神保慶政
映画監督
1986年生まれ。東京都出身。上智大学卒業後、秘境専門旅行会社に就職し、 主にチベット文化圏や南アジアを担当。 海外と日本を往復する生活を送った後、映画製作を学び、2013年からフリーランスの映画監督として活動を開始。大阪市からの助成をもとに監督した初長編「僕はもうすぐ十一歳になる。」は2014年に劇場公開され、国内主要都市や海外の映画祭でも好評を得る。また、この映画がきっかけで2014年度第55回日本映画監督協会新人賞にノミネートされる。2016年、第一子の誕生を機に福岡に転居。アジアに活動の幅を広げ、2017年に韓国・釜山でオール韓国語、韓国人スタッフ・キャストで短編『憧れ』を監督。 現在、福岡と出身地の東京二カ所を拠点に、台湾・香港、イラン・シンガポールとの合作長編を準備中。
個人の手元に戦争が飛び込んでくるSNS時代
殺人現場、自殺現場、火事、戦場……そんな写真や映像がSNSのタイムラインに飛び込んでくることはもはや日常となった。デイヴィッド・パトリカラコス『140字の戦争』(早川書房)は、「兵器」としてSNSやブログなどのウェブメディアがどのように用いられているかを、イギリス人ジャーナリストがまとめあげた一冊だ。
題名にある「140字」とはもちろんTwitterのことだ。ニュースよりも個人が発するツイートのほうが早く情報が得られることを著者が実感したのは、2014年のクリミア危機に際してウクライナで取材をしていたときだったという。
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やがて私は、自分がふたつの戦争を目撃しているという事実を理解しはじめた。戦争や大砲を使って戦う物理的な戦争と、おもにソーシャルメディアを使って戦う情報戦のふたつである。意外に思うかもしれないが、重要なのは、強力な兵器を有する者よりも、言葉やナラティブによる戦争を制する者が誰かなのだ。(P13)
上記引用に書かれている「ナラティブ(narrative)」という言葉は、本書の重要なキーワードだ。フリージャーナリスト・安田純平氏が巻末に記した解説を引用して、この用語の意味を補足しておこう。
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日本人には馴染みのない言葉で、一般に「語り」といった日本語訳がされるが、事実であるかどうかや論理性よりも、感情的な訴えかけであるという点が重要だ。その時々の出来事や気持ちを誰でも気軽に発信できるツイッターをはじめとするSNSによって拡散されやすく、世論に影響していくために、戦争当事者はこれを無視できないどころか、「ナラティブ戦を制するのはどちらか」という問題が、二十一世紀の戦争の核心をなすまでになった。(P348)
21世紀の戦争では、銃弾やミサイルの撃ち合いによる攻防ではなく、ナラティブの撃ち合いによる感情操作が重要となった。筆者は子ども心ながらに、緑がかった画面内で展開される湾岸戦争での怒涛のような砲撃の映像を、訳もわからず見つめていたのをよく覚えている(今思えば、私が感じていたのは「衝撃」だったのだろう)。やはり当時も、画像や映像のイメージは重要だった。現代の戦争の特徴は、国家によって発信されていた情報が個人の手元から発信されるようになったことによる「戦争のナラティブ(戦線の情報をどの程度世に伝えるかをコントロールして、戦争を正当化する)」から「ナラティブの戦争(フェイク情報あるいは一面的で全体には適用できない情報も含め、自国に有利な情報を作り出し、発信することが戦争を制する)」への戦略転換であると本書では説明されている。
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報道官部隊のソーシャルメディア閲覧者は、スマートフォン画面をスクロールして、目を引いたものしか読まない。「イスラエル国防軍の活動を確認したい方は、次のリンクをクリックして下さい」などというツイートは、まず無視される。(P38)
結果、写真や図表、動画などのグラフィックが重要となり、他メディアとの競り合いに勝つためにそれらはどんどん過剰になっていく。上記の引用はパレスチナ・ガザ地区の武装組織「ハマス」と戦うイスラエル国防軍・報道官部隊のソーシャルメディア活用に関するエピソードだが、つい先日も写真と説明付きで「ハマスは子どもに手榴弾や火炎瓶を持たせ、少年兵として動員している」といったツイートがなされている。
上で述べたように、戦争でSNSを活用するのは国家機関だけではない。2014年のイスラエルによるガザ侵攻の際、当時16歳の少女が「私はガザ地区に住む16歳のファラ・ベイカーです。私は生まれてから3つの戦争を生き延びてきました。でももううんざりです。 #savegaza」と書かれた紙を持った写真をツイートとして投稿した。
続けてロケット弾が飛び交う画像とともに「これが私の住む地域です。涙が止まらない。今夜死んじゃうかも」とツイートし、英語圏で彼女は「現代のアンネ・フランク」として話題になったうえで、イスラエルは大きく非難を浴びた。
イスラエル国防軍の物理的な攻撃対象はハマスの戦闘員だが、国防軍の報道官たちはファラ・ベイカーのような「個人の切なる叫び」に対して「空爆の被害をハマス関連の施設のみで最小限に留めている」「●●地区で子どもが大量に殺されたという情報があるが、それはデマだ」といった情報発信活動で戦っている。自国が有利になるような世論形成を勝ち取らなければ、いくら武力に圧倒的な差があろうとも、非難を浴びたり経済制裁の対象となったりする可能性もあり「試合に勝って勝負に負けた」という結果となってしまう。これが「21世紀のナラティブ戦」の姿なのである。
工業製品のようにフェイクニュースが生産される、ロシア現場ルポ
