CULTURE | 2020/12/17

なぜVTuber「おめがシスターズ・レイ」の出産報告はここまで祝福されたのか?YouTubeという場所に”最適化”しない勇気

「実は、出産しました」より

Jini
ゲームジャーナリスト
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VTuberの出産報告が祝福された理由

おめシスは、最初に紹介した「にじさんじ」や「ホロライブ」に所属するような主流のVTuberと比べると、対照的に思える。生放送ではなく動画が中心で、忌憚なく自分の趣味や主張を表現し、アバターもリボンと、セクシーさよりはキュートさをアピールしたショートパンツで、どちらかといえば中性的なスタンスだ。

ただ、わたしは今の主流のVtuberが下品だとか、がめついとは思わない。彼ら・彼女らとおめシスは対照的だが、それは優劣の問題ではなく、スタンスの問題なのだ。

すなわち、「VTuber」という様式と技術を用いて、一体何を表現するのか?という問題である。スパチャを交えて生放送でがやがやとお祭り騒ぎをするのも一つの「VTuber」だし、ただ自分の趣味を動画にパッケージして公開するのも一つの「VTuber」、つまり各々の数だけ「VTuber」はあっていい。その多様性こそむしろ面白いと思う。

問題(あるいは、気味悪さ)があるとするなら、それは視聴者とプラットフォーム(YouTube)の側にあると私は思う。Vtuberに限らず、表現者と視聴者の距離感が近くなりすぎると、次は表現者をローカルルールや風習でコントロールしようとする視聴者もまた出てくる。そしてプラットフォームはアルゴリズムや広告の「勝者総取り(Winner takes all)」の構造を作り出す中で、ひたすら表現者に「空気を読むこと」を迫り続ける不毛なラットレースに双方を追い込んでいってしまう。その結果、ごく一部の過激なファンが暴走し、それを巷で「炎上した」と冷やかされる。

文化が発展すると同時に、ムラ社会化していくグローバルプラットフォームの中で、おめがシスターズは自立を模索し続けている。一時的にupd8という事務所に所属した時は、少なからずムラへの帰属を検討しているように思われたが、実際にはupd8に所属している間も、また(事務所のクローズにより)再び独立してなお、そのパフォーマンスには一貫したおめシスイズムが存在する。

その最たるものが、11月19日の20時に、おめがシスターズのレイが自身の子供を出産したことを堂々と打ち明けた、「出産発表動画」だろう。

肉体を持たないバーチャル的存在が、(レイの生身としての存在である、おめがのハコという代理人を用意したとして)新たな生命を誕生させた限りなく肉体的事実を表現する動画を投稿することに、レイ自身ですら「賛否両論あると思う」と戸惑いがあったという。

だが実際には、動画のコメントは無論のことSNSにまで祝福の声が溢れ、Twitterではトレンド入りするなど、多くの人に喜ばれた。

私自身、この動画を見て思わず震えていた。

これまで、VTuber文化はピクセルで構成された肉体に精神を宿すという構造から、その背後にある「後ろめたさ」を邪推する人は少なくなかった。

しかし、おめシスは(他の表現者たちと変わらず)「後ろめたさ」など欠片ほども見せず、これまでと同じようにバーチャルの姿を自己主張するために最適化された肉体を用いて、己の定義する自己を表現しきった。

ここに、元来アーティストやエンジニアたちが期待したVTuber的な技術、文化、形式の可能性が、「1億円稼ぐ」ことよりも余程未来のある形で、一つの結実を迎えたと私は確信している。

即ち、自立するためのVTuberである。レイの浪費癖やリオの下ネタ癖の上に、1人の母親として生きるという大きな決断さえ包んだ、自分の信じる自分らしさを、プラットフォームやコミュニティを尊重しつつも束縛されるでなく、貫き通す。彼女たちの対照的な青と赤の衣装と、(自立式)リボンは、正にそのための外装だったのだ。

近頃、私は以前と比べSNSや動画投稿サイトから距離を置くようにしている。本来こうしたグローバルプラットフォームは多様な人々を結び、新たな議論を呼ぶと期待されていた。だが実際には、むしろ同質的な人々の繋がりをより限定された生暖かい暗所でカビのように慰め、プラットフォームは広告展開を最適化する上でますますこの暗所化を促すばかりで、むしろ中世以前のムラ社会を再現していることに、私は失望したのだ。

そんな中、プラットフォームの促す最適化に対して、一部のクリエイターやアーティストが適応する一方でオルタナティブを提示し、ただ楽に流されるだけでない遊び方でコミュニティを形成していく光景も生まれつつある。

おめシスは正にそのオルタナティブの一つであり、こうした表現者たちの勇気こそがプラットフォームの中で新しい価値観を再生していくのではないだろうか。


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