コロナ禍でのテレワークが強制的に増えたことはもちろん、ここ数年、多様な働き方や人材活用があらゆる企業で模索されている。
言わずと知れた広告業界の雄であり、電通に次ぐ国内広告業界第2位の売上を誇る博報堂が、ユニークな人材活用をスタートさせていると聞きつけ、博報堂に取材を依頼した。
なんとあの人気ライターのヨッピー氏をはじめ、博報堂に在籍後、ネットニュース編集者やライターとして活躍し、FINDERSの連載でもおなじみの中川淳一郎氏が博報堂に週一で勤務しているというのだ。
前編に引き続き、この人材活用の責任者である、博報堂執行役員の嶋浩一郎氏をはじめ、ヨッピー氏、中川氏に話を聞いた。
聞き手:米田智彦 文・構成:庄司真美 写真:神保勇揮
嶋浩一郎
博報堂執行役員、クリエイティブディレクター、編集者
1968年東京都生まれ。1993年博報堂入社。コーポレートコミュニケーション局で企業のPR活動に携わる。2001年朝日新聞社に出向。スターバックスコーヒーなどで販売された若者向け新聞「SEVEN」編集ディレクターに就任した後、博報堂刊『広告』編集長を務める。2004年「本屋大賞」立ち上げに参画。現在、NPO本屋大賞実行委員会理事。06年既存の手法にとらわれないコミュニケーションを実施する「博報堂ケトル」を設立。カルチャー誌『ケトル』の編集長、エリアニュースサイト「赤坂経済新聞」編集長などメディアコンテンツ制作にも関わる。編著書に『CHILDLENS』(リトルモア)、『嶋浩一郎のアイデアのつくり方』(ディスカヴァー21)、『このツイートは覚えておかなくちゃ。』(講談社)、『人が動く ものが売れる編集術 ブランド「メディア」のつくり方』(誠文堂新光社)などがある。
ヨッピー
ライター
1980年大阪生まれ、現東京都在住のライター。関西学院大学を卒業後、商社に就職するも「仕事に飽きた」という理由で衝動的に会社を辞め、以降は数多くのヒットコンテンツを連発するフリーランス・ライターとして確固たる地位を築く。ライターとしての仕事以外にも、お出かけメディア「SPOT」の編集長をはじめ、ウェブマーケティングのコンサルタント、企画設計、講演にイベントを主催するなど、活躍の幅は広い。
中川淳一郎
ウェブ編集者、PRプランナー
1997年に博報堂に入社し、CC局に配属され、企業のPR業務を担当。2001年に退社した後、無職、フリーライターや『TV Bros.』のフリー編集者、企業のPR業務下請け業などを経てウェブ編集者に。『NEWSポストセブン』などをはじめ、さまざまなネットニュースサイトの編集に携わる。著書に『ウェブはバカと暇人のもの』(光文社新書)、『ネットのバカ』(新潮新書)など。
博報堂を飛び出し、ネットニュース黎明期から「受ける」コンテンツを会得してきた中川氏
―― 今回のヨッピーさん、中川さんとの業務委託契約についてですが、嶋さんの元部下の中川さんとは退職後も長年一緒に仕事をしてきた中で、なぜ今、改めて博報堂に呼び戻そうと思ったのですか?
