2019年12月20日、慶應義塾大学日吉キャンパスにて、同大学院システムデザイン・マネジメント研究科の開設10年記念公開講座「ラグビーW杯日本招致のフロンティアプロジェクトマネジメント」が開催された。
この講座は、前例のないプロジェクトをどのようにマネジメントすべきか、さまざまなケースから学ぶという内容。講師は、FINDERSで「Road to 2020 スポーツ×テックがもたらす未来」を連載する神武直彦氏(システムデザイン・マネジメント研究科教授)および、JAXAで「はやぶさ」「はやぶさ2」の開発に携わった矢野創氏(同研究科特別招聘准教授/JAXA(宇宙科学研究所)助教)の2名。
今回は、さらにゲスト講師としてラグビーW杯の日本招致に携わった、徳増浩司氏(元ラグビーワールドカップ2019組織委員会 事務総長特別補佐)を迎え、まさしく前例のないプロジェクトをいかに成功に導いたかという内幕が明かされた。
大学院の講義ではあるが、この講演は堅苦しい話は一切出てこない。長く苦しい招致活動は6年にも及んだ(うち一度は落選も経験した)が、徳増氏のユーモア溢れる語り口で軽快に講演は進み、なおかつ多数の示唆に富む教訓が語られていた。
構成:神保勇揮 写真:多田圭佑
徳増浩司
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1952年生まれ。国際基督教大(ICU)卒、新聞記者を経てカーディフ教育大へ留学。帰国後、茗渓学園高ラグビー部を率いて1989年に全国優勝。1994年から日本ラグビーフットボール協会勤務し、ラグビーワールドカップ2019の招致に成功。2015年にアジアラグビー会長に着任。2018年からアジアラグビー名誉会長として同地域でのラグビー普及活動に従事。2017年には都内に渋谷インターナショナルラグビークラブを設立し、スポーツを通じた国際交流を進める。これまで100回を超える国際会議にも出席し、JOC国際人養成アカデミーなどで、グローバルコミュニケーション人材の育成に努める。著書に『ラグビー もっとも受けたいコーチングの授業』(2018年・ベースボール・マガジン社)
ウェールズ渡航、中学高校ラグビー部の指導を経て日本ラグビーフットボール協会へ
冒頭の45分では、徳増氏による講演が行われ、同氏のプレーヤーとしてのラグビー人生の紹介から始まった。アルバイトに明け暮れながら大学紛争の余波で壊滅状態になってしまったICU(国際基督教大学)のラグビー部を再建。卒業後は新聞記者になるものの、来日試合で観たウェールズ代表チームの個性あふれるプレーが忘れられず記者を辞め、自費でウェールズに渡航。カーディフ教育大学に聴講生として潜り込み、同時にラグビー部にも入部して日本とは異なるスポーツ文化を学んだ。
徳増氏は、ウェールズ時代に学んだこととして
①まず「個人」を大切にする
②個性とは「人と違う」こと
③自分の考えをしっかり伝えること
④エンジョイとは「力を出し切る」「夢中になる」こと
の4点を挙げており、まさしくこの経験が、のちのラグビーワールドカップ招致活動で文化・価値観の異なる国際的な交渉の場で、成果を上げるための大きな糧になったと語った。また、帰国後、茨城の茗渓学園中学高校ラグビー部を指導した際にも、「個性を活かしたチーム作り」で、それまで我が国では見られなかった新しいタイプのコーチングを実践した。
本稿では、いよいよ同氏が日本ラグビー協会の一員となり、ワールドカップ招致に向けて動き出したところからの模様をお届けする。
* * *
私は1994年に日本ラグビーフットボール協会事務局に入りました。ラグビーという素晴らしいスポーツを普及させる活動に参加したかったからです。協会では、広報部長や国際部長を務めていましたが、16年前の2003年に日本協会がラグビーワールドカップの招致活動を始めることになり、私も国際部長として招致活動に携わることになりました。招致活動といっても、ラグビーの世界には独特の歴史と伝統の厚い壁があり、国際大会招致の手引書があるわけでもないし、全く未知の世界で手探りで始めた活動でした。
