『麒麟がくる』公式サイトより
明智光秀が主人公の大河ドラマ『麒麟がくる』の最終回が2月7日に放送されます。
私は最初からずっと観ていたわけではなく、SNSで話題になっているのが気になって5回前ぐらいから観始めた程度なのですが、それでも
「誰でも知っている最終回の展開」=「本能寺の変」
に向かって徹底的にぶつかりあう人間模様が盛り上がっていく展開に目が離せなくなっています。
今回は、大河ドラマ『麒麟がくる』の魅力について語ると同時に、日本史にとって「本能寺の変」とはどういう事件だったのか、経営コンサルタント兼思想家の視点で考えてみる…という記事をお送りします。
倉本圭造
経営コンサルタント・経済思想家
1978年神戸市生まれ。兵庫県立神戸高校、京都大学経済学部卒業後、マッキンゼー入社。国内大企業や日本政府、国際的外資企業等のプロジェクトにおいて「グローバリズム的思考法」と「日本社会の現実」との大きな矛盾に直面することで、両者を相乗効果的関係に持ち込む『新しい経済思想』の必要性を痛感、その探求を単身スタートさせる。まずは「今を生きる日本人の全体像」を過不足なく体験として知るため、いわゆる「ブラック企業」や肉体労働現場、時にはカルト宗教団体やホストクラブにまで潜入して働くフィールドワークを実行後、船井総研を経て独立。企業単位のコンサルティングプロジェクトのかたわら、「個人の人生戦略コンサルティング」の中で、当初は誰もに不可能と言われたエコ系技術新事業創成や、ニートの社会再参加、元小学校教員がはじめた塾がキャンセル待ちが続出する大盛況となるなど、幅広い「個人の奥底からの変革」を支援。アマゾンKDPより「みんなで豊かになる社会はどうすれば実現するのか?」、星海社新書より『21世紀の薩長同盟を結べ』、晶文社より『日本がアメリカに勝つ方法』発売中。
1:それぞれの人物イメージを強烈に塗り替えてくれる『麒麟がくる』の魅力
「今回の主役は明智光秀」と聞いた時に、失礼ですが私は「なんか地味なドラマだな」と思ってしまいました。
それぐらい、明智光秀という人物は信長とか秀吉とか家康とか武田信玄とか上杉謙信とか毛利元就とか…もっと言えば松永久秀や斎藤道三みたいなレベルの知名度の人物と比べても「地味」な印象が、よほどの日本史マニアというわけではない多くの日本人にはあったのではないかと思います。
よくわからないけど、「本能寺の変」の時にポンと歴史の舞台に飛び出てきて、その後すぐに秀吉に敗れ去って消えた人物…というぐらいの印象の人が多いのではないでしょうか。
しかし、『麒麟がくる』を途中からでも観始めると、そんな明智光秀像が一変するというか、世の中全体のことを考える良識があり、高い能力があり、周囲のあらゆる人に対する人間的な優しさがあり、そして織田信長とも強い信頼関係で結ばれている…そういう非常に魅力的な人物であるように思えてくるわけですね。
このドラマでは長谷川博己さん演じる光秀だけでなく、剽軽ぶった振る舞いの奥に不気味なくらいに底知れない人間的深みを感じさせる秀吉(佐々木蔵之介)とか、「神秘的な魅力」と言っていいほどの存在感を放つ正親町帝(坂東玉三郎)とか、最終的には光秀に謀反を決意させた張本人といっていい役割になる、迫力ある帰蝶サマ=濃姫(川口春奈)とか、私のように「一応は知っているけど最新の研究動向を事細かに知っているわけではない」ようなレベルの人間の人物イメージを徹底的に覆してくれる、鮮烈な人物像がたくさん描かれます。
特に圧巻なのが染谷将太さんが演じる信長で…。
2:「ほんとうにこういう人がいそう」な信長の描写
ドラマや映画で織田信長が描かれる時、それは「圧倒的な英雄」だったり、「サイコパス的な思い切りのある人物」だったり、とにかく「普通の物差しでは測れない人物」として描かれることが多かったように思います。
しかし、染谷将太さん演じる織田信長は、なんかこう、「本当にこういう人がいそう」なんですよね。
元々最初から「突発的に何するかわからない人物」として部下に恐れられていたのではなく、むしろ部下のことに細部まで気が付き、相互の信頼関係を結ぶことができる人物であり、掲げる高い理想に共感していろんな武士が馳せ参じてきた経緯がある。
