このトヨタの生産技術者の人は、大卒ではない可能性もあると思うんですね。高卒だったり、高専卒だったりするかもしれない。中卒ということもありえる。

なんというか、13歳で飛び級で大学を出て物理学の論文を書く能力も「知性」だし、今まで扱ったことがない分野の製造現場にフラッと行って生産量を100倍にできる能力も「知性」であって、この2つを「等価に尊重」できるのが本来的な社会のあるべき姿だと思うのですが。

欧米的社会システムは、「知性」という言葉の通用範囲が狭すぎるというか、「13歳で物理の論文」だけが「知性」であり、「知らない分野でも生産量を100倍にできる」の方は「知性」に値しない扱いになってしまいがちですよね。

この点は、最近話題のマイケル・サンデルの本『実力も運のうち 能力主義は正義か』においても厳しく批判されていて、アカデミズム(学問界)の内側にしか「知性」がないと思っており、現場的なスキルを磨く機会に投資する額が少なすぎることがアメリカ社会の大問題だと指摘されています。

そういう「アカデミズムの内側だけを重視する」社会のあり方が、現場作業的な役割をこなす層の貧困を固定化しているだけでなく、彼らの自己重要感を不当に奪う結果になり、社会を不安定化させているのだという指摘は、サンデルというアメリカの有名大学教授の言葉だと考えると余計に重いものがあると感じました。

6:現場的・学問的知性が手を携えて初めて日本は「昭和的な重さ」から脱却できる

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欧米社会ではAIが浸透すると「こういう現場的な作業能力は一切必要なくなってしまう」という悲観的な予測が多いんですけど、ただ、製造業のクライアントを見ていると個人的には「そう簡単な話じゃないな」と思うんですね。

確かに、「一つの部品を次々と手作業で組み付ける能力」自体は不要になるかもしれないけど、「生産量を100倍に工夫する能力」はむしろもっと必要になるというか。

たとえば、「3Dプリンタが進歩すれば工場作業員なんていらなくなる」とかよく言われているんですが、しかしコストの面とか色々あって、大事なのは「日進月歩のプリンタ技術をちゃんと見極めて、それの適切な使い方をする判断力」の方だな…と私は思っています。

なんかネットニュースでは、「3Dプリンタでコレを作りました!すごい時代ですね!」みたいな記事が結構流れるんですが、よく読むと結局3Dプリンタでは作りやすい部分だけ作っていて、残りは人手で完成させていたりするんですよね。

だからこそ、「新しくできた製造技術をどう活用して、どの工程に使うのか」の判断が、製造技術が日進月歩だからこそ実地に常にものすごく必要とされ続けるわけです。

「この時間とコストなら、まあまだ今までのこのやり方の方がいいよね」

「お、ここまで進歩したのなら、この工程には取り入れたら全体としてコストも必要時間も下がるな」

こういう判断力は最後まで必要とされるので、結局「アカデミズムとは違うタイプの現場の知」の存在を活かす分野は、少なくともドラえもん級に自分で何でも考えて動けるロボット(AI)ができるまでは残り続けると思います。

今の欧米由来の社会構造は、そういう「現場レベルでの工夫の余地」まで、「非常に大雑把なレベルの科学知」が押しつぶしてしまっているのではないか…というのは私の中で常に問題意識としてあって、「反ワクチン」につながる怨念の源泉は、そこにあるのだと思っています。

日本に住んでいるインテリさんの中には、アメリカのように社会が自分たちに「神様みたいな絶大な権力」を与えてくれないのを不満に思っていて、こういう「現場の知性」みたいな話が大嫌いな人が結構います。

で、実際にこういう「現場礼賛」的な言説のかなりの部分は、たしかに単なる無内容な昭和の懐古主義的なものであることも多いのは難しい問題だと思います。 しかし、AI活用事例とか、ビッグデータ的なシステム活用にしても、日本において本当にグローバル規模で「他にない成果」を出しているのは、「現場知」と「学問レベルの知」がちゃんと手を携えた時なのではないでしょうか。

たとえば日本企業における「IT」活用事例として一番有名なのは、コマツが世界中の自社重機の稼働状況を常にモニターしていて、故障を事前に予知するだけでなく、稼働状況ビッグデータを集めて世界中の景気変化まで指数化してしまうコムトラックスというシステムではないかと思いますが、こういうのをIoT(モノのインターネット)とかビッグデータとかいう言葉もない時代から着々と整備できるのは、「限られたインテリの範囲内だけで閉じていない知性の連動」があったからこそでしょう。

