Atsuko Tanaka氏が撮影したナズの写真(以下、クレジットが入っている写真はすべて同氏の撮影、もしくは同氏からの提供)
(c)Atsuko Tanaka
取材・文:6PAC
Atsuko Tanaka
フォトグラファー
東京都出身。91年に渡米し、カリフォルニアの大学で写真を学ぶ。95年に卒業後、ニューヨークに渡り、ヒップホップアーティスト達の写真を撮り始める。 日本やアメリカの雑誌を主に広告やアルバムカバーなどを手がけ、レオナルド・ディカプリオやビヨンセ、オノ・ヨーコなどを始めとした多くの著名人のポートレートを撮影。2006年のニューズウィーク日本版では「世界が尊敬する日本人100」に選ばれた。その翌年、ニューヨークのクイーンズ在住アーティストの代表として、ティンバーランドの"The Boroughs Project"でクイーンズモデルのブーツをデザインする。2011年秋、約20年のアメリカでの活動を終え、日本へ帰国。現在は東京を拠点にアメリカで培った感性を活かしながら、主にミュージシャンや俳優、クリエイターやビジネス界で活躍する人々のポートレートを撮影している。
http://www.atsukotanaka.com/
大物ラッパーを撮りまくった日本人女性
「ヒップホップと恋に落ちたのはいつ?」
これは2002年に公開された映画『ブラウン・シュガー(Brown Sugar)』の台詞である。ヒップホップが好きな人であれば観たことがあるだろう。観たことがなければ必見とも言える1本だ。ニューヨークが舞台となるこの映画の中で、サナ・レイサン演じる主人公はヒップホップ雑誌の編集者という設定だ。だが、同じように活躍していた日本人女性がいることをご存知な方はどれだけいるだろうか? 今回取り上げるAtsuko Tanaka氏がその人だ。
Atsuko Tanaka氏
(c)Atsuko Tanaka
同氏の被写体となったヒップホップ・アーティストたちは、ヒップホップ黎明期の伝説的存在ファブ・ファイヴ・フレディやCold Crush Brothersから、ランDMC、アイス-T、LL・クール・J、EPMDなど、ヒップホップ隆盛の先駆けとなった面々。そして、ヒップホップ黄金期にヒットチャートを賑わせたエミネム、ジェイ・Z、T.I.、『ブラウン・シュガー』にも出演していたモス・デフ、バスタ・ライムス、50セント、リュダクリス、ビッグ・パン、Diddyことショーン・コムズ、ファット・ジョー、ナズなど枚挙にいとまがない。ヒップホップがアンダーグラウンドな音楽ジャンルからメインストリームへと駆け上がっていく過程を、ファインダー越しに目撃してきた彼女に話を聞いてきた。
ジェイ・Z
(c)Atsuko Tanaka
ブラック・アイド・ピーズ
(c)Atsuko Tanaka
エミネム
(c)Atsuko Tanaka
アメリカ西海岸のカリフォルニアの大学で写真を専攻していたAtsuko氏は、95年の大学卒業と同時に東海岸のニューヨークへと移り住んだ。動機は単純に「ニューヨークで本場のヒップホップ・アーティストたちの写真を撮りたかったから」だという。西海岸でも大勢の有名なアーティストは多数いたのになぜニューヨーク? と訊ねると、「音楽面においてもファッションにおいても、おしゃれで格好良い東海岸のアーティストたちの方が好きだったから」だそうだ。
ラッパーたちは気さくで良い人が多かった
アメリカが約束の地と言われているように、ニューヨークには世界中から夢を追いかけて若者たちが集まってくる。しかし、もちろん誰しもが最初から成功を約束されているわけではない。Atsuko氏もウェイトレスをしながらアーティストたちの写真を撮り続けた。
(c)Atsuko Tanaka
自ら動かないと何も始まらない国ということもあり、フォトブックを片手にヒップホップ雑誌の出版社に足しげく通い、売り込んでいったそうだ。そうこうするうちに、オールドスクールのヒップホップに特化した雑誌『ビートダウン(Beat Down)』でフォトグラファーとしてのキャリアがスタートした。しかし、ノーギャラでの撮影も多かったことからフォトグラファーだけでは生計を立てられず、いわゆる下積み期間が5年にも及んだ。それでも本人いわく、「好きなことをやれて楽しいことばかりだったので、下積みという自覚はなかった」という。その後は日本のヒップホップ雑誌『Front(のちのblast)』、『bmr』、『Woofin’』や、音楽レーベルからの依頼が増え、順調にキャリアを積み重ねてきた。
ヒップホップ生みの親の一人であるアフリカ・バンバータも過去に撮影
(c)Atsuko Tanaka