にも関わらず、年を重ねて権力が大きくなるに従って、どんどん“おかしく”なっていく。
嫉妬心と猜疑心がものすごく強くなり、ちょっとしたことで過剰なまでに部下に当たり散らすようになる。ちょっとでも敵対するそぶりを見せた人間を全く許せないようになり、光秀が「命は取らないように約束する」と言って囚えた敵をわざわざハリツケにして殺し、その塩漬けの生首を宴席の余興に持ってきたりする。
これは現代人の私たちの生活においても、「あの優しかった夫が(妻が)…」「あの人間味溢れる存在だった上司が…」的に、ものすごくリアルに感じられる人間像だと感じます。
高い理想を共有できていたリーダーだったのに、どんどん「おかしく」なってきて、次々と残虐な決定を続けている。
「このままでいいのだろうか?」と真剣に思い悩むのは光秀だけではなく、「出てくる登場人物の“ほぼ全員”の共通の思い」にまで発展しつつあるように見えます。
そして、そういう“ちゃんと悩んでいる部下たち”と、逆に「単純かつ徹底的に信長に心酔している森蘭丸(信長と同性愛関係にある小姓)」というギャップもふとした瞬間の絶妙な演技の中に描かれているように思います。
でも信長は、「森蘭丸みたいに心酔する部下」ではなく、光秀のように自分の意思と考えがある部下にちゃんと自分のことを理解してほしいんですよね。
でもどんどんすれ違っていく。お互いもうちょっと意地を張るのをやめればいいのに…というところで引き下がれず、「果てしなく無意味な意地悪」にしか見えないような子供じみたぶつかり合いに発展してしまう。
「本能寺の変で光秀がなぜ謀反したのか?」というのは諸説入り交じる日本史上の大きな謎ですが、このドラマを観ていると、
…という気分にすらさせられてしまう魅力のあるドラマになっていると思います。
本能寺の変という最上級にベタな題材を、ここまで心に迫ってくるドラマに仕上げた関係者の力量に感服しています。
最近のNHKは受信料を払っていれば放送後見逃し配信が「NHKプラス」というサービスで1週間見れますし、その配信期間が終わっても「NHKオンデマンド」で少額払えば観られます。
最終回に向けて、その前の4~5回だけでも観ておくと、この「名作ドラマ」の最終回を楽しめること間違いないですよ。おすすめいたします。
3:本能寺の変は、日本史においてどういう出来事なのか?
で、ここからが「本能寺の変とはどういう出来事なのか」について個人的な考えを述べていきたいわけですが。
たとえば『麒麟がくる』の第43回では、
というような理想が繰り返し語られます。
そしてそういう「皆のための善政」を外れて個人の果てしない欲望に飲まれていく存在が、「月にのぼる者」と呼ばれています。
本能寺の変の真相がこのドラマの通りではなかったとしても、「こういう構図」自体は日本史を通底して常に存在していたのではないかと私は感じています。
「万人のための政治」という理想があり、そこから外れて「個の欲望」に走ろうとする存在がある一線を超えた時に。
「光秀個人の意志だけで謀反を決断する」のではなく、言葉には出さないが多くの部下たち、そして敵対勢力や旧幕府や朝廷勢力までに至る暗黙の「合意」として光秀の背中を押している…というような構図がある。
あれだけ戦上手で戦略的慧眼もある光秀が、本能寺の変が終わってからはあまりにもあっけない最後を迎えてしまったのも、本当に「(自分自身のエゴとして)次の天下人になってやる!」という思いよりも、「とにかくこのままではいけないのだ!」という突き動かされるような感情によって決断してしまったために、本能寺の変以降は「戦い続ける意思」を失ってしまっていたのではないか、という感覚もあります。
この「本能的合議制」みたいな性質は、現代まで含む私たち「日本らしさ」の根底にある性質であるように思えてきますよね。
4:「本能寺の変がある日本」と「本能寺の変がない中国・韓国」の違い