伝統国が有利すぎる、W杯招致国決定のカラクリ
ワールドカップの開催国は、世界のラグビー協会を統括する国際統括団体である「インターナショナルラグビー
ボード(IRB)」の理事会での投票で決まるのですが、理事国が限定され、しかも協会の票数が平等でないという不公平な制度の中での招致活動となりました。
各2票:イングランド、ウェールズ、スコットランド、アイルランド、フランス、ニュージーランド、オーストラリア、南アフリカ
各1票:日本、カナダ、イタリア、アルゼンチン
各1票(大陸別の地域協会):アジア、北アメリカ、南アメリカ、アフリカ、ヨーロッパ、オセアニア
全部で26票あるうち、1国で2票を持つ伝統国(8国)が合計16票を持っていました。つまり全部、伝統国のいうとおりに決まってしますわけです。こういう中で、伝統国の外にいる日本がラグビーワールドカップの招致をやりたいと手を挙げるところから招致活動が始まりました。
活動を始めてみると、いろいろな国々が複数のブロック単位で動くことがわかりました。たとえば、ニュージーランドとオーストラリアと南アフリカは以前より、SANZAR(サンザー:ニュージーランド、オーストラリア、南アフリカによる同盟)に属していてすぐに6票が集まるし、英国も4か国で8票が集まる。しかし、我々は日本はどうかといえば、国際的なネットワークや友達がいないんです。しいて言えばアジアですけど、そのアジア大陸にも1票しか与えられていない。
ワールドカップは1987年始まりましたが、これまでの開催国を見ていくと、第1回大会のオーストラリア・ニュージーランド共催から始まって、イングランド、北半球に行って、次に第3回大会が南アフリカに行って、それからウェールズ、オーストラリア、フランス、ニュージーランド…つまり、北と南の2票ずつを持つ伝統国をずっと規則的に行ったり来たりしています。ワールドカップを最初に考案した人は、「ラグビーワールドカップは北半球と南半球の伝統国で4年ごとに開催される大会」と考えていたことが後になって分かってきました。それが当時の国際ラグビーの伝統であり、まだ5回しか開催されていない2003年の時点で日本へ招致するということ自体、時代を先行していたと言えますが、ある意味では無謀な挑戦でもありました。
このスライドを見てください。2019年に日本が入っているのが、いかに突然変異的なことかということが分かると思うんですね。しかも、2023年はまたフランスに行ってしまいますから、元のルーティンに戻ってしまうわけですね。だから、今年のワールドカップは日本に来ること自体が奇跡的な大会であると言えると思います。
壮絶なる深夜の招致合戦
最初は2011年大会の招致活動に取り組みました。日本にとって対抗馬は南アフリカとニュージーランドでした。開催国は理事会での投票で決まるわけですが、実際には理事会の場ではなくて、事実上、投票前夜のホテルのバーで決まると言われていました。このバートークが大事で、各国の理事たち一人一人に、「ぜひお願いします」と最後のお願いにいく。隣ではニュージーランドの理事がいて、「いいですか、私の目をちゃんと見て『投票する』と言ってください」と迫っているぐらい熱のこもった場でした。
森喜朗会長とイングランド協会をロビイングする徳増氏(写真提供・徳増氏)
「ライバル協会の人たちが帰ってくれないと話ができないなあ」と思いつつ順番を待っていると、話した後に今度は南アフリカの理事がやって来る。そして説得されるたびに票が変わっていく、オセロゲームみたいになっていて、なかなか帰れないわけですよ。絶対に取るためにはと、全員がいなくなるまで粘って時計を見たら、午前3時半でした。でも次の日の朝、朝食会場に行ったら、またみんな各テーブルで最後の説得をやっているんです。「招致するにはここまでやらなきゃいけないんだ…」と圧倒されました。
しかし日本はなかなかこれといった強力なアピールポイントがない。唯一できたのは「伝統国以外で開催してラグビーを世界に広めましょう」「ラグビーのグローバル化」とアピールすることだけでした。
