CULTURE | 2018/10/24

尾崎豊もチェッカーズもトシちゃんも好き!80年代の邦楽シーン【連載】西寺郷太のPop’n Soulを探して(2)

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ノーナ・リーヴス西寺郷太さんとFINDERS編集長米田の音楽対談連載第2回は、尾崎豊を皮切りにチェッカーズ、田原俊彦と縦横無尽に1980年代のポップシーンについて語り合います。意外な組み合わせのこの3組の共通点とは?

聞き手:米田智彦 文・構成:久保田泰平 写真:有高唯之

西寺郷太(にしでらごうた)

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1973年、東京生まれ京都育ち。早稲田大学在学時に結成し、昨年メジャー・デビュー20周年を迎えたノーナ・リーヴスのシンガーにして、バンドの大半の楽曲を担当。作詞・作曲家として少年隊、SMAP、V6、KAT-TUN、岡村靖幸、中島美嘉、そのほかアイドルの作品にも数多く携わっている。音楽研究家としても知られ、少年期に体験した80年代の洋楽に詳しく、これまで数多くのライナーノーツを手掛けている。文筆家としては「新しい「マイケル・ジャクソン」の教科書」「ウィ・アー・ザ・ワールドの呪い」「プリンス論」「ジャネット・ジャクソンと80’sディーバたち」などを上梓し、ワム!を題材にした小説「噂のメロディ・メイカー」も話題となった。TV、ラジオ、雑誌の連載などでも精力的に活動し、現在インターネット番組「ぷらすと×Paravi」にレギュラー出演中。

ジャンルを越えて惹きつけられる「天才のワークス」

没後25年を記念して発売された尾崎豊のムック本『尾崎豊 Forget Me Not』

米田:郷太さんって、マイケルであったりプリンスであったり、独自の分析力でその魅力を伝えてきたじゃないですか。でも意外なところで、去年出た没後25年を記念した尾崎豊のムック本『尾崎豊 Forget Me Not』に寄稿していた文章もおもしろくて。僕ね、尾崎の大ファンで、護国寺で行われた葬儀にも行ったし、亡くなった次の日に尾崎が住んでた町屋のマンションにも行ったぐらいなんですよ。

西寺:そうなんですか!

米田:町屋のマンションの前に行ったら、泣き崩れているファンの女の子がたくさんいて。僕がギターケースを抱えていたら、テレビ局の人に「何か弾いてもらません?」って言われまして。で、「シェリー」を弾いて歌ったんですけど、それが次の日の朝のワイドショーに映ったらしく。

西寺:前回の僕のU2話に負けないエピソードじゃないですか(笑)。

米田:(笑)。でも、僕はオンエアーを観てないんです。なぜ知ったかというと、次の日、電車に乗ってたら「今朝のテレビで尾崎歌ってたやつ、『15の夜』でも『17歳の地図』でもなくて『シェリー』を演ってたところがシブいよな」って2人組の声が後ろから聞こえたんですよ。

西寺:すごいですね。尾崎豊さんは周りに何人か熱狂的なファンがいたかな?って感じの存在で。やっぱり僕より少し上の世代に響いていたって気もしますね。今、思い出して考えれば僕が暮らしていた京都の中学生、高校生にはあんまり伝わってなかった気もしますね。やっぱりライブを観るチャンスが東京と地方って圧倒的に差がありますしね。ネットのない時代ですから。東京近郊の10代は実際にライヴに行ける確率も全然高いので熱量がやっぱり違うなぁと。あと、その後はバンドブーム全盛で、ソロのシンガーソングライターは劣勢だったイメージもあります。だからこそそんなニュートラルな立場の僕がシビれた尾崎さんの“天才性”っていうのを語ることで、別の角度で彼の魅力が伝わることもあるんじゃないかと思って、あのムック本の原稿を引き受けたんですよ。 

