EVENT | 2020/01/16

ネットメディアの変遷と未来をウェブ編集者・中川淳一郎氏と語る!ネットはもはやバカや暇人のものじゃない?【FINDERS SESSION VOL.8】

昨年6月28日の「FINDERS SESSION VOL.8」では、ウェブ編集者の中川淳一郎氏をお招きして開催した。
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昨年6月28日の「FINDERS SESSION VOL.8」では、ウェブ編集者の中川淳一郎氏をお招きして開催した。

「NEWSポストセブン」など数多くのウェブメディアで編集者として活躍し、『ウェブはバカと暇人のもの』や『ウェブで儲ける人と損する人の法則』などの著作やコラムで時勢のネット論を展開してきた中川淳一郎氏。

そんな中川氏とFINDERS編集長・米田がネットの歴史を振り返りながら、これからのネットメディアの未来について探った。当日の模様を抜粋の上、レポートしたい。

取材・文・構成:庄司真美 写真:神保勇揮

中川淳一郎

編集者・ライター

1973年東京生まれ。編集者、ライター、PRプランナー。一橋大学商学部卒業後、博報堂CC局で企業のPR業務を担当。2001年に退職後、フリーライターや雑誌『テレビブロス』の編集者を経て、『NEWSポストセブン』などさまざまなネットのニュースサイトの編集者となる。著書に『ウェブはバカと暇人のもの』、『凡人のための仕事プレイ事始め』、『ウェブで儲ける人と損する人の法則』、『内定童貞』などがある。

インターネットの歴史と変遷を追う

まずは1991年にティム・バーナーズ・リーが“World Wide Web”を提唱し、インターネットの歴史が生まれた話題に遡り、対談はスタート。中川氏は当時アメリカで暮らし、現地のハイスクールに通っていたという。

編集者、ライター、PRプランナーの中川淳一郎氏。

中川:運動部でプロムパーティーに嬉々として行くようなかっこいい奴らの傍で、僕らはオタクの巣窟であるコンピュータ部で、BASICでプログラムを書いてたので、“World Wide Web”について知ってはいました(笑)。

米田:早い(笑)。中川さんと同じ歳だけど、僕は当時はPCにもふれていませんでした。その割には中川さん、未だにガラケーを愛用してますよね(笑)。そして94年にAmazonが登場します。2000年、アマゾンジャパンが設立された当時はもう社会人ですよね。何かエピソードはありますか?

中川:Amazonの広報のお手伝いをしたことがあります。記者発表前にAmazonの日本上陸がバレないように、「スマイル」というコードネームで呼んでました。とにかくすごい会社が来るという触れ込みでAmazonのロゴマークの矢印のみをDMの封筒に貼ったら、社名を明かさなかったにもかかわらず嗅ぎつけたメディアが大勢集まりました。以降、日本で一気に始動したかたちでしたね。

米田:やはり節々でインターネットの歴史に関わっているんですね。意外にも95年と遅めに設立したのが、Yahoo!でした。Yahoo! JAPANが96年、その翌々年にGoogleが設立し、このあたりでだいぶ役者が揃ってきた感はありますが、まだ今のGAFAのような巨大企業にはなっていませんでした。

中川:振り返ると当時は、InfoseekやLycos、Alta Vistaで検索していた時代でしたね。2003年にできた「はてな」は当時、“日本のGoogle”とか呼ばれていたけど、結局、GAFAにはなれなかった。

米田:ITジャーナリストの梅田望夫さんが『ウェブ進化論』で書いた、Web2.0に基づくネットの幸福論のような明るい未来は来なかったですからね。少し時代を逆戻ると、ブロードバンドという言葉が出始めたのが2001年でした。当時、X JAPANのYOSHIKIがなぜかADSLを普及させようとしていたのを覚えています。

中川:そうだったんだ?(笑)。この頃、PC雑誌のライターが「夢のブロードバンド“ADSL”がやって来るという企画をやる」なんて話をしてました。その前だとISDNで、ネット通信中でも電話できるのが売りでしたよね(笑)。

米田:テレホーダイ※の時代、懐かしいですね。夜中の12時になると、みんな一斉にピーピロピロ……とネットを始めるという(笑)。※23時から翌朝8時まで通話時間に限らず通話し放題のシステム。

中川:そんなこと、若い人は知らないですよ。じじいの思い出話はやめましょうよ(笑)。

2002年に到来した「ブログ時代」

米田:次に大きな波となったのが、2002年のブログ時代。Movable Typeが開発されたことは大きかったです。個人が発信できるツールという意味では、2002年がブログのメモリアルイヤーだったんじゃないですかね。