そんな中でいよいよプレゼンテーションの時間が来ました。この写真では当時日本ラグビーフットボール協会会長でもあった森喜朗さんがボールを持っています。森さんの向かってすぐ左は元駐英日本大使の野上義二さんで、ご自身も日比谷高校時代にでラグビーをやっていて、全国大会でもベスト8まで行っています。森さんの右は真下専務理事です。
さあ、いよいよこれからプレゼンテーションが始まるというので、みんな悲壮な顔をしていますね。
私たちは日本開催のメリット、日本が安全な国であることや、過去にオリンピックなど大規模な国際スポーツイベントをすべて成功させた実績、インフラの整備などをアピールし、日本には独自のラグビーの伝統があり、自分たちもラグビーを愛する国であるということも強調しました。
プレゼンのラストは「A Fresh Horizon」というキャッチコピーで、「ラグビーを新しい地平線に持っていこう!」と訴えました。そして「私たち日本のラグビーには、まだ皆さんほどの伝統はないかもしれない、皆さんほど強くないかもしれない。でも、ラグビーにおける情熱は決して皆さんに負けていない。「A vote for Japan is a vote for the future(日本に投票するということは、未来に投票することでもあります)」というと、場内がシーンとなりました。私たちは「もしかしたらこれで決まったかもしれないぞ」と思ったほどでした。
まさかの日本落選
ロンドンで記者会見をする徳増氏 (写真提供・徳増氏)
プレゼンテーションの後に行われる投票では、まずはじめに得票数が最も少ない国が落ちて、残った2か国の間で決選投票をするんです。南アフリカとニュージーランドと日本が競い合う中で、実は、最有力候補はテレビの放映権収入の関係などで南アフリカでした。日本が2番手、ニュージーランドは3番手でした。ニュージーランドはスタジアムや国の経済規模が小さいという指摘を受けていました。
しかし、蓋を開けてみると、なんと最初に南アフリカが落ちてしまいました。後で分かったんですが、ニュージーランドはプレゼンで「これがニュージーランドでできる最後の大会になります」と訴えて同情票を狙っていました。それを聞いた理事の中には「ニュージーランドも、あまり票が少ないのも気の毒だし、みんなが南アに入れると言ってるから、自分がぐらいはニュージーランドに入れてあげよう」というわずかな意識が働き出した。しかし、そのひとりが、二人になり、三人になりという感じで増えてしまったようなのです。
日本とニュージーランドでの決選投票になって、発表の直前には報道関係のカメラが全部日本の招致団の方を向いていました。「Next World Cup will be…」と言い始めたIRBのミラー会長の口からおそらく日本の「J」という発音が出るかと思ったら、「New Zealand」。カメラが一斉にニュージーランドの招致団の方向に向かいました。
私たちは敗れ去ったんです。森さんがカンカンになって怒って、「こんな不公平な投票の仕方はない。これでは世界のラグビーはいつまで経っても変わらない!」と言って、翌日、IRBのシド・ミラー会長に怒鳴り込んだのです。私はその横で通訳をやっていたんですけど、ミラー会長の顔がみるみるうちに赤くなってきて、緊張の走る場面となりました。
これも後になってわかったことですけど、ニュージーランドは、何か国かに「もしニュージーランドに投票してくれたら来年オールブラックスがおたくの国に行きますよ」と約束していたとのことでした。1回オールブラックスが行くとホスト国には5億円ぐらいの収入が入りますので。森会長らも「これじゃあ日本が何回やっても無理だな、もうやめようか」という話になりかかっていたのですが、12月に入り、アジアの理事会で招致がかなわなかったことを報告したところ、アジアの仲間たちから「ぜひもう一度、日本がリーダーになって招致をやってほしい」ということを言われ、その後、日本協会も、次のラグビーワールドカップ(2015年大会、2019年大会)への招致をやることになりました。