CULTURE | 2019/01/21

目まぐるしくムーブメントが起きた90年代の音楽シーン【連載】西寺郷太のPop’n Soulを探して(5)

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今回、西寺郷太さんとFINDERS編集長の米田が語り合うのは1990年代の音楽シーン。グランジ、オルタナ、ローファイ、デジタルロックなどなど、今から振り返れば、非常に音楽的に豊潤な時代でした。その頃、二人は大学生のど真ん中世代。80年代の音楽からガラッと様相を変えた90年代を振り返ります。

聞き手:米田智彦 文・構成:久保田泰平 写真:有高唯之

西寺郷太(にしでらごうた)

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1973年、東京生まれ京都育ち。早稲田大学在学時に結成し、2017年にメジャー・デビュー20周年を迎えたノーナ・リーヴスのシンガーにして、バンドの大半の楽曲を担当。作詞・作曲家としてSMAP、V6、岡村靖幸、YUKI、私立恵比寿中学ほかアイドルの作品にも数多く携わっている。音楽研究家としても知られ、少年期に体験した80年代の洋楽に詳しく、これまで数多くのライナーノーツを手掛けている。文筆家としては「新しい「マイケル・ジャクソン」の教科書」「ウィ・アー・ザ・ワールドの呪い」「プリンス論」「ジャネット・ジャクソンと80’sディーバたち」などを上梓し、ワム!を題材にした小説「噂のメロディ・メイカー」も話題となった。TV、ラジオ、雑誌の連載などでも精力的に活動し、現在インターネット番組「ぷらすと×Paravi」にレギュラー出演中。

マイケル・ジャクソンとカート・コバーンに通じるもの

米田:今回は、90年代の音楽の話から始めたいなって思うんですよ。まあ、僕ら世代にとっては青春時代ではありましたから。

西寺:そうですよね。僕の人生的に言うと、90年、91年は、まだ高校生。92年に京都から上京して、そこから96年まで大学生。で、96年の後半にノーナ・リーヴスの初作をインディーで出して、97年にメジャー・デビューして、そこからは今の状態にほぼ近いというか。

米田:僕が福岡から上京したのも92年なので、郷太さんとまったく同じなんですよね。で、僕は欧米のロック好きだったから、やはりこの頃っていうのはニルヴァーナの勢いがものすごくて。全米アルバム・チャートでは『Nevermind』がマイケル・ジャクソンの『Dangerous』をナンバーワンから引きずり下ろしたっていう。

西寺:ニルヴァーナは、92年のMTVビデオ・ミュージック・アワードとかで、マイケルを茶化すようなことをしてましたよね。だから、「こいつらホンマ嫌な奴やなあ」って結構本気で思ってたんですけど、メロディーメイカーとしてのカート・コバーンは、バート・バカラックとかスティーヴィー・ワンダーに匹敵する天才だと思っていて。

米田:カート・コバーンとマイケルは真逆の世界にいるようなイメージですけどね。カートは商業主義の音楽をものすごく嫌っていたし。

西寺:真逆なんだけど、オリジナリティーがあって、ある種、辺境から来たのにナンバーワンになったっていう。曲作りとか歌詞の中に映し出してる悲しみとか孤独とかジレンマみたいなものは、カートとマイケルって似てたと思うんですよね。時代やジャンル、人種も含めた立場上、ニルヴァーナとマイケルって相反するものと思われてたとは思うけど、でもやっぱり、本質的な素晴らしさ、究極の心の叫びを世界中のティーンエイジャーが共有していたっていう意味ではすごく似てたと思うんですよ。

米田:それはおもしろい解釈です。ニルヴァーナって80年代のアンチとして崇められていたところもありましたからね。そう、僕ね、92年の来日公演を観てるんですよ。中野サンプラザで。

西寺:おおっ! あれ観に行ったんですか。調子どうだったんですか?