中川:「さるさる日記」とかいろいろありましたよね。それまではオタクのイメージが強かったインターネットですが、アメブロやココログで眞鍋かをりや古田敦也などの有名人がブログをやり始めて、2006年以降はアメブロが本格的に芸能人の公式ブログを開始します。一気にネットが大衆メディアになったことから、オタクのイメージが払拭されました。そこからTwitterが始動するなど、今につながっていると認識しています。

牧歌的な独自ワールドがあったTwitter

米田:mixiが日本人にとっての初めてのSNS体験でしたよね。

中川:そうだと思います。一方で、GREEは意識高い系の人ばかりやっていたイメージです。渋谷勤務の人が集まるコミュニティで「ビジネスランチしましょう」などという意識の高い誘いがしょっちゅう来てましたよ。

米田:当時の思い出が蘇りますね(笑)。そして2005年には新たな黒船として、YouTubeがサービスを開始するわけですが、これもかなり大きいですよね。翌年、Twitterをはじめ、ニコ生やニコ動がサービスを開始します。でも、2006年時点では、Twitterはそれほど主流ではなかったですよね。

中川:日本では、2007年頃に百式の田口元さんや津田大介さんを筆頭にギークな人たちがTwitterを始めました。爆発的にTwitterが来たのは、2009年7月だと認識しています。その段階で芸能人の中で使っていたのは水道橋博士や広瀬香美くらい。7月に広瀬香美が勝間和代さんにTwitterの使い方を教わりながら、「(twitterのロゴを見て)“ヒウィッヒヒー”って何?」というやりとりをTwitter上でしてましたからね(笑)。

広瀬香美なんてその後、『[ビバ☆]ヒウィッヒヒー』という歌を作って、なぜか一切声を出しちゃいけないTwitterライブまで開催し、それをみんながカラオケでツイートして感想を言い合うという謎のイベントもあったんです。それを嬉々としてIT系のメディアが取り上げ、「今、Twitterの時代が来てる」といったニュース記事を発信していたのが、2009年の話です。

米田:ある意味、2009年は一番Twitterが楽しかった時代かもしれませんね。

中川:広瀬香美に対し、「誰かのツイートを引用する時はRTと書くといいんですよ」なんて誰かが先輩面して教えてあげるような独特なワールドがありましたからね。当時、企業が会見をUstreamで中継するのがブームになって、これを初めてやったのが日産自動車でした。以来、各社やり始めたものの、回線は安定しないわ、無慈悲にも「視聴数120」とか微妙な数値が出ちゃうわで、みんな一斉に止めてしまう流れに(笑)。結局、最初にやった日産だけが漁夫の利を得たという話ですね。

iPhone発売のビッグウェーブで怒涛のようなネット時代へ

米田:2007年はiPhoneの発売開始というビッグウェーブが来るわけですが、ここから10年くらいの動きは怒涛です。2008年にはChrome正式発表2010年にはiPadの発売で、電子書籍元年となります。そしていよいよ、Facebook、Twitter、LinkedIn、Instagram、Tumblr、Vine、Google+、Evernoteが登場します。

中川:この頃のネットはまだまだ牧歌的でした。新しいツールが出るたびに、Evernoteなどの攻略本が出版されていた時期ですね。

米田:攻略本、量産されてましたね(笑)。そしてプロブロガーやYouTuberが職業として認知されるようになったのが2010年だから、実はまだ9年の歴史しかないんですね。

中川:すでにYouTuberの業界では、今から参入しても上位以外は浮上できなくなっています。数年前、チェーンソーを持ってヤマト運輸に押しかけた男が逮捕されたニュースがありました。この犯人は、実は8年くらいYouTuberをやっていて、その間稼いだ総額がたった46万円という報道が衝撃でした(笑)。それでもYouTuberの上位15%の中に入っていたそうです。

米田:YouTuberと呼べるのか微妙ですよね(笑)。そして、いよいよ2013年に巻き起こったバカッター騒動。これは中川さんの専門領域でしょう。

中川:ようやくネットと現実が融合したバカッターですね。実はここから先、あまりネットは進化していないんですよ。

米田:いわゆる“アーリーアダプター”※で、ITリテラシーが高い人が2011〜2012年あたりまで使っていたのが、ネットユーザーの本質だというイメージです。それからガラッと変わって、マイルドヤンキーも含め一般に裾野が広がり始めて、いわゆる“バカッター”みたいなものが生まれたんじゃないかと思います。※新たに登場した商品やサービス、ライフスタイルなどを早期に受け入れ、ほかのユーザーへ大きな影響を与えるユーザーのこと。