しかし、こういう「暴走する個=出る杭を抑え込む集団的本能」という言い方をすると、そういうのは今の日本の停滞の元凶そのものではないか? と思う人も多くいる時代になっているように思います。
あなたも、
という風に考えるタイプの人かもしれない。
例えば、韓国も含めた「広義の中華文明圏」においては、こういうストッパーをあえて設けないことを理想と感じる人が多いように思います。
「リーダーが万民の幸せを考えなくてはならないという理想」の部分はアジア的に共有しているものだと思いますが、そこから「月にのぼる者」への扱いが違うというか。
確かに「月にのぼる者」によって多少の問題は起こされるだろうが、だからといってどこにも中心がなくグダグダに混乱し続けるよりは、「厳然とした一個の中心」を設定して皆がそれに従う世界になった方がいいのだ…という理想が彼らにはあったりする。
ここ1年の「新型コロナに対する対策」にしても、大陸中国が住民に対して強烈な強制力を持っているのは知っていましたが、台湾や韓国といった国でも、「ちょっとでも隔離違反をすれば強烈な罰金とか、場合によっては即逮捕」といった強烈な罰則で人民を統御して、それが多少の反発はあれど多くの国民には受け入れられているのは私にとって衝撃でした。
日本の保健所が、「陽性者に電話連絡しても、若い人はなかなか出てくれなくて…」みたいな感じのユルユル統御しかできず、「中国・韓国・台湾のようにもっと厳しくやれ!」という声に答えてちょっとでも「罰則化」の議論をすれば徹底的に反発を受ける…というのとは、「お上」に対する感覚が「全く違う世界観」だなと感じざるを得ません。
これは「本能寺の変がある国」と「本能寺の変がない国」といっても良い違いなのではないでしょうか。
5:「本能寺の変がある日本」で社会変革を起こすための近道
最近の日本がいろんな意味で機能不全気味の混乱をあちこちで起こしていると感じている人は多いと思いますが、そういう時についつい私たちは、「中韓風のトップダウンの理想」を描いて、無理してでもそれを日本でも実現したいと思ってしまいがちです。
以前、戦国時代をテーマとした日本の民放バラエティ番組を見ていたら
になっていて笑ってしまったのですが、これは日本人の永遠の矛盾した感情と言っていいと思います。
グダグダな現実を吹き飛ばしてくれるスーパーマンが出てきて、独裁的にザクッと解決してくれた爽快だろうなあ…と思う反面、じゃあ自分の職場でそれをやられて自分に影響が出たらソレは絶対嫌だと感じてしまう。
そうやっていろんな存在を持ち上げては叩き潰す…を続けてここ、20年ぐらいグダグダに混乱してきた日本というイメージを持っている方は私だけではないでしょう。
ちょっとだけ自己紹介をしますが、私は外資系コンサルティング会社からキャリアをスタートしたあと、「グローバル経済的な手法」と「日本社会」とのギャップがあまりにかけ離れた価値観にあることがいずれ大問題になるのではないか? と思って(その後世界中でトランプ元大統領支持者層や欧州極右勢力のような形でその懸念は具現化したわけですが)、そのギャップを埋める何らかの考え方を長年模索してきた人間です。
そのために、ブラック企業や肉体労働現場やホストクラブでわざわざ働いたりカルト宗教団体に潜入したりなどして「日本社会のアレコレのリアル」を知る体験をしたあと、中小企業のコンサルティングをしています。
「その結論」的に言うのですが、日本は「本能寺の変がある国だという前提の対処」をしていくしかないのではないか…というように思っています。
過去20年の日本は、「抵抗勢力をぶっつぶせ!」的なことを声高に叫んで、徹底的に反対者を無視し、人間関係の環を引きちぎり、強烈な改革を起こそう起こそう…としてきましたが、じゃあ結果日本は「改革」されてちゃんと「新しい道」に進むことができているでしょうか?
むしろ、「抵抗勢力をぶっつぶせ!」と叫べば叫ぶほど、果てしなく絡みついてくる人間関係の環の中に埋没し、泥沼に足を取られるような混乱の中で無為無策だけが積み重なってきたようなところがあるのではないでしょうか?
