CULTURE | 2021/06/07

大学を中退しアスキーに入社。そして、やってきた日本のインターネットの夜明け【連載】サム古川のインターネットの歴史教科書(2)

聞き手:米田智彦 構成:友清晢

古川享
1954年東京生まれ。麻布高校卒業後、和光大学人間関係学科中退。1979...

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聞き手:米田智彦 構成:友清晢

古川享

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1954年東京生まれ。麻布高校卒業後、和光大学人間関係学科中退。1979年(株)アスキー入社。出版、ソフトウェアの開発事業に携わる。1982年同社取締役、1986年3月同社退社、1986年5月 米マイクロソフトの日本法人マイクロソフト株式会社を設立。初代代表取締役社長就任。1991年同社代表取締役会長兼米マイクロソフト極東開発部長、バイスプレジデント歴任後、2004年マイクロソフト株式会社最高技術責任者を兼務。2005年6月同社退社。
2006年5月慶應義塾大学大学院設置準備室、DMC教授。2008年4月慶應義塾大学大学院メディアデザイン研究科(KMD)、教授に就任。2020年3月慶應義塾大学大学院メディアデザイン研究科を退職。
現在の仕事:N高等学校の特別講師。ミスルトウのシニア・フェロウ他、数社のコンサルティング活動
http://mistletoe.co
Think the earth, NGPFなどのNPO活動
http://www.thinktheearth.net/jp/
https://www.thengpf.org/founding-directors/

帰国、そして大学中退を後押しした西和彦さんの言葉

1970年代後半。アメリカ滞在中にコンピュータ・ネットワークと出会ってからというもの、国籍や学歴、経験など一切の属性にとらわれることなく、コンピュータ・ネットワークを活用すれば何か大きなものにチャレンジできるのではないかという想いは、日に日に強くなっていた。

当時の僕は一応、和光大学に在籍中の立場ではあったが、こうなってくると卒業する必要が本当にあるのかどうか、疑問が湧いてくる。ちょうどその頃、度々アメリカで顔を合わせていたのが、『月刊アスキー』の西和彦さんである。彼の何気ない言葉は、僕の背中を押すのに十分すぎるものだった。

ロスアンジェルス遊学中の住まいに西さんは度々訪ねてきて「君が大学を卒業する頃には、うちの会社はかなり大きくなっているだろうから、入りたいと言ってもそう簡単には入れてやれないよ。今すぐ大学を辞めてうちへ来るなら、将来は取締役にしてやるのに」

今にして思えば単にそそのかされただけかもしれないが、心のどこかで迷っていた僕には効果十分。なにしろその時点で僕は、すでに25歳なのだ。僕は米国の大学への転籍を辞める決意をし、日本に戻って西さんの元でお世話になることにした。

当時のアスキーは青山のマンションの一室にオフィスを構えていた。といっても、1DKの小さな物件で、玄関を開けると三和土には30足くらいの靴が無造作に転がっていた。つまりは狭いスペースに大勢のスタッフがすし詰め状態で雑誌作りを行なっていて、バスルームの扉を開けてみると、バスタブの中でも人が作業しているような有様だった。

「ええと、私はどこで仕事をすればいいんでしょうか?」

近くにいた社員にそう尋ねると、窓際に置いてある一枚の画板を指さされた。てっきりデスクが与えられるものだと思っていたが、とんでもない。「これは騙されたのかもしれないぞ……」と思わないでもなかったが、時すでに遅しである。

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