中川:確かにネットユーザーは庶民化してバカにはなりました。でも、最近は、長い記事に対しても的確な突っ込みが入ってくるし、バカッター以降、ネットの活字に触れる人が爆発的に増えて、きちんと文章を読み込むリテラシーのある人がネットに参入してきたというのが僕の実感です。

と言うのも、ガラケー時代は400〜800字程度の記事が大多数でした。当時は、辻希美がウインナーを料理に使い過ぎるとか、ガチャピンとムックがけんかしたといった、くだらない400字程度のバカ記事がバズっていた時代でしたから(笑)。そういう意味では、絶望的な状況から脱したんじゃないかと。

米田:僕もそう思います。続いて2016年は「ポケモンGO」が世界的に流行して、ゲームやARの世界に新しい動きがありました。

中川:これは芸能界屈指のゲーマーで知られる故・淡路恵子さんが望んでいなかった未来でしょうね(笑)。彼女は生前、「誰ともドラクエをやりたくない。私は1人でクリアしたいんだ」と言っていましたから。「ポケモンGO」はイベント化され、プレイヤー同士のコミュニケーション機能もあるから、好き嫌いがはっきり分断したきっかけになったと思います。

中川氏、まさかのウェブ編集者引退宣言!

米田:そして2018年に「はてなダイアリー」が終了し、はてなブログへ統合。哀愁を帯びていますよね。

中川:その決定打が、一昨年のHagexさんの殺害事件だったと思うんです。僕はHagexさんのブログを起点にはてなを見ていたところがありました。それから昨日、表参道でぐるなびが運営していた食関連サイト「みんなのごはん」の閉鎖にちなんだお別れ会があって、会場にはヨッピーさんなどの人気ライターも大勢来ていたのですが、実にしみじみとしていました。背景には、ぐるなびの経営悪化があります。2010年代を代表するサイトがこんな状況になった悲しさがありますよね。

米田:実は、FINDERSもはてなとコラボレーションする予定でしたが、Hagexさんの事件があって一旦立ち消えました。

中川:HagexさんはIT講師をされていましたが、実は僕も先日から、雑誌協会の加盟者の人たちを対象としたデジタル編集のゼミの講師を務めることになりました。そこで僕が言ったのは、「この手の講師業自体、来年くらいまでに終わる」ということ。

なぜなら、インターネットは誰もがアクセスできる日常のものになり、インターネット特有の編集術を教えるフェイズになったということは、これからオワコンになるということです。メディアに若くて優秀な人がいっぱい参入してきてるし、もうロートルの僕には通用しなくなるから、実は来年僕、ウェブ編集者を辞めるつもりなんです(笑)。

米田:えっ、そうなんですか!?

中川:数年前まではネットニュース編集者の中川淳一郎という立場が、まだ輝きを放っていました。自書『ウェブはバカと暇人のもの』を2009年に出せたことは、やはり一目置かれるきっかけだったと思います。でも、僕はただ事実を書いただけ。そこからさらに10年経つと、ネット事情に詳しい人なんて、中目黒事情に詳しい人と同じくらい普通です。つまり、ウェブの論調に詳しいなんてことは、みんなが感じていることを言語化するだけなので、大したことではなくなってるんですよ。

米田:紙媒体からウェブ業界に行って、ウェブは誰もができるメディアだからプロがやるものじゃないといった3段階が中川さんには見えてしまったということですね。

中川:はっきりと見えました。僕のウェブ編集者としてのキャリアはさっさと終えた方が、晩節を汚さず、一応勝ち逃げできると判断したということです(笑)。ということで実は僕、博報堂に戻るんですよ。ヨッピーさんと僕が博報堂で業務委託として週1で出勤するという前代未聞のプロジェクトがありまして。

アメリカ大統領選の裏側で現地DQNの本音をレポート

米田:出戻りじゃないですか(笑)。博報堂に戻って、どんなことをするんですか?

中川:ウェブ関連業務のプランナーです。実は博報堂にはそんなに長くはいませんが、その後はアメリカに引っ越し、在米ライターとして活動し、次期大統領選でトランプが勝つか勝たないかを予想します。僕はミシガンかイリノイあたりのDQNしかいないようなエリアに行くんです。地元のスポーツバーでDQNにまみれながら、酒を飲んで酔っ払い、「Bulls win!Mother-fucker!(シカゴブルズが勝ったぜ!いぇい!)」とか言うのが今から楽しみですね(笑)。

米田:いわゆる“ラストベルト”ですね。でも、シカゴは大都会じゃないですか。

中川:行くのはシカゴの郊外のDQNが多いエリアです。ウェブ編集者を13年以上やって、そろそろメディアでの仕事がきついと思いつつも、誰も取っていない情報が取れたら、強みになるのではないかという期待がまだ僕にはあるんです。ニューヨークやワシントンDC、ボストンをはじめ、東海岸は各大手メディアの支局がきちんと機能しています。空いているポジションは中西部だろうなという目論見です。

米田:確かに西海岸にはすでに映画評論家のの町山智浩さんなどがいるけど、中西部にいるフリーライターは聞いたことがないです。しかも、DQNを取材するのは新機軸ですね(笑)。アメリカには、どのくらい滞在するんですか?

