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絶滅してOKな動物、復活NGの動物はいる?現代人に突きつけられた「ノアの方舟的」課題【ブックレビュー】
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  • 2019.01.28
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絶滅してOKな動物、復活NGの動物はいる?現代人に突きつけられた「ノアの方舟的」課題【ブックレビュー】

神保慶政

映画監督

1986年生まれ。東京都出身。上智大学卒業後、秘境専門旅行会社に就職し、 主にチベット文化圏や南アジアを担当。 海外と日本を往復する生活を送った後、映画製作を学び、2013年からフリーランスの映画監督として活動を開始。大阪市からの助成をもとに監督した初長編「僕はもうすぐ十一歳になる。」は2014年に劇場公開され、国内主要都市や海外の映画祭でも好評を得る。また、この映画がきっかけで2014年度第55回日本映画監督協会新人賞にノミネートされる。2016年、第一子の誕生を機に福岡に転居。アジアに活動の幅を広げ、2017年に韓国・釜山でオール韓国語、韓国人スタッフ・キャストで短編『憧れ』を監督。 現在、福岡と出身地の東京二カ所を拠点に、台湾・香港、イラン・シンガポールとの合作長編を準備中。

http://y-jimbo.com/index.html

33万種の遺伝子に優劣はあるのか?

「いっそ絶滅してしまったほうが−−−」という衝撃的なフレーズが帯に記されているM・R・オコナー『絶滅できない動物たち』(ダイヤモンド社)は、人間が自然をコントロールすることの限界を踏まえた上で、「生物多様性」というキャッチーな概念が実際は一筋縄ではいかないことを読者に示す。

「絶滅の危機に瀕した動植物を保護する。それは良いことだと思いますか?」と街頭インタビューで聞かれたら、筆者はおそらく反射的に「はい」と言ってしまうし、それはごく一般的な反応ではないかと思う。

皮肉なことに、現代では種を救おうとするわたしたちの干渉が深まれば深まるほど、その種の「野生」性と自律性が失われていく。(「はじめに」P9)

日本人にとって馴染み深い天然記念物のツルで考えてみたい。生きているツルを増やして、全く見られない状況を防ぐというのは「保全」。「あるがまま」でツルが生存できる環境を保つことは「保護」。保全は人間のため、保護は自然のために行うのだ。自然に手を加えない保護と異なり、保全は人間の手を加える。2018年5月のナショナル・ジオグラフィック誌の記事によると、絶滅危惧種のタンチョウヅルは生息数が1,800羽まで増えており、保全から保護のステージに入っているようだ。

本書では哺乳類、爬虫類、猿人など豊富な例が紹介されているが、2002年に野生絶滅種となった(飼育下だけで生き残っている)ハワイガラスの冷凍保存の実例は、種の保全に必要な途方もない労力を思い知らされる。ニューヨークのアメリカ自然史博物館地下にある「アンブローズ・モネル冷凍コレクション」の33万点以上ある冷凍遺伝子バンクの中に、アララ(別名ハワイガラス)の細胞がある。

「細胞は、宙ぶらりんではあるが死んではいない状態で、凍結されたままずっと保存されています。いつまで保存するかは誰にもわかりません。なぜなら、技術はここ20年、30年ぐらいで登場したばかりだからです」。(P186)

サンディエゴ動物園の研究職員がこう話すとおり、凍結細胞から精子や卵子をつくり、新たなアララが生み出される日が来るかもしれないものの、実現可能性はまだつかみきれていない。

何より途方に暮れるのは、アララだけでなく33万種以上の種がその用途を待っているという状態にある。仮に33万種全てを復活させる技術を人間が獲得したとして、どのような順序でそれは行われていくのだろうか。

絶滅する前に復活させてこそ「正しい再生」?