米田:なるほど。 

西寺:「西寺は本当に尾崎のファンなんか?」「西寺郷太は何にでも顔出すなあ」みたいなレビューや反応も目にしたんですけど、いやいや、そこが良くない?っていう話なんですよね(笑)。シンパとして、大ファンとして書いてる人ばかりだったらそれだけの本だけど。小山田圭吾も小沢健二も尾崎豊も全然違うけど、それぞれめちゃくちゃ凄いから圧倒されましたっていう人が再検証に加わっても全然いいと思うんですよね。 

米田:ええ、僕以外、周りにはその3人が同時に好きな人なんか全然いないっす(笑)。 

西寺:でも、それすごくわかりますよ。とは言え、僕がフリッパーズ・ギターのお2人を好きになったのも1995年なんで、解散してそれぞれがソロ活動で爆発されてからの超後追いですけどね。要は米田さんも僕も単純に「天才のワークスが好き」ってことなんですよね。音楽のジャンルじゃなくて。

米田:そう、そうなんですよ!

二十歳の頃を振り返ってみて、自分は何ができたんだろう?

西寺:僕ね、尾崎に関していうと、完全に前半(10代期)だけが好きなんですけど。もっと言えば「OH MY LITTLE GIRL」「I LOVE YOU」、この2曲のバラードでの歌手として、ソングライターとしての輝き、完成度と良い意味での危うさ、あくまでも僕はそこに集約されて、圧倒され続けているという感じです。

米田:あっ、僕は珍しいんですけど、後半(20代期)なんですよ。僕ね、高校3年までは尾崎嫌いだったんですよ。バイクを盗むとか校舎のガラス割るとかくわえタバコがどうとか、そういうイメージだけ見てて、ヤンキーが聴くものだと思ってて。だけど、活動休止からの復活作『街路樹』(88年)を聴いて衝撃を受けたんです。このアルバムの発売直後に東京ドーム公演があって、そのビデオを観たんですけど、すごく叫びながら、ステージをのたうちまわりながら歌う尾崎の姿を見て、「こんな激しいシンガーがいるのか!?」って驚いて。その後に2枚組の『誕生(BIRTH)』(90年)っていうアルバムが出て、そこで僕は完全に尾崎豊のファンになったんですよ。だから、(十代で発表した)最初の3枚じゃないんですよね。彼にとって最後のツアーとなった「BIRTHツアー」に行かなかったことは一生の後悔です。一度も彼のライブを観れなかった。

西寺:ああ……僕は今の今まで尾崎豊っていう人は、天才だったんだけど、日本記録を更新し続けた若き短距離走者がアクシデントで靭帯を断絶してしまった、みたいに思ってたんです。そういうスポーツ選手っているじゃないですか。ケガするまではとんでもなかったみたいな。人間って経験や年齢を重ねるたびに得るものもあるけれど、失うものも必ずある。だから、初期だけが輝いていたとしても全然悪いことじゃないんですけどね。そう思ってたんですけど、米田さんに復活してからなんですよって言われたら、それも含めてのた天才だったんだなって気がしてきましたね。

尾崎豊『誕生(BIRTH)』(1990年)

米田:『誕生』は2枚組20曲の大作なんですが、最後に「誕生」っていうタイトル曲があって、生まれてきて、デビューして、逮捕されて、で、子どもが誕生して、子どもへのメッセージを送るということまで、尾崎の人生を歌ってる曲なんですけど、それはハッキリ言って、普通なら自分の裸をさらすような恥ずかしい曲なんですよ。それに、尾崎ファンの中でも特別に支持されてる曲でもなくて。だけど、僕はこの曲、すごいなって思ってるんですよね。ここまで自分をさらけ出す人っているのか?って。言ってしまえば太宰治みたいなもので。

西寺:僕ね、自分自身をさらけ出す詞と、ビューティフルにまとめていく詞と、どっちも等価値だと思ってるんです。日本ではなぜか「さらけ出す」方が評価されますけどね。だいたいが嫌いなんですよ、そういうタイプの心情吐露系の詞は。あくまでも僕は、という限定つきでの話ですけど。ただ、さらけ出すなら尾崎くらい徹底的にやれってことですよね。

