CULTURE | 2021/02/05

紅白総合司会に、主演映画ヒット、タレントパワー1位 大泉洋がローカルタレントから国民的俳優になった理由【連載】テレビの窓から(4)

イラスト:ones

木村隆志
コラムニスト、コンサルタント、テレビ解説者
「忖度なし」のスタンスで各媒体に毎月...

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転機はダブルマネジメント体制の確立

大泉はまず大学受験で挫折を味わっている。1994年に2浪を経て北海学園大学に入学したものの志望校ではなく、現役入学生との年齢差があるため、「合コンどころか遊ぶことすらしたくなかった」というほど落ち込んでいたという。

しかし、「このままではまずい」という危機感から演劇研究会を訪れ、「面白い連中がたくさんいた」ことから演劇にのめり込んでいく。1996年、大泉は仲間5人と劇団ユニット・TEAM NACSを結成。彼らの出演舞台を見た人のつながりから北海道の深夜番組に出演し、それが『水曜どうでしょう』(北海道テレビ)での成功につながっていく。

同番組は北海道での大ヒットを経て他エリアでの放送が進み、大泉は全国放送のバラエティ『パパパパPUFFY』(テレビ朝日系)の準レギュラーとして出演。ジワジワと知名度を上げていたが、大泉は北海道のスターとなった現状に満足し、「まさか自分が東京へ進出するとは思っていなかった」ことを明かしている。よく「大泉洋は『水曜どうでしょう』でブレイクした」と言う人がいるが、コアなファンが思いのほか多かった一方で、まだ全国的な人気を得たわけではなかった。

むしろターニングポイントになったのは、2002年に大泉の生命線だった『水曜どうでしょう』が終了したこと。これに危機感を抱いた大泉は東京進出を決意し、大手芸能事務所・アミューズと業務提携したことが大きかった。これまでマネジメントしていたOFFICE CUEは北海道の仕事、アミューズは北海道以外の仕事を手がけるというダブルマネジメント体制になり、“全国区のローカルタレント・大泉洋”が誕生したのだ。

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