2016年、ブレクジットを問う国民投票をきっかけに、「ポスト・トゥルース」(感情的訴えかけのほうが世論形成に有利な状況)という言葉がイギリスから広まった。本書の最大の見どころは、ポスト真実時代の核ともいえる、フェイクニュースが工業製品のように効率的に生産されている現場を取材しているところにある。
人々に歓迎される情報とはどのようなものだろうか? 氾濫する情報の中で、より多くの人々に情報を行き届かせるには、視聴者・読者に「ヒットした感覚」を与えることが重要だという。
イスラエル国防軍はあくまで自分たちが有利になるような事実情報や表現手法でもってナラティブ戦を戦ってきたが、完全なるフェイクニュースで戦局を有利にした国がある。それはロシアだ。国の資金で経営されているという、ネット記事量産会社で働いていた人物を著者は取材している。
トロール工場(トロールとは「荒らし」を意味する)と呼ばれるその会社は、ロシアのサンクトペテルブルクにある。失業して困っていたジャーナリスト志望の青年・ヴィターリは、はじめはトロール工場であるとは知らず、オフィスの1階にある「メディア・ホールディングス部門」で働いていた。そこで彼は、ロシアとウクライナの民間企業から発信されている設定で、10ほどのウェブサイトに、ロシアに都合がいいフェイク記事をひたすら書き込んでいたという。
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二階は「ソーシャルメディア部門」だった。ロシア政府の対ウクライナ政策を支持する風刺漫画やミームをつくり出して、ソーシャルメディアで拡散するその部門では、八人ばかりが働いていた。三階では、ウクライナ人を装ったブロガーが、自分たちの置かれた悲惨な状況を訴える偽の記事を書き連ねていた。 (P183)
3階ではアメリカ人のブログをでっちあげて、アメリカの対ロシア政策を批判する記事などが大量に書かれていたというが、プーチン大統領はナラティブの重要さを熟知していて、感情操作に力を入れている実例が他にも多く本書に記されている。
その結果、ロシアはウクライナに対して宣戦布告することなく(ただし軍の関与を示す証拠はネットでも多数公表されている)、住民投票という合法的な手段でもってクリミアを編入してしまった。こうしたナラティブ戦の恐ろしいところは、デマ情報で人々を騙すだけではなく、膨大なデマを撒き散らす行為そのものによって、別の信頼できる機関による真実の情報発信をも「何が本当かわからないから、何も信じられなくなる」という心境に陥れて無効化してしまうことにある。その点においては、日本でも似たような事例が多数思い浮かべられないだろうか。
また本書ではIS(イスラム国)のメディア部門によるナラティブ戦についても触れられているが、ISはハリウッド映画の予告編さながらの扇情的な広告で知られている。そんなの誰がひっかかるのだろうと思うかもしれないが、都市の孤独を覚えている人にはそれが響いてしまうのだという。本書にはISにマインドコントロールされてしまったソフィーというセネガル系フランス人のありふれた女性の実例が、催眠術から覚めたように本人が当時を振り返る形で収録されている。
生産性・即効性があるもの以外、排除された先には何がある?
フェイクニュースにも、この記事が掲載されているFINDERSにも、私がつくっている映画にしても、全てに共通する課題がある。それは「見られるか?」という点だ。先述のヴィターリは、フェイクニュースを作る側の立場からすると、記事作成にあたってこのような留意点があるという。
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「調査やデータがどれほど優れていようと、記事タイトルを疑問形にして、人目を引く画像がなければ、誰の目にも留まらないという事実を私も受け入れるようになりました。二秒見ただけで読みたくなるような画面をつくらなければなりません。」(P256)
いくら良い記事が存在しても、いくら良い映画が存在していても、それを見てもらえなければ意味がない。書評記事の執筆途中にこう書いてしまうのも何なのだが、見てもらうために何が一番起こりうるかというと、内容や表現が紋切り型に、扇情的に、単純になっていくことだ。その競争は、人類の未来に対して果たして有益だといえるのだろうか? 難しくて、長くて、スッとはわからないけれども、心になにかひっかかる表現、そしてそれに対する挑戦はこれから淘汰されていくのだろうか?(と、引用箇所に倣って疑問形にしてみる)。
本書の内容は、はっきり言ってかなり難しい。ロシア対ウクライナ、イスラエル対パレスチナ、ISといった知識があってもスイスイと読み進めることは難しいだろう。しかし、その「難しさ」とおびただしい数の見慣れない名前が醸し出す「わからなさ」が本書の面白みである。
わからないことの何がいけないのかわからないし、難しいことの何がそんなに困るのか理解が難しい。イギリスの経済学者・ケインズは1930年に『Economic Possibilities for Our Grandchildren(わが孫たちの経済的可能性)』という論考を書き残したが、その中では、経済が豊かになって余暇を手にした人々が、その余暇をどう使えばいいのか悩んでしまうという未来が予測されている。
しかし、本書を読むと、「余暇・余剰」の時代に到達する前に、人々はナラティブの大波に気づかぬ内に飲み込まれ、豊かな感受性を育むはずだった神経を根こそぎもぎ取られてしまうのではないかという懸念が沸き起こる。即効性・生産性が重視されているメディアが量産された結果、人は「難しさ」「わからなさ」「遅さ」に対する耐性がどんどん低くなってしまうのではないだろうか。
戦場は戦火の中だけでなく、既に私たちの感覚にまで侵入しつつある。この差し迫る「ナラティブの戦争」という危機をくぐり抜けるための対抗策を、ぜひ本書を活用して整えてみてはどうだろうか。