米田:そう、ここまでさらけ出してる日本人の歌手がいるのかと思ってびっくりしたんですよ。尾崎豊は、最初の三部作以降苦しんで、大人になりきれない自分を歌うんですけど、三部作はやっぱり素晴らしい。なぜかっていうと、尾崎自身を客観的に見ている尾崎がいるんですよ。それが16歳の時点でできてるっていうのがすごくて。最初にCBSソニーのSDオーディションを受けた時に、「ダンスホール」っていう曲を尾崎が歌うんですけど、それはダンスホール……いわゆるディスコですよね、そこで恋愛している男女の歌なんですけど、たしかね、ディスコでナンパされた女子高生が殺されたっていう事件が当時あって、それをヒントに書いた曲らしいんですけど、彼が書く詞にはいろんな影響があったと思うんですよね。

西寺:尾崎豊さんって、ルックスも最高ですけど、なにより声そのものが素晴らしいですよね。歌手として、美空ひばりさんとか、マイケル・ジャクソン、エイミー・ワインハウスのように心の粒子の細かさが歌に宿るタイプ。 

米田:郷太さんの言う天才性っていうか、天は二物を与えずじゃないですけど、歌詞もすごいし歌唱力もすごい、そしてなによりルックスが尋常なくイイ。これはもう、世に出るしかないっていう天才ですよね。

西寺:ただ、やはり歌が恐ろしく上手い人のひとつのタイプにあまりにも繊細な心、っていう側面があって実生活のハンドリングに苦しんで早く亡くなる運命の人も多い。尾崎さんは、典型的なそのタイプだった、というか。

米田:日本の歌謡史とかロック史のなかでも、尾崎豊って特別な人だったと思うんですよね。洋楽に影響を受けてミュージシャンを志した人はいっぱいいるけど、尾崎って洋楽をほとんど聴いてないんですよね。ブルース・スプリングスティーンとジャクソン・ブラウンぐらいなんだけど、あの完成度で17歳でデビューできたっていうのは、何があったんだろうなっていう。

西寺:やっぱり、プロデューサーの須藤晃さんや、日本の歌謡界、ニューミュージック界を支えてきたソニーの伝統、匠の技の結集っていうのかな、それが尾崎さんを成功に導いたし、結果苦しめたとは思いますね。普通に二十歳の頃を振り返ってみても、自分はその年齢で何ができたんだろう?って思うんですよ。今、45歳になろうとしてますけど、それまでにいろんな失敗とかもして。筒美京平さんはこう仰ったとか、松尾潔さんはこう教えてくれたとか、あの人のここを盗んでやろうとか、天才的な先輩たちのやってたことをいろいろ見て身につけたことばかりです。でも、尾崎さんって18、19で大人気になって、二十歳とかで一度壁にぶつかるわけじゃないですか。それでまあ、NYとか行ってなんやかんやあって、26歳で亡くなるっていう。今の日本のアーティストって、20代後半でデビューする人も多いです。30代でも若手と呼ばれることもある。そう考えると尾崎さんの富と名声と絶望、そのスピード感たるやすごいですよ。

もっと!チェッカーズは語られるべき

チェッカーズ「涙のリクエスト」

西寺:それから、この前、知人の車で大渋滞に巻き込まれた時たまたまチェッカーズの話になったんですよ。一緒に乗ってた初対面の女の人が武内(亨)さんの大ファンだったらしくて。渋滞してたから、そのチェッカーズ話、1時間ぐらい引き延ばして聞かせてくれよって(笑)。