しかし、日本という国は「ほんとうの理想はこういうのだよね」という自然な共感を育てれば、いつの間にか強烈に「みんな」で変われる国でもあるはずです。
日本中にいつの間にか「ゆるキャラ」が溢れている…みたいな「共感が勝手に全員の自発的参加をもたらす回路」を、遠回りなようでもちゃんと手順を踏んで育てていくことが逆に近道なのではないか?と私は考えています。
なぜなら、「抵抗勢力をぶっつぶせ」型の市場原理主義をもっと徹底的に活用した諸外国(特に欧米諸国)においては、それぞれの国の中が徹底的に分断されてしまって、「トランプ派とアンチトランプ派で同じ話が全然できない大混乱」にまで至ってしまっているからです。
逆に日本は「金持ちも貧乏人も一応まだ同じコンビニとラーメン屋と漫画を共有している」みたいな部分を土俵際一枚ぐらいは残している。
「うさぎと亀の競争」ではないですが、そこで「本能寺の変がある国」ならではの改革のあり方について、真剣に考えてみるべきタイミングではないかと思っています。
6:現代の「月にのぼる竹中平蔵」とどう向き合うか?
これを読んでいる読者の中には「何甘いことを言ってるんだ!頭の古い老害どもに新しいチャレンジが全部潰されてしまう国になってしまうぞ!」と思うタイプの人がいるかもしれない。
もちろんそういう危惧はあります。だからこそ、単にグダグダの現状追認に戻れというわけではないわけです。
しかし、「改革派VS抵抗勢力」という分類で騒ぐこと自体が自己目的化してしまって、具体的な細部の調整をちゃんとやっていけばスルスルと進むようなことまで混乱の泥沼に沈んでしまっている現象を私は最近仕事の中でよく見かけるようになりました。
たとえば今、兵庫県養父市というところで、農地を企業が所有できるようにする規制緩和特区が実験されていて、実際に耕作放棄地になっていたところに営農者が多く現れた成功例になっているそうなんですが、その規制緩和を全国に展開するかでモメているんですね。
そういう風に聞くと、あなたは、
と思うタイプでしょうか? それとも、
と思うタイプでしょうか?
こういう問題があると、実際にそこで起きている問題をリアルに見るよりも、こういう↑党派争い的な構図で脊髄反射的に罵り合いに発展して、結局何も進まないことが過去20年の日本には多すぎたように思います。
案の定規制を議論する会議で、われらが竹中平蔵先生が「既得権益をぶち壊せ」風の演説を打ったという話を聞きました。
で、この件について私のクライアントの農業者といろいろと議論をしてみたのですが、実は、
・実は既に今でもリース契約でなら企業参入にほとんど規制はない
・現状の農地価格を考えると農地をわざわざ購入して利益を上げるのは非常に難しく、多くの企業の農業参入はリースで行われている(養父市においても同じ)
・「すべてがイデオロギー闘争」に見える団塊の世代が引退に近づくにつれて、現役世代で「企業」を敵視している人はほとんどいない(現実に耕作放棄地が増えまくって何かしなくちゃいけないことは明らかすぎるため)
という状況らしく、つまり養父市で実際に結構企業参入が進んで、耕作放棄地になってしまっていたところに新しい営農者ができたのは確かだそうなんですが、そうなった理由は
・規制緩和をしたから…ではない(もともとリースでなら問題なく企業参入できていたので)
んですよね。そうじゃなくて
・市長が旗振りをしていろんな人の利害を調整して具体的な細部の話を動かした
から実現してるんですよ。
最近、「大阪都構想」も否決されましたし、ネットでは定期的に竹中平蔵氏が「国賊」的にやり玉にあがっています。
で、私のような氷河期世代の人間は、どこかで市場原理主義的というか、「改革フェチ」みたいなところがあって、具体的な細部の改革の議論に熱中するあまり、「ついてきてくれない人たち」に対する憎悪をこじらせがちだったりするんですが。
私がコンサルティングを通じて出会ういろんな事例の中で、昔だったら「敵」だった相手まで、具体的な話をちゃんとやればスルスルと進み始める…みたいなことがチラホラと見られるようになってきています。
養父市の事例でも、「既得権益ガー!」「強欲な資本主義者どもガー!」的な罵り合いに持っていくのではなく、単に
的な「ゆるキャラがいつの間にか全国にあふれている現象」みたいな回路をうまく使っていくことを、「本能寺の変がある国」としてもっと重視していくべき時が来ているのではないでしょうか?
