CULTURE | 2020/05/04

ゴールはベルトにあらず。そう遠くない引退に向けて、僕がもっとも恐れていること【連載】青木真也の物語の作り方〜ライフ・イズ・コンテンツ(6)

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15年以上もの間、世界トップクラスの総合格闘家として、国内外のリングに上り続けてきた青木真也。現在...

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「運任せ」は無責任なことではない

MLBシカゴ・カブスのダルビッシュ有選手が以前、興味深い発言をしていた。野球のピッチャーというのは、どんなにいい球を投げても、たとえ1失点に抑えても、2点取られてしまえば負けが確定するスポーツだ。だから、その日の勝敗だけにこだわりすぎると、かえってコンディションを崩してしまうことがあると彼は言う。これは僕にとって非常に腹落ちのいいコメントだった。

格闘技も同じである。どれだけ腕を磨き、過酷なトレーニングを積んだところで、相手のほうが強ければ負けるときは負ける。だったらそれよりも、その試合で自分がどれだけのパフォーマンスを発揮できるかを重視するのが正解ではないだろうか。

仮に負けたとしても、自分のパフォーマンスに納得できたなら、得るものはあるはずだ。相手がいるスポーツだからこそ、いつでも淡々と自分がやるべき準備をすることは重要で、勝敗によってそのプロセスの価値が左右されるようではいけない。さらに言えば、対戦相手の質や自分自身の好不調の波に左右されるようでは、十分な準備をしたとは言えないはずだ。

以前、ある試合で1ラウンド、それも1分そこそこでKO勝ちを収めた際、周囲は「すごい!」と興奮していた。しかし僕に言わせれば、これはたまたま噛み合っただけにすぎない。周りがどれだけ大喜びしようとも、僕自身は「ラッキーだった」というのが本音だし、逆にあっさり負けてしまったときも、「向こうのリズムにのってしまったな……」と反省する程度で、過剰に一喜一憂しないよう心掛けている。

格闘技の試合は互いの“呼吸”で作られるものだから、打撃をうっかりもらってしまうこともあれば、ラッキーパンチが当たることもある。これは記録のスポーツではないからこその醍醐味とも言えるだろう。タイムなどの記録や、審判の採点によって優劣が決まる競技とは、前提が大きく異なる。

負ければ当然、悔しい思いをするが、大切なのは「勝っても負けてもそれは時の運」と思えるレベルにまで仕上げることだ。運任せというと、ネガティブに捉える人も多いかもしれないが、これはスポーツでもビジネスでも、あらゆる立場の人に通底する考え方だと僕は思っている。

運に任せることは、決して怠惰ではない。やるべきことはすべてやり遂げ、最後は神頼みまでやって、もうこれ以上やることは一切ないという状態にまで自分を追い込んでこそ、人は初めて「勝っても負けても時の運」と思えるようになるものだ。そして、それだけの準備をするのがプロとしての僕の仕事である。