米田:(笑)。

西寺:「ギザギザハートの子守唄」に始まって、「涙のリクエスト」「哀しくてジェラシー」。「星屑のステージ」と「ジュリアに傷心」にどっちが先だった? みたいな話で(笑)。Spotifyで聴きつつ。いい曲ばかりで。ただインタビューとかで知るとミュージシャンとしての彼らは売れまくった時代、めっちゃブルーだったっていう。

米田:本人たちは、ああいうアイドル路線を目指したわけではなかったんですよね。僕もね、チェッカーズは大好きでしたよ。当時の影響力もすごかったし。

西寺:音楽的にあまり語られることないですけどね。

米田:語るに値するものなんですけど。

西寺:日本のポップス史を語る時に、山下達郎さんとかはっぴいえんどとか大瀧詠一さんを語るなら、その1/7ぐらいはチェッカーズのことを語ってほしいなぁ、と(笑)。

米田:「19XX年の……」っていう、ノンフィクション作家の柳澤健さんのシリーズ本があるじゃないですか。その言い方を借りるなら、“1984年のチェッカーズ”はホントにすごかった。シングル・チャートのベストテンに3曲同時(「ギザギザハートの子守唄」「涙のリクエスト」「哀しくてジェラシー」)に入ってたりしたわけじゃないですか。

西寺:80年代初期って、50年代とか60年代のリバイバルだったりっていうのがあって、まあ、今も80年代とか90年代の音、例えば「ジャミロクワイ、イイよね」みたいな流れって少し前にあったじゃないですか。やっぱり例えばLPや7inchのようなパッケージが普及したのが大きいと思いますね。あと家庭用ビデオの登場。VHSとかβ。自力でも過去を回顧しやすくなった世代というか。50年代後半にエルヴィスが出てきて、60年代にビートルズとかモータウンが流行って、65年に10歳だった人が、25歳になるっていう時期が1980年。チェッカーズは、50sと60sを混ぜたみたいなポップソングで、モータウンの匂いとロカビリーのリバイバル感が合体してるというか。そこにプロが完璧な歌謡感を加えた。

米田:あとはその、チェッカーズといえばファッションですよね。チェック柄のスカートみたいなのと髪型。僕ね、小学校6年生の時に、学校でいちばん最初にチェッカーズカットにしました(笑)。テレビで観た翌日に速攻、理容室に行って、前髪だけ残してくれって。次の日学校に行ったら大人気でしたよ(笑)。

西寺:簡単ですね(笑)。

米田:でも、他のクラスの男子から呼び出しくらって、「おまえ、調子こいとるやろ?」みたいなこと言われてね(笑)。

西寺:(笑)。僕ね、売野雅勇さん(作詞)と芹澤廣明さん(作編曲)のコンビで作られたシングルは、ほとんど大好きなんですよ。“ほとんど”っていうのは、ひとつ嫌いな曲があって、「俺たちのロカビリーナイト」っていう曲。あれだけはなんかメンバーに媚びたのか、よくわからないんだけど嫌で…(笑)。

米田:わかるような気がします。

西寺:で、本人たちが曲を書くようになった「NANA」あたりから、興味がなくなるんですよね。時代的な変化も大きいですけどね。「ONE NIGHT GIGOLO」っていう武内亨さんが書いた曲は好きだったなあって思い返して、Spotifyで検索して久々に聴いてみたんですけど、これ、Bメロなんでこうなるのかなって(笑)。サビは最高なんだけど、作家的なBメロの作り方ってこんな感じの展開でしょ?っていう気がしてしまいますね。

