CULTURE | 2020/04/21

大混乱を招いた「一斉休校」から1カ月半、現役中高教員はどう対応しているか|矢野利裕


矢野利裕
批評家/ライター/DJ
1983年、東京都生まれ。批評家、DJ。著書に『SMAPは終わらない』(垣内出...

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現場の教師に真っ先に突きつけられる「環境格差」の問題

さて、オンライン授業を含めた授業のICT化については、文科省が唱える「21世紀型スキル」のひとつであり、以前から進められていたものです。文科省的には、これからの「働くためのツール」という文脈でICT活用を強調しており、筆者自身は主にイデオロギー的な観点から冷ややかに見ていたところもあります。しかし一方で、このような自宅学習を余儀なくされる状況でICTの力を発揮するということについては事実で、この点については、恥ずかしながら思いいたっていませんでした。

今回の一件で、ICT保守派も少なからず態度変更がなされるかもしれません。授業担当者はワイプ画面の方がいいらしいとか、YouTuber的なテロップは逆効果とか、細かい方法論上の議論は飛び交っていますが、基本的には一部の先駆的な例を除いて試行錯誤の段階と言えるでしょう。

もっとも、オンライン授業が喧伝され「Zoomか? Google Classroomか?」という世間的な盛り上がりがあった時期、現場ではまた違った生々しさに直面していました。それは、各家庭におけるネット環境の違いです。現場では誰もが話題にしていた問題ですが、一般的にはそれほど話題に上っていなかったので、少し不思議でした。もしかしたら、このへんは見えにくい問題なのかもしれません。

実際、それまで問われることのなかった各家庭におけるネット環境の微細な違いが、オンライン授業の急激な普及によって問われるようになりました。それは、単純なネット環境の有無だけではなく、どのような種類の端末がいくつあるか、接続がどのくらい安定しているか、プリンタがあるか、という微細な違いも含めてです。

あるいは、兄弟姉妹がいて、しかも学習塾に通っていたりすると、あらゆるところからオンラインが要求されます。となると、それを受けられない家庭においては、その分だけやはり学習の機会が物理的に減ってしまう。授業を行う側からすると、各家庭のネット環境の違いを踏まえないと教育の平等性に抵触する可能性があります。課題は毎日出すべきなのか。プリントアウトを見込んだワークシートは使用可能なのか。意外と考えるべきことは多いです。以上のことは、もしかしたら、ひとり暮らしが多い大学の方がより露骨に起こることかもしれません。

これまでのICT活用をめぐる議論は、学校で行うことが前提となっており、だからこそ、ネット環境をめぐる議論と言えば、タブレットの支給やWi-Fiの完備といったことが中心でした。そこでは、各家庭のネット環境はそれほど問題になりません。新型コロナウイルスが教育領域に突きつけたのは、なにより家庭の学習環境の可視化でした。ここで言う「学習環境」とは、ネット環境にとどまりません。勉強がうまくいっているか/いないかという点に、保護者がどれだけ関心を持っているか。学習に対してうまく動機づけができるか。自宅で勉強をする空間はあるのか。そもそも、日中一緒にいる家族はいるのか。そのような経済状況とも紐づけられた各家庭の文化資本の格差が、子どもの学力格差に直結してしまうのではないか、という危惧が強くあるのはたしかです。

そのように考えると、従来、学校という場所がいかに身体的な近接性を前提にされているのか、ということをあらためて感じます。日々の授業は、声かけや目視(教育実習で教わる定番のヤツ)など授業内外での身体的なコミュニケーションの上で成立していました。オンラインでどのような内容を教えるかということも大きな問題ですが、それ以上に、この身体的な近接性が消去されることのほうが、個人的には考えるべきことに思えます。

加えて言うと、さきほどICT活用は文科省の求める「21世紀型スキル」だと述べましたが、この「21世紀型スキル」(何度聞いてもうさんくさい言葉)の中には、「コラボレーションとコミュニケーション」も含まれています。つまり、他人との近接的なコミュニケーションを通じた創発性が期待しているわけです。だからこそ、教員による講義型の授業ではなくグループ学習やプレゼン型の授業が好まれる。しかし、自宅学習を基本にした現在のオンライン授業で起こっているのは、むしろ、教員による一斉講義の復権です。この逆説が興味深いと言えば興味深い。もっともこれは過渡期的な段階で、もっとICT活用が進めばさらなる可能性があるのかもしれませんが、当分は家庭でのネット環境格差の問題が横たわっているでしょう。

いろいろ書きましたが、一方で無責任に言うと、学校空間から解放された真の学問的態度を養っている可能性を夢想したりもします。教室から解放されたことによって同じ勉強から違う意味を受け取っている人もいるでしょう。あるいは、これまで学校があるから観ることができなかった、もしかしたら授業よりよほど彼/彼女の人生を豊かにする映画やマンガを観まくっている人もいるでしょう。学校的な価値観を相対化して批判的な思考を育んでいる人もいるでしょう。それぞれ、広い意味での学問的態度を培ってくれたらと思いますが、やはり、最後の最後、文化資本を含めた家庭環境をめぐる格差のことが気になります。


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