米田:もう、とにかくうるさい!(笑)。演奏とか全然なってなかったですよ(笑)。カートがパジャマみたいな格好で出てきて、50分ぐらいであっという間に終わって。もう、なんじゃこりゃ!?って感じでした。アンコールで「Smells Like Teen Spirit」を演ってくれた時は狂喜乱舞しましたけどね(笑)。

西寺:それは残念ですね(笑)。

新しい音楽に対しての吸収力がすごかった20代

米田:でもまあ、僕はニルヴァーナにはそんなに強い思い入れはなくて……というのも、90年代って、グランジだけじゃなくて新しいムーヴメントが1年とか1年半とかのサイクルで次々と出てきたじゃないですか。当時は「90年代の音楽シーンは不毛だ」みたいなことを言ってた評論家も結構いましたけど、今振り返ると、むしろすごく音楽的に豊作だったなって思うんですよね。

西寺:だったと思いますよ。僕ね、政治とか政治家のこととかにすごく興味があって、いろいろ本を読むんですけど、いつの時代も常に「今の政治家はつまらなくなった」って言われてるんですよね。小沢一郎とか橋本龍太郎とかがリーダーだったあの時代は良かったって、でも、あの時代はあの時代で、田中角栄とか中曽根康弘とかの時代の方がすごかったって言われて。で、その時代ですら、岸信介とか吉田茂とかがすごかったって言われてて。その前は大正、明治の政治家に比べて軽すぎるって(笑)。ほんと笑っちゃうほど繰り返しです。

米田:(笑)。近頃の若いやつは……ってのは、いろんな世界で延々と言われ続けるものなんでしょうね。古代エジプト人が"最近の若者はけしからん"と言ったか言わなかったって話と似てて。

西寺:90年代の音楽に関しては、米田さんが1年とか1年半のサイクルで新しいものが出てきたって言ってましたけど、僕の中では2年から2年半サイクルっていう印象なんですよ。というのも、さっき言ったように自分自身の立場がそのぐらいのタームで変わってるからなんですよね。で、96年12月にインディーズでCDを出して、タワーレコードで自分のバンドのコーナーが出来たり、普通に売ってるのを見てめっちゃ感動したんですけど、そこからはなんか違うんですよ、見える世界が。

米田:郷太さんがリスナーから、音楽の送り手になって以降ってことですね。

西寺:これは別のお仕事とかでもそうだと思うんですけど、音楽系のジャーナリストの人だったら、例えば『ロッキング・オン』とか感心しながら読めないというか、音楽誌とかを楽しんで読むことって音楽ジャーナリストになってしまうとなくなると思うんですよ。野球選手もサッカー選手もプロになれば、すべての試合は見れなくなるとは思うんですね。自分のトレーニングや実践も睡眠も大切だし。そういう意味で言うと、僕が単純にリスナーとして興奮して「イェーッ!」て音楽を聴いてたのは96年頃あたりまでで、そこまでの音楽がおもしろかったからとか、2000年代の音楽がおもしろくなかったっていうことじゃなくて、僕自身の問題で。

米田:年齢的なものとかもね。

西寺:それもありますね。

米田:やっぱり、20代までは、新しい音楽に対しての吸収力すごくありましたよね。

西寺:そうですよね。すぐおなかが空くから、白米のおにぎりでもめっちゃ美味しく感じられた、みたいな(笑)。

米田:僕も2000年代以降の音楽は受け容れられないというか、嫌いではないけど、むちゃくちゃ好きなバンドってほとんどないんですよね。

西寺:それで良いと思うんですよ。それを否定しはじめたら何も生まれないというか、しょうがないっていう。例えば子どもが成長して遠くまで自分ひとりで行くとして、ドキドキしながら電車乗り換えて辿り着いたとします。その時と同じ達成感を大人にも感じろっていうのも無理で。そういう意味で言うと、同級生からボズ・スキャッグスとか、マーヴィン・ゲイとか、当時「オッサンっぽい」って思われるような音楽が子供の頃から好きだった僕は、ちょっと特殊だったとは思いますけどね。前も話しましたけど、若い人が生み出す文化だけを追い求めていたわけじゃそもそもなかった、むしろ真逆だったっていうのは、音楽家としての自分にとっては良いところだったんじゃないかなって、結果的に思いますけどね。

あらゆるものの分岐点だった1989年

米田:僕らっていわゆる団塊ジュニアの世代で人口が多いわけじゃないですか。だから、CDの消費量もハンパなかったと思うんですよね。あと、音楽に対する熱量とかも。90年代ってすごく音楽的に豊潤な時代だったし、その時代をリアルタイムで過ごせてすごく良かったなあって思うし、僕もバンドやってたんで。あとはその、サンプリング文化がいろんな形で花開いて。ベックとかね、大好きでしたよ。1994年、カートが死んで、その代わりにベックが「Loser」で登場するんですよね。