米田:プロがやってた仕事とはちょっと差があると。

80年代のトップアイドルをBIGにした「日本のロッド・テンパートン」

田原俊彦「君に薔薇薔薇…という感じ」

西寺:フミヤさんは、1962年生まれでTHE BLUE HEARTSの甲本ヒロトさんと同い年なんですよね。BOØWYの氷室京介さんはもちろん、同じ1962年の早生まれの布袋寅泰さんよりも学年は下。チェッカーズが若いうちに歌謡感満載の国民的人気者になってしまったことで、その次の流れ、遅れて加速してきた同世代のバンドブームの勢いに自分たちも革新しないと、と思うのは自然なこと。実際に作詞作曲もメンバーで出来たわけですから。ただ、僕も含めて周囲がチェッカーズに求めていたものとは違ったというか。僕はあくまでも曲の構造の完成度、時の流れにもビクともしないクオリティにこだわってしまいます。歌は未熟でも全然構わなくて。あ、その観点、80年代初期の歌謡曲でいうと、トシちゃん(田原俊彦)も最高ですよね。「キミに決定!」「君に薔薇薔薇…という感じ」…とかね。

米田:僕もトシちゃんは大好きなんですよ。小学校1、2年の頃はトシちゃんに夢中でしたね。っていうか、尾崎豊が好きでトシちゃんが好きでU2が好きっていうやつもなかなかいないと思いますけど(笑)。

西寺:ボノの歌声なんて“逆トシちゃん”もいいところじゃないですか(笑)。やっぱね、結局天才が好きなんですね。天才というか、ポップネスの中にある常軌を逸した何かが好きなんですよ。YouTubeで初期のトシちゃんの動画がたくさん上がってるんですけど、もうね、デビューから数年のトシちゃんが放つ光はヤバ過ぎますよ(笑)。特に、作詞作曲家の宮下智さんが手掛けた楽曲は、日本音楽史上最高峰だと思いますね。少年隊の「まいったネ今夜」も宮下さんの作品です。トシちゃんだと「キミに決定‼」なんて、作詞もぶっ飛んでて。作曲のみならず作詞もキレキレという意味で、宮下さんは日本のロッド・テンパートンって感じですね。

米田:僕らが小学1年とか2年でしょ、デビューしたのが。

西寺:トシちゃんは、そうですね。80年だから、僕は小学1年。この年に田原俊彦さん、松田聖子さんがデビューしたんですよね。時代が70年代から80年代になって、新時代のスターが次々と現れていって。来年、平成から新しい元号になるじゃないですか。今の時点で「最新」だと思っているものや若者のファッションも、割りとすぐに「平成っぽい」って言われて古臭がられると思うんですよ。そう思うと、次のノーナのアルバム、リリースが春なんで平成最後のアルバムになるんですけど、なんか旧時代の最後みたいでイヤやなあ(笑)。

米田:さらに言うと、もしかしたら、10年代最後のアルバムになるかもしれないですね。

西寺:Y2K問題とか騒いでたのに、いつのまにか2019年で怖くなりますよ(笑)。そういえば、さっきの“1984年のチェッカーズ”ってことで思い出したんですけど。

米田:ほう。

西寺:1984年、小4の夏休みに、おかんと一緒にショッピングモールに行ったんですけど、そこにレコード屋さんがあって。お店の右側と左側にあるLPの棚にイチ推しの最新盤が飾ってあったんです。で、片方にはチェッカーズの『絶対チェッカーズ!!』、もう一方にはジャクソンズの『ビクトリー』がドーンと飾られていて、1枚だけ買ってくれると。で、結構迷ったんですけど、チェッカーズは誰か学校の友達から借りて聴けばいいかなって思ったんです(笑)。クラス中が夢中でしたから。で、僕はジャクソンズを選んだんです。そこに封入されていたアルバムのブックレットに吉岡正晴さんや湯川れい子さんが書かれた濃厚なライナーノーツが。それを繰り返し読んで、モータウンからの歴史やマイケルの周辺の音楽にも触れるようになったから、今の西寺郷太があるっていう。あの時、チェッカーズを選んでたらどうなってただろうなと。

米田:なるほど〜。そういえば、この連載のタイトル「西寺郷太のPop’n Soulを探して」は、吉岡さんの著書やブログのタイトルになってる「ソウル・サーチン」からアイデアを拝借してて。

西寺:ですよね。すごく良いタイトルだと思います! 吉岡さん、ほんとに優しいんですよ。


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