CULTURE | 2021/03/10

人が生きるために必要なつながりは何だろう?—一般社団法人 WATALIS

よく晴れた2019年11月のある日、宮城県沿岸のまち、亘理町のカフェに、一人、また一人と女性たちが集まってくる。この日は...

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よく晴れた2019年11月のある日、宮城県沿岸のまち、亘理町のカフェに、一人、また一人と女性たちが集まってくる。この日はフラワーアレンジメント教室があって、彼女たちはそれぞれに作品を作り、最後にコーヒーを飲みながらおしゃべりをして家路に着いた。2011年3月、震度6弱の地震と、町の半分を飲み込む津波があった時は、こうした日常を送ることが難しかった——と、一般社団法人WATALIS(ワタリス)代表の引地恵さんは振り返る。だからこそWATALISを設立し、震災翌年から女性がものづくりで集まる場をつくってきた。震災から間もなく9年が過ぎる。町は少しずつ元の姿を取り戻しつつあるように見えるけれど、見えない心の傷は会話の端々に現れる。引地さんは考え続けている。人が生きるために必要なつながりは何だろう。そのつながりを守るために、自分たちにできることは何だろう。

「ここにいると、寂しさを忘れられるようです」

「今月は正月飾りを作ります」と、フラワーアレンジメント講師の八柳真紀さんが講習を始めていく。手には造花のハボタンや松ぼっくり、センリョウなどでできた見本作。「迎春」と書かれた飾りも差してある。

ここは、亘理町の住宅街にある「中町カフェー」。WATALISの事務所に隣接する、全席14席の小さなカフェだ。

午前10時。白い壁に、暖色のライトが反射して室内が明るい。午前の部に参加した9人の目の前のテーブルには、それぞれの材料とハサミやテープ、針金などが並べてある。

彼女たちは説明を聞きながら、講師の作った華やかな見本と、目の前の素材とを見比べる。手順を聞き漏らさないよう真剣な表情の人がいれば、自分にできるだろうかと不安そうな人もいる。

「作品を家に飾って、お正月がにぎやかになったらいい」と参加者の一人、菊地勝子さんは言う。ワークショップは毎月楽しみにしているという。

「家にいて、誰とも会わない日が多いから」と菊地さんが静かに話し始める。

亘理生まれ、亘理育ち。77年間、ずっとこの町に住んできた。長年勤めた会社を退職し、定年後の生活を楽しんでいた頃に地震は起きた。どこにも行く場所はなく、ただ家の中にいる日が増えた。一人でいた。町を離れた友達もいるし、町に残っていても、ほとんどの人の生活が一変していた。

菊地さんは言う。右手で胸をトントンと小さく叩く。

「心のこの辺に、ポッと穴が空いたみたい。友達のことを、慰めることができなくて。はげましても、『どうやって頑張ればいいの?』って言葉が返ってくる。何とも言えない寂しさです。薄れたとしても、忘れられない寂しさです」

菊地勝子さん

震災翌年に始まったこのワークショップには、ほぼ毎回参加してきた。ものづくりも楽しみだけれど、この場所でできた友達と会えることが何よりもうれしい。ワークショップの話になると、菊地さんの表情が明るくなる。

「月に一度、街に来てここに参加して、コーヒーを飲んだり話したり。それが今の唯一の楽しみ。ここにいると、寂しさを忘れられるようです」

WATALISでできた友達、馬場キヨさんと正月飾りを作る。完成は近い

ただ集まるのではなく、ものづくりで集まる

「震災後の亘理には、誰かと何かを作る場が必要でした」とWATALIS代表の引地恵さんは振り返る。

被災すると、これまで当たり前にあったさまざまな“人と出会う場”がなくなった。地域の行事が止まり、公民館に集まるイベントが中止され、個々の家に出入りすることも減った。

引地恵さん

だから、引地さんらは2011年10月にWATALISを立ち上げ、翌年から地域の女性たちが集まるワークショップを開いてきた。講師を呼び、編み物を習ったり、お手玉を作ったり。近年は月に一度、フラワーアレンジメントと小物作りを交互に実施している。

「“ものづくり”を介して集まることが重要だと思いました」と引地さんは言う。震災直後は「ただ集まる、話す」ということがとても難しかったからだ。

「お互いの生活環境が大きく変わっていて、お茶を飲み、話すためだけに集まると、言いたくないことを言ったり、聞きたくないことを聞いてしまうかもしれない。そういう不安がありました。でも、自分の好きなものを作る場なら、いいね、かわいいね、と言い合いながら、誰かとつながることができます」

そう話す引地さんの手元には、鮮やかな和柄の巾着袋がある。「FUGURO(フグロ)」と名付けられたこの商品が、WATALISを設立したきっかけだ。

FUGUROは着物地で作る巾着袋

「ありがとうに備える生き方」を形に

2011年3月、震災が起きた当時、引地さんは町立郷土資料館の学芸員だった。津波で、町はほぼ半分が浸水した。失われたものは多く、町を出ていく人も増えていた。資料館の仕事として、町の文化を記録しようと調査をしていた時、FUGUROをつくるきっかけとなる「おばあちゃん」と出会ったという。

その女性は若い頃、子どもや自分の着物を手作りしていた。その時余った切れ端で巾着袋も作り、とっておく。誰かにお礼やお返しをする時があると、その袋にお米を詰めて贈ったという。

「袋」が、亘理では「ふぐろ」と呼ばれてきた。引地さんには、その女性が手にする「ふぐろ」が、単なる「袋」ではなく、“つながり”を大事にしてきた彼女の生き方を象徴するものに見えた。

「人は誰かに頼らないと生きることができない、と分かっている生き方だと思いました。いつでも、誰かに感謝をする準備がある。ありがとうに備える生き方が、この地域には伝わっていたんです」

