リア充への憧憬を捨てる」という悟りの境地
佐賀県唐津市 Photo By Shutterstock
現在佐賀県唐津市に住んでいるが、飲む機会は月に3~4回、日常的に出かけるのはスーパーへ行く時ぐらいである。妻と2人、これで満足した人間関係を過ごせている。思えば私も28歳まで非リアだっただけに、その反動からリア充街道まっしぐらとなったのだが、18年間その生活をしたら「人間関係は広げ過ぎないでもいいし、仲間との楽しそうな交流の様子をSNSで公開しまくることに血眼になっても仕方がない」という境地に入った。
元々「リア充・非リア」はクラスの中だけで完結するカースト制度だったが、ネットの発達は生涯にわたる「リア充・非リア」のラベル貼りを達成してしまったのである。常時知人の生活を監視し、フォロワーがあいつはオレよりも多い……なんてことを嘆く。「いいね!」の数に一喜一憂し、ここでも再び「オレはやっぱり非リアなのか……」と悔しい気持ちになる。
私もそうした面は一時期あったものの、正直どうでもよくなってしまった。それと同時に、いちいち「リア充」「既婚・未婚」「子持ち・子なし」「ハンサム(イケメン)・ブ男」とかのラベルを心底意味がないものだと思うようになったのである。
今、この手のラベル貼りをめぐり、ツイッターではしょっちゅう論争が起きている。そこでは相手を屈服させるまで激しい口調で罵り合い、異論に対しては集団で寄ってたかってボコボコにする。ラベル貼りはますます激しくなり「ネトウヨ」だの「パヨク」だの「フェミ」「ミソジニー」だの思想を巡っても先鋭化していく。
そう考えると、15~20年ほど前のネットに巣食う「非リア」の皆様方はあくまでも自虐的に自らのラベル貼りをし、時に罵り合いはあったものの、淡々とマウンティングをしない交流をやっていたのだな、と思い出される。これはこれで今のネットを観察している身からすると案外「粋」にも見えてくるのだから不思議である。
実は彼らはあの時点で現在私がようやく獲得することができた「リア充への憧憬を捨てる」という悟りの境地に入っていたのでは、と感じてしまうのだ。