ある種が持っていた「流れ」は個体だけのものではない。環境や他の動植物との連関のもとに、個体は存在している。ひとつの種を復活させることは、学習プロセス・文化・情報・環境などをひっくるめて再現して「正しい再生」と言うことができる。果たしてそんなことが可能なのだろうか。

残り少ない個体群をなんとか生かして遺伝的多様性を守ろうと固執しすぎると、多様=善という短絡的な考えに陥り、根本的な問題に目を向けず、それぞれの種を急場しのぎで救うことの繰り返ししか生まない可能性がある。遺伝子を勝手に復活させて、すっかりと変化してしまった自然環境に「返してあげた」とするのは甚だしい人間中心主義なのではないだろうかと著者は疑問を投げかけている。

2018年3月にオスが絶滅し、2匹のメスを残すのみになったキタシロサイの章では「絶滅が先か、復活が先か」というサブタイトルがついている。著者はフランスの哲学者ジュリアン・ドローが2014年に発表したエッセイ『絶滅種はクローン作成で本当に再生可能か———形而上学的分析』を引用して「復活のパラドックス」を説明している。

生命にまつわる関係(繁殖的関係、生態的関係など)がなくなって機能的にも、さらには種の一部だった時空の実在としても存在していない以上、物質的にも存在するのをやめたことになる……。それを細胞からであれ、死んだ生命体から採取した遺伝子であれ、再生しようとすれば絶対に失敗する。まったく新しい生命体を創造することになるからだ。(P220)

ここでは「環境から切り離された遺伝子に意味はあるのか」という哲学的命題が提示されている。種を個別のものとして考えるのであれば、「正しい再生」はありえない。RPGゲームで復活の呪文を唱えたり、教会に行ったりすればとキャラクターが元通りになるのとはわけが違うのだ。

『ジュラシックパーク』的技術が突きつける、人間倫理アップデートの必要性

映画『ジュラシックパーク』さながらに、絶滅してしまった種を復活させることは、現代技術をもってすれば夢物語ではなくなってきている。本書ではこのように種を復活させることを「脱絶滅」と呼んでおり、例えばネアンデルタール人を「脱絶滅」させる考えがあるという。

ネアンデルタール人(旧人)は人類の祖先であるクロマニョン人(新人)と共生していたらしいということがわかってきたそうだ。彼らはどんな関わり方をしていたのか。そして彼らの言語能力や技術を生み出す力は、それぞれどの程度まであったのか。正直こうしたトピックには筆者も興味がある。

ハーバード大学の科学者は、興味を語りつつもその留意点をこのように語っている。

「問題は、サーカスの見世物としてではなく、遺伝的多様性を向上させるための集中的で科学的な試みの一環として、絶滅したネアンデルタール人のゲノムを世界の遺伝子プールに再導入し、ネアンデルタール人を復活させる義務があるかどうかだ」(P299)

人は都市に暮らすようになり、人間の脳内に展開される世界は大きく変わってしまった。二匹のシロサイが死に絶えてしまうと困る人、アホウドリが脱絶滅しないと困る人はあまり都市にはいないだろう。対する自然は、何も私たち人間に与えず、考えもしない。自然に対する畏怖心を保つも失うも、すべては私たち人間の感性次第なのだ。

現在、54パーセントの人間は都市部に居住している。世界保健機関によれば、1960年代から3割以上も増えたという。現在、身の回りの動植物に詳しいと自信をもって言える人間はどれくらいいるだろうか。おそらくこれが、種の消失の物語にわたしたちが一瞬しか関心を示さない最たる理由だろう。その価値が、わたしたちには抽象的なのだ。(P317)

技術が進歩して復活が容易になってしまえば、「いずれ死ぬ」という死への畏怖心すら消失し、人間倫理は激変してしまうだろう。種の保全に対する考えがいい加減なようであれば、本書の帯にあるように絶滅の危機に瀕した動植物は「いっそ絶滅したほうが」ある意味自然なのかもしれない。未来に対する楽観的観測を蹴散らして深刻さを浮き彫りにさせる本書は、読者の価値観を強く揺さぶる内容となっている。


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