嶋:話は中川の博報堂時代に遡りますが、彼が在職中はあまり一緒に仕事をしたことはありませんでした。ある日、彼が「辞めます」と言うので辞める理由を聞いたら、「NIGOに続いてTシャツを作りたい」と面白いことを言い出したんです。確かに当時は、裏原宿のカルチャーが流行っていましたが、「一体どの口が言ってるんだ?」と全身で突っ込みたくなりましたね(笑)。
博報堂執行役員、クリエイティブディレクター、編集者の嶋浩一郎氏。
中川:学生時代、大学の生協が持っていた「新入生の体育大会で1200枚のTシャツの制作をすべて請け負う」という既得権益を僕がぶっ壊し、自分で1200枚を受注したことがありまして。その成功体験をもとに退職後に通販サイトを作ったんですが、結局36枚しか売れず、この道は諦めました。
ヨッピー:36枚ってわりとすごいですよね(笑)。
嶋:ただひとつの成功体験にすがるような話ですが、考えてみたらZOZOより早い時期に始めているので、もしかしたら前澤さんに勝てたかもしれませんよね(笑)。
その後、僕は朝日新聞に出向し、若者向けのタブロイド版『SEVEN』の編集をすることになり、記者要員として中川に声をかけて、よく一緒に泊まり込みで仕事をするようになりました。
すると中川にとってはラッキーなことに、向かいの部屋に『TV Bros.』編集部が入っていたんです。そこに、「朝から焼酎なんか飲んでるんじゃないよ!」などと古参の管理系女性社員に怒られている、謎の紫のワイシャツとビシッとした黒いスーツを着た人がいて、その人が当時のTV Bros.編集長の小森さんでした。
「この人はずっと徹夜で働いてて、今仕事終わりなんですよ」なんてフォローしているうちに仲良くなって、それから中川は『TV Bros.』でも働き始めました。その後もいろんなつながりが広がっていったよね。
ネットニュース黎明期に「Ameba News」を任された貴重な博報堂OBとして
嶋:その頃、ちょうど2001年頃かな。サイバーエージェントの藤田社長と会うことになるんだよね。ネット業界はまさにネットニュースが生まれた時代で、1996年にYahooニュース、1998年にヤフトピができたくらいの頃です。
下川進さんの『2050年のメディア』にも書かれていますが、当時はニュースの黎明期だったこともあって、Yahooニュース編集部の人たちは各メディアからニュースを集めることに非常に苦労していました。
右/ウェブ編集者でライターの中川淳一郎氏。
中川:ある日、女友達にカメラマンの彼氏を紹介されたのですが、彼はライターと組んで、サイバーエージェントという新しい会社で仕事をしたがっていると言うんです。
サイバーエージェントに打ち合わせに行くと、担当者がなんと、かつて博報堂で一緒に仕事をしていた人で、そこからずっと彼の下で仕事をするようになり、やがて藤田社長とも会うことになります。
嶋:やがて2006年に中川くんはネットニュース「Ameba News」の立ち上げに関わるようになりますが、今やスマホが普及し、ネットニュースの影響って半端ないわけです。
そのネットニュースの黎明期に、さまざまなIT企業が参戦してきた当時から中川はネットニュースを作ってきているわけです。博報堂OBとしてすごく貴重な体験をしているなと客観的に感じていました。
当時、僕も新興メディアとしてネットニュースに興味があったので、どうすればPVが上がるのかとか、プラットフォーマーへの配信の仕組みみたいなことを、当時「livedoorニュース」を統括し、後にLINEやZOZOの役員も務める田端信太郎君と中川の3人でよく飲みながら話してましたね。
中川:たとえば、喜怒哀楽の中でも「怒り」のニュースは一番PVが上がるから、「芸能人の某ご意見番が激怒!」みたいなニュースが受けるとか。それから、一番クリックされやすいタイトルの文字数の理論、タイトルに漢字と平仮名、数字の3要素が入っている方がクリックされる率が高くなるといった話を共有していました。
嶋:当時の博報堂にそうした知見がある人はほとんどいなかったと思います。もともと広告を作る仕事が僕らの主な仕事でしたから。もちろん、ネットニュースが後に生活者に影響力の大きいメディアになっていくということは理解していました。
一方で、博報堂を飛び出し、ネットニュースの黎明期から制作に関わり、そのド真ん中で中川は記事を作っていました。だってかつては中川の家の6畳間が「Ameba News」の編集部だったくらいだもんね(笑)。
中川:そうなんですよ(笑)。新聞や雑誌が積み重なった僕の雑多な6畳間に、僕とアルバイトの席があるだけという。
嶋:ヨッピーさんはその頃はまだサラリーマン時代ですよね。