引地さんはそう話す。思い出すのは父のことだ。

引地さんの父親は、2011年5月に病気で亡くなった。当時の引地さんは、役場の職員として救援物資を仕分けたり、配ったりする毎日だった。寒い体育館に立ち続け、慣れない、大量の仕事に追われた。住民たちの、やり場のない憤りをぶつけられることもあって、身も心もすり減っていた。

父のことに十分に気を配れていた自信がない。いつでも言えると思っていた「ありがとう」を、伝えることはもうできない。

そんな時出会ったのが、「ありがとうに備える巾着袋」。被災した呉服屋から着物を譲り受ける機会にも恵まれ、着物地で小物を作るWATALISを地域の女性たちと立ち上げた。巾着袋の商品名は「FUGURO」に決めた。震災から1年が過ぎた、2012年春のことだった。

ものを作るから、つながれる

WATALISは、2013年に一般社団法人として活動を本格化させた。FUGUROなどの市販品は、研修を重ねた女性たちが作る。「彼女たちは熟練の職人です」と引地さんは言う。

2015年には、着物地を使った小物の製造・販売事業を株式会社化した。一方、一般社団法人のWATALISは、会社とは別に、カフェの運営やワークショップを続けている。こちらは商品ではなく、ものづくりの好きな人たちが仲間と楽しめる場をつくっている。

こうして現在まで続いているのが、冒頭のワークショップだ。

今月のワークショップには計18人が参加した。作品が完成に近づくと、少しずつ緊張の糸がほぐれ、あちこちで会話が始まる。新しい習い事のこと、パートナーの愚痴、最近の若者の話……。

「うちの夫は寝てばっかり」「最近の若い子は、男も化粧するんだって」——。コーヒーの香り漂う店内で、いくつもの会話の花が開く。

参加者たちの表情は明るい。「イメージ通りのものが作れました」と佐川久美さんは満足そうに話した。川口亮子さんは、復興支援をきっかけに名古屋から移り住んだ。「すごく楽しくて、忙しくてもこの時間は絶対に空けています」。初参加の人も、完成した作品を褒め合えばすぐに打ち解ける。

参加者の手元には完成した正月飾りが二つ、三つと並ぶ。ある人は孫にあげるといい、ある人は友達に贈るという。

「ものを作ることは、人とつながることでもあります」と引地さんは言う。

「ものを作る時は、贈る人の顔を浮かべなさい」——。「FUGURO」の製品化を手伝ってくれた、地元の女性の言葉だ。

何かを作るために集まり、つながり、作ったものを誰かに贈ることで、また人とつながる。“もの”を介したつながりが、あちこちに広がっていく。ものを作れるということは、そうしたつながりを自ら結べるようになることでもある。

WATALIS立ち上げ当初の講師、齋藤淑子さんは、ワークショップで変わっていく人たちの姿をたくさん見てきた。

「(参加した)みんながうれしそうに『来てよかった』と帰っていくんです。自分でものが作れるようになって、友だちにあげたい、孫にあげたい、教えてあげたい、と」

齋藤さんにとっても、WATALISは大切な場所だ。

齋藤さんは、地元で洋裁や和裁、編物を教える家政学校の教員だった。20代で教壇に立った編み物の達人。震災後、ワークショップでは久しぶりに「生徒たち」に囲まれた。自然と力が湧いて出た。

「たくさん人が集まって、もう一度教えられる、とうれしかったですよ。休憩なんていらないくらい」

齋藤淑子さん

「顔の見える関係」をつなげていく

被災した各地域では、女性たちがものづくりで集まる場がいくつもできた。『復興から自立への「ものづくり」』(飛田恵美子著、2019年、小学館)によれば、その数は数百にものぼる。

「震災直後は始めざるを得ない状況が各地であった」と引地さんは感じている。ただ、立ち上げた事業を続けていくことはとても難しい。次第に支援の手は減っていく。「新しいこと」を求められる。「持続が大事」と誰もが言うのに、「続けること」を支えてくれる人は少ない。

「初めはいろいろな注目が集まって、応援してくれる人も多くいます。一方、続けることは地味で、根気のいることなんです」

震災から間もなく9年が過ぎる。町は、目に見えるハード面の整備は進んでいく。それでも、それぞれの人に目を向ければ、その状況は多様で、複雑だ。

沿岸部にも家は建ち始めているが、爪痕はまだ残っている

「このワークショップに来て、『きょう初めてしゃべった』という方がいっぱいいるんです。そういう人たちにとって、WATALISが楽しい場であってほしい」と引地さんは言う。

頭にあるのは、学芸員だった頃から、昔の町の話を聞かせてくれた女性たち。決して裕福ではない環境で、戦争を乗り越えて、家に尽くして、子育てをしてきた。どうして真面目に暮らしてきた彼女たちが、子育ても仕事も終えた晩年に、こんなに孤独な思いをしなければならないのだろう——。

だから引地さんは、そんな彼女たちが楽しめる場をこの町で続けたいのだという。

WATALISは設立8周年を迎えた。引地さんは「事業を広げるべきなのかもしれない」と迷ったこともあったが、そんな時だからこそ、「顔の見える関係」を大事にしたいという。WATALISの原点がここにあるからだ。

「WATALISでつくられるものは、顔の見える人のためのものであってほしい。それが、地域のおばあちゃんたちに教えてもらったことです。たとえ小さくても、そういうつながりが続いていくことが、大事なことだと思います」

引地さんは「ありがとう」を伝える袋も、ものづくりで集う場もつくり続けるつもりだ。ここにいる人たちの笑顔が、この町でずっと続いていくように。


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CYCLE JKA Social Actionより転載