中川:2年の予定です。それから、日本人のマイナーなメジャーリーガーの通訳を買って出て、専属ライターをやりたいんです。だって、どのメディアも田中マー君、ダルビッシュ、前田健太にしか取材しないわけでしょう。そして、ラストベルトのDQNを描いたベストセラー本『ヒルビリー・エレジー[アメリカの繁栄から取り残された白人たち]』のように、DQNの実情を描いたノンフィクションを出版したいと思っています。「ヒルビリー」とは、英語で“田舎者”という意味です。

米田:アメリカの開国以前からの階級の歴史が書かれた『ホワイト・トラッシュ―アメリカ低層白人の四百年史』みたいな感じですか?

中川:近いものがあります。『ヒルビリー・エレジー』の著者J.Dヴァンスはラストベルト出身のアメリカの白人だけど、たまたまロースクールに行って自分のオフィスを構えることができた、地元ではめったにいない成功者です。すさまじく荒んでいた周囲の実情を描いたノンフィクションですが、日本人の目から見たアメリカのDQNがどんなものなのかを僕はきちんと書きたいんです。アメリカに行ったら黒人、白人がそれぞれ通う教会に行って、そこで地元の人と知り合っていろいろ話を聞くつもりです。

米田:僕もウェブメディアの編集長をやって、大学でメディアについて教えてますけど、中川さんの話を聞いていたら何だか焦ってきたよ(笑)。

中川:僕は決して、ウェブメディアの未来を悲観しているわけじゃないんです。ウェブメディアはこれからも興盛するし、メディアが増えれば広告費が落ちて過当競争が進むでしょう。今後どんどん優秀な人が参入すると思われる、これからのウェブメディアの中で生き残る自信が僕にはないという話です。

僕は誰もウェブのことを分かっていない時代にウェブ編集者を始めて、サイバーエージェントともお付き合いがあったので、メルマガやアメブロもたくさん制作してきました。そんな時代を経て、ニュースサイト「AbemaNews」などの立ち上げにも参画できた。でもそれは、ウェブの文脈を理解していない人が多い時代だから勝てたんです。

2010年から「NEWSポストセブン」の編集にもずっと携わってきましたが、あれは出版社が本格的に発信する初のネットメディアで、初期の頃は先行勝ち抜き馬的に他を圧倒できたし、今も黒字経営を続けています。でも、今後たくさん面白い人がメディアに参入していく中で、46歳になる僕が、この先10年やっていける仕事かというと、自信がなくなったんです。

米田:なんか今日、悲しい話で終わりそう(笑)。あとは若い人を信頼して仕事を任せながらメディアを再生していくしかないですよね。僕もむしろ若い人から教えてもらいたいくらい。

ソーシャルメディアやブログ、YouTuberなどが大方出揃った今、YouTuberやTikTokerなどが、貧困や孤独にあえぐ人などの弱者の救いのツールになればいいなと思っていますが、中川さんはどう思いますか?

中川:ものすごく同感です。TikTokは若者が主流のツールで、今日本で一番フォロワー数が多いのはひなたさんという11歳の少女です※。一方で、42歳くらいのはげおやじが、TikTokで「おっさんぎーにょ」というIDで現在8万人もフォロワーがいます※。つまり彼は、若者が主流のTikTokerで、おっさんのカテゴリーにおいてナンバー1のポジションをとったわけです。※編集部注:2019年6月時点

今後はカテゴリーが多様化し、生活保護の受給者がYouTubeやTikTokでリアルな実情を報告すれば、「こんなに苦しいんだ」とみんなが納得し、生活保護に対する理解が深まるんじゃないでしょうか。

アメリカに行ったら動画を活用するために、ついにスマホを持ちますよ(笑)。アメリカの貧困層の家にお邪魔して、トランプの支持者はこんな人たちだということをリアルな動画で伝えられたらと思います。

米田:ウェブメディアの生存戦略論というよりも、中川さん個人の生存戦略論が今日の結論かなと。旧日本兵やベトコンばりにゲリラ戦で大手メディアと戦ってる『FINDERS』も踏ん張らないと(笑)。