西寺:僕もめっちゃ好きでしたね。とくに『Odelay』はめちゃくちゃ聴きました。名盤中の名盤じゃないですか。

米田:その前のファーストの『Mellow Gold』も好きでしたよ。

西寺:『Mellow Gold』はかなり攻めてて、『Odelay』はあの時代のサージェント・ペパーズじゃないけど、ポップ・アルバムの金字塔というか、全曲がポップでしたよね。あとはアメリカ人らしいカントリーの泥臭い要素が入ってたりとか、80年代に比較的古臭いとされていたものを90年代に生き返えらせたというか。あと、90年代前半はレニー・クラヴィッツを聴いて、それまでと違うなって思いました。ファーストが出たのは89年なんですけど、すでに90年代を予見していたというか。

米田:音質がヴィンテージな質感というか、アナログっぽいというか、80年代にはなかった音でした。レコーディングの機材も古いのをあえて使ってたみたいですね。

西寺:これ、たまたまだと思うんですけど、89年の1月に昭和天皇が亡くなって、平成になったのが89年じゃないですか。日本だと、それまで田原俊彦さんとか光GENJIとか、いわゆる80年代的なスーパースターというか、テレビの中のスーパーヒーローみたいな人が力を持っていたのが、平成元年になった時点ですべてのルールが逆に変わったように見えるんですよ。ジャンケンでグーがパーに勝つぐらいの変化が。

米田:ああ、そんな感じがあったかもしれないですね。

西寺:89年に日本は平成になり、ベルリンでは東西ドイツを隔てていた壁が崩壊して、中国では天安門事件があったり、米ソ冷戦の終結宣言があって。世界史の教科書でも89年から現代、それまでは近代って線を引かれてるっぽいんですけど、音楽もまさにそうで。これはよく話してることなんですけど、僕の中ではソウル・II・ソウルの存在が大きくて。「Keep On Movin’」のTR-909のスネアのドライにパシッと止まる物寂しい感じがね、それまでの「80年代」的な派手な煌びやかさがオシャレとされていた音のルールとは逆で。あの曲を聴いた時の衝撃に勝るものは、その後ないですね。

米田:確かに衝撃でしたね。クールだなあと思いましたよ。

西寺:それまではイケイケドンドンじゃないけど、どんどん物が付け足されていく、右にイヤリングしてたら左にも付けて、カフスして、バングルつけてって毎年少しずつアクセサリーが増えて行ってたのに、それが急に裸になったみたいな。ソウル・II・ソウルの登場で、「ハイ、時代が変わりました」って言われたみたいな。

米田:……な感じありましたね。

西寺:僕にとっては悔しい気持ちもあって。新しいルールに流れたり、そのまま自然に乗っかっていった連中が、少し古い空気感の音楽に対して「えっ、オマエまだそれでやってんの?」って、ルールが変わったことに気づいてない人を馬鹿にするみたいなところがあって(笑)。それは90年代の思い出として嫌なところですね。ま、あくまでも俺自身のしょぼさからの被害妄想ですけどね(笑)。大学のサークルに入って思ったけど、基本的に全員が自分以外を馬鹿にしてたんで(笑)。実際、頭がいい、勉強ができる集団だったってこともあるとは思うんですけど。ただ、時代に単に乗り遅れてる人もいるけれど、僕みたいに意固地になって「80年代のこれも好きだよ」って思ってるような人もいる、それすらも目の敵にするというか、あからさまに馬鹿にする風潮というか。

今は、時代感がミックスされてるんでそこまで過激なルール変更はないとは思うんですが、90年代まではありましたよね。前にも話したように、僕は80年代の音楽だけが好きなわけじゃないんだけど、ルールがまた変わるようなことがあったら、俺はスノッブな連中に馬鹿にされる側を弁護するわって。ちょっとケンカ腰で馬鹿にされる側につきたい自分みたいなのが、ノーナのひとつのモチベーションというか。ダサく思われつつ、賢い連中よりも結果賢さで最後に勝ちたいって、全然わかりづらいマゾヒストですけどね(笑)。それが2000年代、マイケルが亡くなる頃まで続いてましたね。


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