ヒップホップ・アーティストといえば、アフリカ系アメリカ人がマジョリティだ。自己主張が強いアメリカ人の中でも、差別や迫害に苦しんできた歴史のあるアフリカ系アメリカ人はとりわけ自分の権利を声高に主張する傾向が強い。そうした背景もあるので、彼・彼女らは“クセが強い”人たちと言える。そうしたラッパーの一人であるスヌープ・ドッグが「最近のラッパーは全部同じに聞こえる」と批判していたが、同氏がニューヨークで活躍していた時代のラッパーたちは、“クセが強い”がゆえにそれぞれが独自のスタイルや、メッセージ性の強いライム、独特なフロー、耳に残るフックなどを確立していった。
スヌープ・ドッグが「最近のラッパーは全部同じに聞こえる」と批判
ラップをする上では“クセが強い”人たちだが、「みんなキャラは強いけど、気さくでいい人たちが多くて、撮影においても臨機応変に対応してくれる人がほとんどでした」という。中には「二重アゴがコンプレックスだったみたいで、それを隠すポーズしか撮らせてくれないというわがままなラッパーもいました。その時はちょっと焦りましたけど、自分も若かったし、そういう主張の強い人をうまくコントロールできる力がなかったのかもしれないです」というエピソードも語ってくれた。
後世に残るような写真を一枚でも多く残したい
(c)Atsuko Tanaka
アメリカで20年近く生活してきたAtsuko氏だが、2011年に日本へと帰国した。アメリカでのキャリアが華々しいだけになぜなのかと訊ねてみると、「グリーンカード(アメリカの外国人永住権)も取得して永住するつもりだったんですけど…。日本の方がいいなぁと思うようになっちゃって」と意外な答えが返ってきた。詳しく聞くと、家族がいる日本と家族がいないアメリカを比較した際に「だんだん寂しくなってきたんですよね。ホームシックかも!?」とこれまた意外な返答を頂いた。
日本に帰国してからは、葉加瀬太郎氏や水谷豊氏といった著名人から、池森賢二氏(ファンケル会長)や岩田彰一郎氏(アスクル社長)といったビジネスマンまで被写体の幅が広がった。
被写体は変貌したが、人間を撮るという点は変わらない。仕事をする上で気を付けている点を聞いてみると、「皆が気持ち良く仕事できるように気を付けています。あとは時間の制約があるので、早く良いものを撮るということですね」とのこと。また、被写体が人間ということに関しては、「人を含めたその場の空気感が写真を通して伝わればという気持ちです。その人の思いとか波動とかが伝わる写真を撮りたい」と語ってくれた。ちなみに日本のヒップホップ・アーティストの写真がないのは、「単にオファーがないんですよ」と笑いながら答えてくれた。
また日本に帰国してから、「成功」と「夢の実現」をテーマにしたウェブマガジン『HIGHFLYERS』も始めた。海外のアーティストやクリエイターなどの取材記事が数多く掲載されているが、その中には彼女の一番好きなヒップホップグループ、ア・トライブ・コールド・クエストのアリ・シャヒードも含まれている。「私のヒーローを自分のウェブマガジンで取材する日が来るなんて、全く考えもしなかったことですが、言葉にならないくらい感慨深い出来事でした」という。
アリ(写真右)とエイドリアン・ヤング(写真左)によるユニット「The Midnight Hour」
(c)Atsuko Tanaka / HIGHFLYERS
日本とアメリカで仕事をしてきた同氏に、両国の違いを聞くと、「アメリカの撮影現場はわりと気さくで自由だけど、日本はいろいろと気をつかわなければいけないことが多いですね」という。ギャラに関しても、「誰もが写真を簡単に撮れる時代になったということも大きいと思いますが、日本は割とクリエイティブな仕事に対する価値を低く見ているように感じます。アーティストとして有名になってしまえば別の話ですけど。たまに割に合わないなぁと思う仕事もあったりしますが、やっぱり“撮りたい”という気持ちの方が大きいから結局受けることの方が多いです。その点アメリカは、クリエイティブな仕事に対する価値を理解してくれているように思います」と語る。
「生涯現役でいたい」という同氏。最後にフォトグラファーとして生身の人間を被写体とした写真を撮り続ける意味を聞いてみた。「写真の存在が当たり前ではなかった時代の写真、例えば坂本龍馬の写真なんかは数が少ないけど、誰もがどんなものか思い浮かべられますよね。自分が写真を撮る意味として、後世に残るような写真を一枚でも多く残したいです」というのが同氏の答えだった。
30年近く前にヒップホップと恋に落ちた日本人女性は、ヒップホップ・アーティストたちを撮りたいという単純な動機でキャリアをスタートさせた。ところが、恋に落ちたのはヒップホップではなく写真だったようだ。