神保慶政
映画監督
1986年生まれ。東京都出身。上智大学卒業後、秘境専門旅行会社に就職し、 主にチベット文化圏や南アジアを担当。 海外と日本を往復する生活を送った後、映画製作を学び、2013年からフリーランスの映画監督として活動を開始。大阪市からの助成をもとに監督した初長編「僕はもうすぐ十一歳になる。」は2014年に劇場公開され、国内主要都市や海外の映画祭でも好評を得る。また、この映画がきっかけで2014年度第55回日本映画監督協会新人賞にノミネートされる。2016年、第一子の誕生を機に福岡に転居。アジアに活動の幅を広げ、2017年に韓国・釜山でオール韓国語、韓国人スタッフ・キャストで短編『憧れ』を監督。 現在、福岡と出身地の東京二カ所を拠点に、台湾・香港、イラン・シンガポールとの合作長編を準備中。
「遠さ」と「近さ」、両方が辺境メシの魅力
産地直送、作り手の顔がわかる、インスタで話題…聞くと食欲が湧くフレーズは数多くある。だが高野秀行『辺境メシ』(文藝春秋)はその全く逆を行き、「遠く」「よくわからない」「人が食べたことのない」食べ物を勇敢に口にし続けた結果、どのように価値観が広がっていったかを知れる紀行本だ。
著者は早稲田大学探検部の出身のノンフィクション作家で、アジア・アフリカを中心とした辺境地を旅してきた。約30年前のデビュー戦、ゴリラ肉を食べた時の鮮明な記憶はこう綴られている(ちなみにゴリラは国際自然保護連合によって国際保護動物に指定されているが、著者が食べたのは地元の動物学者が襲われかけて銃で射殺したため、事故的に入手したゴリラ肉だったという)。
undefined
undefined
さて、ゴリラ肉のお味はというと……固い。ゴリラは部位を問わず筋肉がものすごいうえ、屈強なコンゴの男たちは、柔らかくなるまで肉を煮るなんて面倒なことはしない。よって、顎が痛くなるような赤身の固い肉———というのがわれわれの感じた「味」だった。(P26)
ゴリラ肉は普段日本で暮らしていれば決して口にすることがない「違う食べ物」だ。筆者も学生時代にあちこち旅行したり、以前秘境専門旅行会社に勤めたりしていたので「違う食べ物」を比較的多く口にしたことがある方だが、食文化は差異(遠さ)だけでなく類似(近さ)についても楽しむことができる。
筆者は日本の朝ごはんの定番・納豆に類似する食品(例えばネパールのキネマ)が諸外国に存在することを知った時にかなり驚いたが、著者も同様の驚きを経験したようだ。
undefined
undefined
納豆は日本独自の伝統食品だと思い込んでいる人が多い。かくいう私もその一人だったが、実は中国南部から東南アジアの内陸部、さらにはヒマラヤまで、納豆を食べている民族がいることを知って驚いた。結局、アジア大陸諸国の納豆を調べ回って本を一冊書いてしまったほどだ。(P122)
納豆についてとことん追求した『謎のアジア納豆』(新潮社)は、「日本は納豆後進国だった」というキャッチコピーを掲げ、アジア大陸納豆(略してアジア納豆)を研究し、そして日本における「納豆の何たるか」に立ち戻る非常に興味深い内容となっている。
辺境メシの目玉は、やはり「ゲテモノ」
辺境メシといえば、昆虫食を始めとしたゲテモノを想像する方が多いのではないだろうか。本書ではそうした読者の期待に応えるインパクトを備えた、多くのゲテモノが紹介されている。しかし、ある食べ物がゲテモノとなるかどうかは主観にかなり左右される。著者が「ヒルみたいだから」という理由で若干の苦手意識をもって書かれているタコの踊り食いは筆者の大好物で、韓国に行くと食べるチャンスがないかひたすら狙っている。
著者の主観は言わずもがな独特だ。打ち合わせのため新宿にある編集者おすすめのスパゲッティ専門店を訪れた時、ゴキブリが皿の中に入っていたものの、「おすすめだから行きましょう」と勧めてくれた編集者の面目をつぶすまいとしてとった行動は、海外の見聞録同等に強烈だ。
undefined
undefined
何食わぬ顔をして、ゴキブリをスパゲッティと一緒に食べた。といっても、熊本のカタツムリとちがって火が通っているわけだし、私はゴキブリに何の偏見もないから抵抗感は少なかった。
ゴキブリの味はタラコ風味だった。タラコ・スパゲッティだから当然だ。具にもよく味の染みたとても美味しいスパゲッティ専門店だったのである。(P163)
目次をざっと見て筆者がゲテモノと思ったのは、サルの脳味噌、イモムシ、アリ、水牛の生肉、昆虫調味料、タランチュラ、虫の缶詰、赤アリ卵、東北タイの虫イタリアン、巨大ムカデ、胎盤餃子、胃の中で跳ねるヒキガエルジュース。ちょっと興味ありと思ったのは、爆発系ナマズ料理、納豆バーニャカウダ、鯉の円盤焼き、口噛み酒だ。皆さんも本書を手にとったら、まずは目次でセルフブリーフィングをしてから読み進めてほしい。
「モルモットを食べる人生」と「モルモットを食べない人生」の違い
海外の食文化から価値観や死生観を感じ取れることは多い。ペルーでの一コマ。「アンデスのオーガニック・巨大ネズミ」ことクイ(テンジクネズミ=モルモット)の串焼きの調理の様子はこう記されている。
undefined
undefined
模様の描かれた赤い布を地面に敷き、二匹のクイをそこに横たえると、上からタンポポのような黄色の花を散らした。美しい。
「こうすると、最後までよく世話したことになって、肉もおいしくなるんだ」(P263)
モルモットを食べるというと、動物園のふれあいコーナーにいるモルモットを食べるようで日本人としてはなんだか申し訳なく感じてしまうが、ペルーからボリビアにかけてのアンデス山脈では家畜として飼われて一般的に口にされているそうだ。
アンデスならでは、自然へのリスペクトを感じるエピソードだが、筆者が旅行会社勤務時によく行っていたブータンでもやはり同じような話を聞いた。ブータンをはじめとしたチベット文化圏にとって大切な家畜・ヤクの「命を頂く」時にはお坊さんが必ず感謝の祈りを捧げるという。ヤクを口にしながら、ブータン人は時に「来世は人間に生まれろよ」と願うこともあるそうだ。そうした思いを知って食べるヤクジャーキーは、日本人にもブータン・チベット文化の深みを共有させてくれる。作られるプロセスは、食べる時の気持ちにも影響するのだ。
undefined
undefined
とりわけ、気になるのは世界各地の伝統食品だ。それらは民族を映す鏡であるにもかかわらず、今現在、急速な勢いで姿を消しつつある。あるいは、形は残っていても、アマゾンの口噛み酒やタイのネームのように、製法が「近代化」され、全く別のものになろうとしている。(P308)
「モルモットを食べる人生」もあれば「モルモットを一生食べない人生」もある。どちらも人生は人生で変わりなく食べるも食べないも自由だが、「モルモットを食べる人生」を知ることは、「そういう考えもあるのか」と人生の数多ある選択肢を想起させる。単なるゲテモノ紀行ではなく、ユーモアあふれる描写とハッとさせられる洞察で読者を楽しませてくれる本書は、「食」ひとつからどれだけ人生観を深めることができるかを教えてくれる。