7:竹中平蔵型市場原理主義を「敵は本能寺にあり!」的に討ち取るには?
結局、竹中平蔵型市場原理主義というのは、その逆側にある、なんでもかんでもイデオロギー的に「反対」しか言わない日本社会の無為無策な危機感のなさ…みたいなのと表裏一体なんですよね。
だから、昨年末に書いたnote記事↓(おかげさまでその月で最も”スキ”された記事の一つに選んでいただきました)
「竹中平蔵を排除するためにデービッド・アトキンソンと組む」・・・「血も涙もないネオリベモンスター」を倒すためには「血の通ったネオリベ」を味方にする必要があるという話。
で使った絵を引用すると、
こんな感じで、過去20年、色々と激変する世界の問題に対して、「ちゃんと対応しようと考えて」いるのが竹中平蔵的なネオリベ勢力しかいなかったところがあるんですよ。
あらゆる環境が激変しているのに、ただ単に昭和の栄光にすがって「昔のようにやればいいんだ」って言ってるだけだと本当にどこにもたどり着けないので、結局竹中平蔵型市場原理主義勢力を「止める」ことができずに終わるんですよね。
『麒麟がくる』で信長を討つには、「信長が目指す世界」に対地する「本当の理想の政治」というものを、それぞれなりに考えて語るシーンが沢山挿入されていますよね。
「信長を討つ」には、「それ以上に理想的で、かつそれ以上に現実的」なビジョンを育てていくしかないわけです。
それをしないで、単に「竹中平蔵は国賊だ!」と騒ぐだけでは、より「憎まれっ子世にはばかる」的に彼はさらに勢力を伸ばして暴れまわるようになるでしょう。
日本人の「根底的な共感」を呼び起こして「月にのぼる者」を討つには、単に「相手の裏返しの反論」をするだけじゃなくて、自分たち自身がちゃんと責任感を持って考えることが必要です。
「中韓型のトップダウン的理想」を目指そうとするも、結局自分たちの本能でブレーキを踏んで前に進めなくなるよりも。
むしろ「本能寺の変がある国」として、ちゃんと「遠回りのようで近道」の道を通って理想を語り、そして社会を現実的な問題に対して変化させていく。
「無理やりなトップダウンの市場原理主義的改革」が過去20年の諸外国で経済的発展をもたらすと同時に引き返せないほどの分断を生み出し、民主主義の危機を生み出してしまっている時代においては。
そういう「日本のあり方」が、新しい理想の形として提示していける未来すらありえると私は考えています。
そして、「グローバルな知性と、現地現物的な社会」との間の新しい関係を取り結ぶことさえできれば、例えば【『日本の学術予算は実は簡単に増やせる』という話】というnote記事で書いたように、
これだけ問題になってSNSで学術関係者の呪詛の声を聞かない日はないほどのの問題すら、本来は来年からだって「世界に冠たる」というレベルで日本政府は予算を用意する余力があるはずなのです。
「本能寺の変がある国」としての自分たちの自然なあり方に、目覚めるべき時が来ているのではないでしょうか?
感想やご意見などは、私のウェブサイトのメール投稿フォームからか、私のツイッターにどうぞ。
連載は不定期なので、更新情報は私のツイッターをフォローいただければと思います。
この連載の趣旨に興味を持たれた方は、コロナ以前に書いた本ではありますが、単なる極論同士の罵り合いに陥らず、「みんなで豊かになる」という大目標に向かって適切な社会運営・経済運営を行っていくにはどういうことを考える必要があるのか?という視点から書いた、「みんなで豊かになる社会はどうすれば実現するのか?」をお読みいただければと思います(Kindleアンリミテッド登録者は無料で読めます)。
「経営コンサルタント」的な視点と、「思想家」的な大きな捉え返しを往復することで、無内容な「日本ダメ」VS「日本スゴイ」論的な罵り合いを超えるあたらしい視点を提示する本となっています。