結局今も世界と戦えているのは、「日本って遅れてるよねえ。もうほんと絶望だわ!」とツイッターで毎日つぶやくのにお忙しいタイプ「ではない人たち」の地道な活躍があるからってことなんですよね。

逆に言えば、本当に「現場知」が大事な部分をキチンと場合分けして適切に引き上げる力を「日本のインテリ」さんたちが持てるようになれば、サクサクと「グローバルな合理性」で切ってしまえばいい部分でもグズグズと揉め続ける必要はなくなるし、「現場知」を旗印にするようなタイプの人が持ちがちな「昭和のプロジェクトX型の精神論」から日本が脱却することもはじめて可能になるわけです。

以前「『日本の学術予算は実は簡単に増やせる』という話」というnote記事で書いたように、そういう「現場知との新しい関係性」を生み出しさえすれば、今日本中で問題になっている学術予算の問題も、それを存分に手当できる社会的合意も容易に得られるようになるでしょう。

そしてそれは、多くの大真面目な“科学者”の方に非常に好評をいただいた当連載の昨年のこの記事で書いたように、『科学的に何かが正しいと言明することのあまりの大変さ』を本来的なレベルで理解すればするほど、適切なレベルで「現場知」との連動関係を作っていくことは、「科学は万能じゃないんだよ」というよりも、むしろ「より本来的な科学的態度」だとすら言えるはずです。

私は以前からずっと憤っているのですが、

こういう「現場知」的なものに対して、今の欧米型の社会システムはあまりにも無知すぎて、結果として無邪気な欧米礼賛型の“日本におけるリベラル派”も日本社会の現実から遊離しすぎているために、日本社会を大きな混乱なく統治するには「昭和的な重苦しいもの」に頼らざるを得なくなっているのだ

という因果関係について、皆さんにぜひ一緒に考えてみてほしいと思っています。

これは私の著書で使った図なのですが、

「日本社会に変化を求める側」が、「欧米社会の良くない部分の独善性」に無自覚すぎる形で日本社会を攻撃するので、自分たちの美点を崩壊させないために「昭和的なもの」から縁を切れずにいるんですよ。

むしろ、現代の米中冷戦時代には、「欧米社会の独善性を掣肘しつつ、彼らの理想自体は消さない」ような、「人類の1割程度の特権階級である欧米社会の理想を、“その外”に広げていくための配慮」について身を持って深い知恵を持っている国としての日本の可能性を追求していくことが重要な課題であると私は考えています。

とにかく、「反ワクチン言論」的なるものへの対処っていうのは、新型コロナ禍においてはもちろん、そして現代の地球温暖化時代には次々と「次のパンデミック」も起こり得る状況の中で、世界中で非常に重要な課題になっています。

そこを、「現場的知性を無視し、大雑把な“エビデンス”を、それが本来必要ない、不適切なレベルにまで社会のあちこちで押し付ける欧米型社会の歪み」的な観点から、より広いタイプの人間の知性への「敬意」の払い方…という点を、日本文化の美点として考えてみるべきタイミングなのではないでしょうか。

そしてこの「グローバル視点・アカデミック視点から日本に改革を迫る側」があまりに「欧米礼賛」すぎ、日本社会の実情とのすり合わせを軽視しすぎるために、逆に「日本を実際に動かす中枢」がどんどん「非グローバルで非アカデミック」な昭和の根性主義に染められていってしまう矛盾は、今まさに私たちが東京五輪に関する混乱の中で目撃している大問題でもあるでしょう。

そのあたりの矛盾の解きほぐし方について、特に小山田圭吾さんのイジメ自慢や小沢健二さんの万引自慢のような90年代当時からの日本社会のネジレの背景を読み解きながら考察するnote記事でより深く掘り下げましたので、そちらもご興味あればぜひお読みいただければと思います。

今回記事はここまでです。

なんとか、あらゆる配慮を動員してワクチン接種を進めて、なんとかこのツライ「コロナ禍」を抜けて、集団免疫を達成した環境の中で思いっきりマスクなしで電車に乗ったり飲んだり騒いだり、満員の球場で大声をあげてスポーツ観戦したり、狭いライブハウスで皆で歌ったり、しましょうね!

感想やご意見などは、私のウェブサイトのメール投稿フォームからか、私のツイッターにどうぞ。

連載は不定期なので、更新情報は私のツイッターをフォローいただければと思います。noteにもっと深堀りした記事を毎月書いているのでこちらもどうぞ。


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